「あしたのまち・くらしづくり2006」掲載
<まち・くらしづくり活動部門>あしたのまち・くらしづくり活動賞 振興奨励賞

海は人をつなぐ母の如し―ふるさとづくりと国際交流―
福井県小浜市 泊の歴史を知る会
美しい村を次世代に伝える

 泊区は、若狭湾の内外海半島の先端に位置する戸数23戸の小さな漁村である。背後には、若狭湾国定公園の天下の奇勝「蘇洞門」があり風光明媚なところである。
 「泊」の地名の由来は、海から来た神様が一泊した地、また、全国の津々浦々から来た帆船が碇を下ろし停泊した所だと伝承されている。村の中心に若狭彦姫神社がある。村の海岸にはハングル文字で書かれた漂着物が多く、区民は生活の中で朝鮮半島とのつながりを実感している。
 海に生かされ山に生かされて生活してきた村の暮らしは精神的に豊かであった。しかし、昭和40年代から大きな変化がおこり、半農半漁、自給自足の生活から、民宿ブーム、レジャー産業、消費経済へと変化してきた。陸の孤島といわれてきた村にとって、生活が便利になることは大きな発展であった。しかし、気がついたら、村の共同体が壊れ始め、共同意識を失い、伝統行事などが廃れ始めた。
 ふるさとを想う村出身の古老の寄付をきっかけに村の海照院を再建、これがきっかけになって、村の共同体再生意識が生まれてきた。「村の歴史や民俗を知り、先祖から継承されて来た伝統行事や、豊かな自然、精神文化を次世代に引き継ぎ、区民の対話、家族の対話のある村にしたい」と、平成8年、有志によって「泊の歴史を知る会」を結成し活動を開始した。


歴史再発見と自主講座開催

 平成8年、フィールドワークで村の史跡見学会から始めた。ここで士気が高まると、次に村の伝統行事の記録、調査に取りかかった。「知るのが一番肝心じゃ」を合い言葉に歴史講座も始めた。「泊かわらばん」を毎回発行し、学びの成果や蓄積は必ず区民に伝えた。毎年、正月には、年間行事や風景写真などを入れた「泊オリジナルカレンダー」を発行すると人気を博した。茶の間の話題は一気に自分たちの住む村の話になった。話が広がって、都会に出ている村出身者からも便りが送られてくるようにもなった。ふるさとは、現地に住んでいる人のためだけのものでなく、都会で暮らしている人にとっても重要なふるさとだという認識が区民の中に広がっていく。


国境を越えてつながった民の心

 ふるさと再発見の活動で最初に取り組んだのが、1900年に当区でおきた外国船の漂着事件「韓国船遭難救護」の歴史である。古老からこの事件があったことは聞いていたが、詳細をたどるような資料の存在は知らなかった。各家の土蔵の中から資料を探し始めた。そして予期しない発見をすることになる。この事件を裏付ける文書を次々と発見したのだ。その中でも一番重要な文書は、土蔵を整理していた1人の古老がゴミを燃やす直前に見せてくれたものであった。危機一髪。間に合った。当時の事件の記録が続々と出てきた。泊区長文書、内外海役場文書、韓国人の礼状、村長の送別の辞、韓国船の係留ロープ等。


韓国船遭難救護の記録を出版

 1900年1月12日、大韓帝国船籍のサインパンゼ号が暴風で遭難し、2週間の漂流の末、泊沖合へ漂着した。93人の乗船者を区民が総出で救護し保護した。結果、全員が無事に本国に帰還できた。時代は、日清戦争、日露戦争のまさに戦争の渦中で起きた事件である。遭難・救護を通して、日韓の民たちは国境を越えて心をつなぎあった。1週間の保護の後、帰国の手はずが整い、村の浜で見送ることになる。老若男女、子どもに至るまで区民は全員集まり、韓国人が別れを述べて涙を流すと、区民も袖を絞るほどに泣きながら別れを惜しんだと当時の文書に記録されている。
 平成9年、文書を活字にして整理し「韓国船遭難救護の記録」という冊子を泊の歴史を知る会で自費出版した。郷土史の資料、歴史教材にして欲しいと図書館や学校に寄贈し、一般にも配布した。出版記念行事として、日韓共同制作の映画「愛の黙示録」を自主上映し、韓国船遭難救護で出会った日韓民衆の心をこの映画にオーバーラップさせた。区外の多くの市民も参加し、この取り組みを機会に活動が広がっていった。
 この記録を読んで感動した韓国人によって、韓国の新聞社「東亜日報」に案内され取材を受けた。韓国に日本の歴史秘話、美談が初めて報道されると大きな反響を呼ぶことになる。


