平成17年度あしたのまち・くらしづくり全国フォーラムの内容
全体会
パネルディスカッション「被災体験をコミュニティづくりにどう活かすか」

【パネリスト】
河 合 節 二  兵庫県・神戸市野田北ふるさとネット事務局長
楓   るみ子  兵庫県・南あわじ市おはなし会ピノキオ代表
関   良 策  新潟県・あしたの新潟県を創る運動協会副会長
【コーディネーター】
中 川 幾 郎  帝塚山大学大学院法政策研究科教授

 阪神・淡路大震災と新潟県中越地震の経験を踏まえて「被災体験をコミュニティづくりにどう活かすか」をテーマにパネルディスカッションを行った。このなかで「地域の中で課題を共有するために、老いも、若きも、男も女も、外国人も、月に1度は、みんなで意見を出し合う、柔らかい場をつくり、そして“面識社会”にしよう」という提案があった。日常のコミュニティ活動は、災害という非日常的な場合に活かされている。コミュニティがしっかりしている地域では、震災直後も、復興期もしっかり機能を果たし、「復興が早くなっている」という実感のこもった発言があった。しかし、コミュニティの密接な人間関係より「隣りは何をする人ぞ」という気楽なほうがいいという風潮がある。こうした人たちのコミュニティ活動の大切を今後、どのように分かってもらうかが、これからの課題となった。(文責・協会)


中川 今日のテーマは、「被災体験をコミュニティづくりにどう活かすか」で、3人のパネリストで話合う。最初の発言は、「これだけは言いたい」という点からお願いする。

河合 私たちの地区は、JR鷹取駅の南東部にあり、木造密集地域で、高齢化率が高く、災害に弱いと言われていた。10年前に阪神・淡路大震災で、家は、ほとんどが火災の焼失と倒壊した。今日、街がようやく元に戻ってきている。
 地域には「顔の見える関係」、つまり、どこに、どなたが住んでいるかの近所の繋がりがあった。地震の発生後、すぐ救助活動が始まった。「平素から隣近所が仲良くするのが防災活動の根幹である」と考えている。
 震災復興には、行政と話合いをしていかなければならない。コミュニティの強いところは、行政との交渉事がスムーズに行われ、復興も早くなった。エゴ丸出しでは駄目ということである。
 私たちの野田北部は、壊滅的な状態だったが、すべての事業で先頭を切ったお陰で、街並みがそろうようになった。他地区では、そこまでいっていないと思う。
 これからも、コミュニティ活動をさらに強化していく。日常の活動を非日常に活かし、そして、非日常の経験を日常にとり戻すコミュニティ活動をさらに深めていくことである。

中川 エゴ丸出しでは駄目だ。ある程度、行政との交渉能力を持った、コミュニティをつくっておくこと、住民の要望をあれも、これも希望するのでなく、コミュニティ中で調整能力を持つことが必要である。そして、日常の中で、非日常の災害を取り込んだまちづくりをしないといけない。災害に太刀打ちできないという話でした。

 阪神・淡路大震災では、淡路は北で結構被害があったが、南は被害が少なかった。
 淡路は、“中央構造線”が、走っているので南海地震の津波の心配がある。南海地震になると南淡の被害が大きくなると予想されている。
 日常生活に密着した地震に強いまちづくりをみんなと一緒に進めていかなければならないと思っている。しかし、地域の人の反応は……。津波がきても「ここまでしか水はこない」から大丈夫、大丈夫という感じである。それでも、いざという時に対応できるように、10年間活動をしてきた。

 全国みなさんに支援のお礼を申し上げたい。私は、5月から9月まで被災地でインタビューしたので、その中から4点申し上げる。
 第1は、被災者であっても被害者ではない。被害者というのは、県や市町村の行政の対応が悪いという気持ちを持っている人。被災者は、そういう気持ちをほとんど持っていない。
 震度7の地震に襲われても、くじけず、互いに助け合い、また、支援をしてくれた人々には、感謝の心を表し、お礼を申し上げている。これは、雪国に培われた精神風土のように思う。
 第2は、中間山間地に発生した直下型の地震で、中間山間地の多い日本にとっては、大きな教訓となり、参考となる。この中間山間地は、魚沼こしひかりの産地が、この地であるように、水や食糧資源の供給地。自然循環系の要になっており、伝統文化もいろいろとあるのが中間山間地である。
 第3は、地域で声をかけることの大切を実感した。川口町の武道窪地区が震度7の震源地である。火事には、地域のみんなで消火活動を行い、そのうちに「おばあさんが家の下敷きになった」という連絡に救助に向かう。集落のわずかな人数があっち、こっちと駆けずり回り救援活動など行った。
 そして、その一つ一つの仕事が終わると「なにしょ」(「何をしようか」という意味)とリーダーに問う。これにリーダーは、うれしかったといい、これこそコミュニティだと思ったという。
 最後は、自立ということについてである。「自己完結」のなかだけの「自立」は難しい。お互いに依存し合い、いろいろな力を貸してくれる人と関係を持つ。関係の豊かさの中にある自立が、大切であるということを痛感した。

中川 関さんが突っ込んで指摘してくれたのは、地域で声をかけることとの大切さプラス「なにしょ」という言葉がある。これは、都会の人間には、なかなか出てこない言葉である。都会では、誰がなにをしてくれるの、役所がなにをしてくれるのかになる。この「なにしょ」は、「私はなにをしたらいいのか」ということで、こうした言葉が出てきた。個人的な自己完結では限界あり、関係の豊かさの中にある自立という発言だった。これは「なにしょ」の精神と繋がっている。「一人は万人のために」の精神である。
 個人の自立は、自由主義的、個人主義の精神であるが、これだけでは限界があるということを示している。「私は、みんなのために何ができるか」ということを今回の震災が教えたと話してもらった。これは共和主義の精神だと思う。自由主義ばかり言っていると災害に弱いということになる。

中川 行政の立場ではどうなるかを発言させてもらう。阪神・淡路大震災の時は、大阪府豊中市の広報課長だった。
 豊中の被害は、神戸ほどではないが、都市部の被害は凄まじいものである。大災害が起きると役所も被災者になる。
 私は地震が起きて役所に駆けつけたのが7時前だった。役所で茫然とした。5階建ての建物の基礎柱の4本のうち3本までひびが入っていた。3階から上の窓ガラスは、粉々に割れていた。部屋の中は、机、パソコン、戸棚などがぐちゃぐちゃになり、足の踏み場もない状態だった。職員に非常呼称に、その日に集まったのが、4分1強。電話もダウンしてつながらない。3日間は再起不能と思った。1週間くらいからようやく5割以上の動きとなった。初動期は、役所を頼りにならない。
 後で分かったことだが……。自治会・町内会の役員たちが―自分たちも被害を受けて大変な状態なのに―小学校や中学校の体育館に避難した被災者のために炊き出しを開始した。自分たちの力で避難所を経営した。20日以上続き、これで行政は助けられた。
 災害の1番バッターは、コミュニティだと痛切した。2番バッターは、個人のボランティア、3番バッターは、災害救援を組織しているNPO、4番目にやっと行政というのが普通である。初動期には行政は無力であり、役所は、中盤から復興期に威力を発揮する。

中川 第2ラウンドに入る。もっと具体的にどんなノウハウや知恵があるか。
 被災後における救援活動のあり方、自立復興におけるコミュニティの役割、被災体験を活かした被災前における防災対策など河合さんから。

河合 地震直後、火災で地域が燃えていたが、地域のリーダーが、みんな元気だったので対策本部を立ち上げ、区役所に自転車で行き、職員に「駅前に本部を立ち上げたから」と言った。
 電話も自動車も使えない、火災が広がり、家の下敷きになっている人を助ける。こうしたことをやりながら、行政サイドに生存情報を流す。そうすると何が起こるか。
 災害の物資は、受け手がないと送れない。初期の段階は、小・中学校や公民館などが避難場になっているが、そこの情報が行政に伝わらないと、物資が配れない。リーダーが考えたのは「われわれは、生きとるぞ」ということだった。駅前には受入れ体制があるから、救援物資が持っていけるということになり、その日のうちに物資が入った。
 コミュニティが豊かであると地域の人がどこに避難しているか分かる。「あっちの小学校」「こっちの中学校」にと本部を拠点に物資を配る。初動機は、役所に頼らずに、地域で対応した。「私はここにいる」という情報を出していかないほったらかしされる。

 被災者は、日常的に認知が高い空間に避難する行動が確認されているので、地域防災では、想定できる避難空間を日常生活の中で認知しておくことが重要になると活動している。
 地域の防災能力向上のため、地域内の空間認知を高める仕組みづくりとして、風土資産を活用した健康づくりを実践している。地理の理解を深めることを狙いに、地図上で写真及び風土資産までの距離をしめし、日ごろの健康歩数と防災への意識を高めている。