100年目の再会

 平成11年、先に出版した「韓国船遭難救護の記録」を読んで感動した韓国全北大学教授の鄭在吉氏(ソウル市在住)から電話がかかってきた。「日韓の間でこのような話があったことに感動しました。私の父は徹底した反日の人だった、そして私も反日教育を受けて育った。この話を韓国の教科書に載せて紹介したい」と話された。鄭教授はその年5度にわたって泊を訪れ、区民と話をして、100周年記念事業を提案された。
 1900年からちょうど100年目の2000年1月に「100年目の再会」というテーマで、韓国船遭難救護100周年記念事業をすることになった。鄭在吉教授を実行委員長に、泊の歴史を知る会のメンバーが実行委員になって準備をすすめた。
 1年かかって準備の末、イベントの当日を迎える。当時、救護の事務所になった海照院をメイン会場に、区民総出で取り組んだ。村にとって100年前の救護以来の大きな出来事であった。
 漂着の歴史の現場を望む海岸に記念碑を建立し「海は人をつなぐ母の如し」と刻んだ。絵本「風の吹いて来た村」を出版し、日韓の子どもたちが肩を並べて読めるように、日本語とハングルで表記した。日韓の子どもたちがお互いの国の伝承遊びで交流した。韓国の教科書や韓国の民族楽器の展示。韓国から大人、子ども含めて20名の参加者があり、ホームスティを通して親密な民際交流が行なわれた。県内外からの参加者も含め、150名を超える参加があり、会場は熱気に包まれた。
 区内でのイベントだけでなく、2日目は、市内のホールを会場に多くの市民の参集を得て熱気が広がった。記念碑の除幕式、記念式典、記念講演、演劇、古老と語る会等、イベントは3日間とも盛況であった。


一隅を照らせば世界につながる

 記念事業は、その後の交流の始まりとなった。平成13年、韓国の浦項水産高校の生徒・教職員を含む50名が実習船で来航し、この小さな村の記念碑を来訪し区民総出で歓迎した。次の年もその次の年も来航、今日まで交流が続いている。韓国麗水市や慶洲市より市長始め行政や大学関係者も多く来訪。海洋少年団の子どもたちも多数この小さな記念碑を訪問した。
 京都韓国学園、兵庫県立湊川高校始め、国内の団体も多数来訪、その数は公式訪問だけでも1300名を記録している。訪問記念にムクゲを植樹、小さな公園には植樹されたムクゲがすでに90株も花をつけている。この公園をムクゲの花でいっぱいにしたいという夢や目標をもって、ホームページでも呼びかけている。遠くは九州からもムクゲを植樹してくれた方もある。
 中には、空き缶や弁当の殻を捨てていく釣り客もいる。一方、ゴミ拾いをする区民も増えてきた。清掃をしながら楽しい語らい、笑顔が広がり、ふるさとを愛する心が広がっていく。この美しい風景の中に子どもたちは遊び、祖先の魂も遊ぶ。やがて私たちも祖先になってこの美しい風景の中に遊ぶのだろう。区民意識が変わると村中の美観も少しずつ増えていく。村の平安や区民の笑顔が広がり、訪問者が増えてきた。


地球郡アジア村字泊

 村の入り口に案内看板を設置、ハングル文字で表記した歴史案内も入れた。歴史講座も継続、国際理解講座も始めた。区民で大型バスを借り上げ、雨森芳洲の善隣友好の精神を受け継いで日韓交流の取り組みをしている滋賀県高月町雨森区を訪問見学、交流した。「住みたくなる町3600」の指定をきっかけに、ほかの地域と交流して情報交換するようになる。その中で様々な課題も見えてきた。歴史の記録に留まらず、鎮守の森の保護など村の環境美化に取り組み始めたのもこの頃からである。


未来に残したい漁業漁村の歴史文化

 平成18年、記念碑が水産庁の「未来に残したい漁業漁村の歴史文化財100選」に選ばれた。最近、この話が道徳の副読本にも採用される。韓国の鄭教授は、韓国の国定教科書に載せる運動を展開している。私は東アジアの地図を逆さにして見ている。日本海は母の羊水のように東アジアの国々をつなぐ。「海は人をつなぐ母の如し」この小さな漁村の小さな記念碑から未来を見つめ、地道な民際交流活動を続けていきたい。
 そんな想いをギターで弾き語り、歴史の語り部をしている。


海は人をつなぐ母の如し             詞/曲 大森和良

海は 人をつなぐ 海は 人をへだてない やさしい 母のような 大きな海
遠い 日のようで 遠い 日ではない 時が 流れても 忘れることはない
嵐の海で 西へ東へ 寒さに震え 死を覚悟した
海の 母に抱かれ 船は 村に着いた まるで 夢のような 奇蹟のような
国を 越えても 心は同じ 人の いのちの 確かなぬくもり
やがて いのちあふれ 船出の 時が来た 袖を しぼるほどに 泣き別れた 人たち
山よりも 高く 海よりも深い 人の 心に あふれる想い

海は 人をつなぐ 歴史の 小さないしぶみ 人の 熱き心 語り続ける
両手 広げ いだいてくれる 光る 海は 母の ふところ
やがて 海を越えて 船で 来たる若者 明日の 国の行方 つないでくれる
海を 愛し 夢はせる 若者 つないで ゆくよ 海の道を
海は 人をつなぐ 海は 人をへだてない やさしい 母のような 大きな海
鳥は 舞う こどもは 遊ぶ 風は 歌う ムクゲは ほほえむ
海は 人をつなぐ 海は 人をへだてない やさしい 母のような 大きな海