中川 河合さんと問答をしてみたい。
 震災の時は、私は行政職員で、ブルーシートを配る仕事をした。凄まじい壊滅戸数なので手持ちでは、全戸に配給には足りない。早い者勝ちというのもおかしい。公平にするために配るのをやめるべきだという考え方がある。食料配給でもそんな考え方があり、これについてどう思うか。

河合 避難所など全員に渡らない食料は配れない。

中川 先ほどおっしゃたように、「情報を方が出さないほうがわるい」「情報を出さないとほったらかしにされる」ということからどうなるか。

河合 われわれも情報を集めるために動く。各避難所や焼け野原、倒壊家屋に連絡先がある場合には、どこにいるかを把握した。そうしないと、行政の情報が入らなくなる。
 情報を自分で出さない人に限って「聞いてない」と文句を言ってくる。

中川 これは災害避難住宅に入る場合でも行政は、非常に苦しむ。どんな順番でするか。困っている方を順番に入れる。そういうルールで入ってもらうと、後になって近所の人間を固めるべきではないか。避難住宅がコミュニティを壊してしまったという批判を受けた。こんにちは、「公平」「平等」だけでの一つだけのルールでは通用しない時代である。避難住宅への入居は、地域の特性を活かしたものにする、みんなが納得できるものにすることだ。

河合 長田は高齢化率が高く、これが高い地域ほど被害が大きかった。長田では、地元に公営住宅が建設できる用地が少なく、郊外などに行った。
 ほんとは、コミュニティごとに避難住宅に入りたかったが、都市の災害は被災者が多く、それだけの用地が確保できず、できなかった。

 地震直後、復旧期、今後の問題と3つに分けて申し上げる。
 地震直後の48時間の対応がある。この間は、行政、警察、消防もこない。このため地域の人たちがこの災害にどう取り組むかということになる。
 初動期にいくつかの問題がはっきりした。市町村が指定している避難所の体育館の天井が落ちて入れない避難所が多くあった。避難所としてビニールハウスを使う、外にテントを張るなどで避難所にしていた。また、旅行や体が弱いなど対応できない地区の会長がかなりいた。このため、会長が不在の場合は誰が判断するか、第2避難所についても計画に入れておくことである。
 避難する場合には、全員が避難したか確認する必要がある。うまくいったところは、消防団が一軒一軒回って確認している。都市部の長岡では、「避難しました」と玄関に旗を立てることにした。
 地震では、こうしたローテクとハイテクをうまくつかっている。ハイテクでは、FMラジオ、ケーブルテレビ、携帯のメール。
 すごかったのが、スーパーの協力。今回の地震では、自家用車で寝る人が多かったが、その車をどこで駐車させるか。大きなスーパーが駐車場を開放してくれた。そして、食料品も出してくれ大変協力的であった」。都市部では、こうしたことが可能だった。
 地震直後にみんなで食事をつくった地域もあった。米や野菜はあるが、なべや釜がなかった。コミュニティが充実しているところは、なべや釜を料亭や食堂が提供してくれた。避難所で一番大事なのはトイレ。地震直後は、トイレづくりが大事である。
 仮設住宅に入るには、どういう優先順位で入るか。阪神・淡路大震災の教訓を大いに活かしたことである。集落単位、つまり、コミュニティごとに入る、仮設住宅はできるだけ被災地に近いところにつくろうということだった。また、仮設住宅での生きがい必要と考え、全地域が避難した山古志村では、“家庭菜園”をつくり、みんなで野菜をづくりという楽しみをつくった。
 今後の防災対策としてのコミュニティの役割のなかで、防災訓練をどのようにするか。行政で企画する防災訓練は、一定のパターンがあり、そのことばかりをする。被災体験からこれまでの訓練になく、もっと大事な訓練がある。一軒一軒に声をかけるなどの初動の訓練である。

中川 都市部では、見守りとプライバシーをどうバランスをとるか、ということがある。
 「奥さん、お米かして」というような近所付き合いをしている人がどのくらい残っているか。「隣りは何をする人ぞ」のほうが気が楽だ。果たしてコミュニティは、それでいいのか。コミュニティを回復していったら、密接な人間関係に耐えられないということはどうなるだろう。かといって、災害で死にたくない。このバランスがあるではなかろうか。

中川 質問と回答に入る。私への質問から。
 「災害への対応だけでなく様々な意味で“高齢者の住まいマップ”をつくろうと民生委員に相談した。丸秘事項なので教えることはできないという回答だった。都会での対応のむずかしを思うが、よい案があれば」
 これは、自治会などで相談して、「公開していい」ということになれば実行可能。しかし、民生委員という行政関係者に相談すると、こういう答が返ってくる。

河合 「炊き出しのための備蓄食料はどうなっているか」
 私たちの地域では、災害に備えての備蓄はなかった。冷蔵庫の品も有効に使っていない。みなさん茫然自失であった。避難所への誘導があり、着の身着のままで避難所に行った。
 区役所では、備蓄しているが、それは、地震発生3日後くらいに使えるかなというところだ。
 次の質問は、「県外のボランティアが、被災地に行ったときに困った。どんな準備をしていったらよいか」
 私たちの地域では、地区にある鷹取教会に鷹取救援基地を震災直後につくり、広域的なボランティアの拠点ができ、地域とも連携をとりながら活動を進めた。地域に受け入れの状況がない場合の押し売り的なボランティアにこられると困る。

中川 阪神・淡路大震災の経験から ボランティア受け入れの窓口がばらばらであった。行政や社協、NPOなどを含め“公民一本化”するのが、阪神・淡路大震災の教訓であった。
 水害の体験から次の意見もあった。
「昨年7月福井県内で水害にあったひとり。先頭に立つ自治会長も被災したので、炊き出し、避難所、ボランティアの受付、救援物資の受け入れを一時は一手に引き受けた。こうした中で、被災者と行政とのコーディネーターの必要性を痛感した。今後、どのような組織づくりが望ましいかが課題だ」

河合 「被災初期に地域が自主的に動くということだが、日常でどのよう話合いの持ち方がよいか」という質問。
 地震が起きる2年前に、まちづくり協議会を立ち上げ、密集市街地の住環境をよくしょうと活動に取り組んでいた。この間、公園や道路などのハード整備をやってきたが、そこに地震が起きた。まちづくり協議会があったから地震の時に動けた。この組織は、「まちをどうしょうか」という話し合いの中でうまれたものである。

中川 コミュニティとは、特定目的のために組織しているものではない。コミュニティは、「いつでも」「どこでも」「だれでも」がなんでも共有し、解決するために、団結し、助け合っていく組織。この活動は、全日制、全世帯対象、多数決で物事を決める集団ではない。であるがために、少数や弱者のことを優先的に考えるルールが必要である。関さん災害に強いコミュニティづくりをどうするか。

 その前に行政のことを話す。長岡市、小千谷市で被災対策をするときに役立ったのが、神戸市の行政のみなさんの力であった。指南役が派遣され、具体的に対策を情報提供してもらい、仕事がスムーズにいった。
 日ごろのコミュニティ活動が重要である。いざという時に、リーダーの指示にしたがうことが必要である。そのためには、日ごろの人間関係である。

 日ごろの活動を通じてコミュニケーションを図り、まちづくりをしていくことだ。
 地域の人に動いてもらうには自分の住んでいるところが好きであり、誇りに思うことが一番である。「こしたい」ということがあれば地域の人たち動くのではなかろうか。

河合 まちづくりをこれまで漠然として進めてきたが、震災の経験からもっとやっていかないといけないと思った。
 そのために、男としては、頭を使って体を動かすことである。それをやっておれば、地域の誰かが見ている。文句があれば、言ってくるし、文句がなければそれが地域にとってプラスになる。地域のお母さんを大事にしようと考えている。まちづくりは、裏方で支えているお母さんたちが、認められるようにしようというと考えている。そして、老いも若きも動ける環境になってきた。
 また、イベントなどを通じて、顔の見える関係にならないと若い人が、まちづくりに出てこない。祭りは、裏方が楽しい、この楽しみを若い人たちに伝えてほしい。地域の活動は、イベントなど楽しく継続していくことが大事である。

中川 災害に強い地域をつくらなければ、ならない。日本は、災害続きで、日本中どこでも地震の活発期に入っている、今日の話は明日にも使える知識がたくさんあったと思う。
 結論としては、ばらばらの人間が、一緒に住んでいるだけでは力にならない。地域の中で課題を共有するために、老いも、若きも、男も女も、外国人も、月に1度は、みんなで意見を出し合う、柔らかい場をつくらないと面識社会はできない。