「あしたのまち・くらしづくり2009」掲載
あしたのまち・くらしづくり活動賞 振興奨励賞

今やれる青春 社会への揺さぶり 1年1事業
愛媛県伊予市 21世紀えひめニューフロンティアグループ
活動の始まりと「21世紀えひめニューフロンティアグループ」の誕生

 グループの代表を務める若松進一は家の横に私設公民館「煙会所」を造っている。かつて若い頃青年団のリーダーを務め、自らも双海町教育委員会で社会教育をしていた彼は、青年の溜まり場がないことに心を痛め、自宅横にわずか4畳半の囲炉裏を切った手づくり施設を造り、青年たちに広く開放し人づくりやまちづくりを広域的に実践していた。当時は若者の活動がマンネリ化し、過疎化も手伝って青年団や農業後継者の組織離れが進んでいたので、そうした考えを払拭するためセスナ機を4機チャーターし「ふるさとを空から見る運動」という事業を起こした。受益者負担で鳥の目発想への転換を狙ったユニークな事業に12人の若者が参加したが、その報告会を「煙会所」で行なった時、近所の子どもたちを集めて「しめ縄作り」をしていた折、囲炉裏から出る煙が「目に染みて涙が出る」という何気ない子どもの一言が報告され、相次いで出る「鉛筆を削れない子どもたちが多い」「カブトムシが死んだら電池を入れれば動くと言った」などの生々しくも好ましくない子どもたちの言葉に、「こんな田舎でも煙が死語になりつつあるのか」と危機感を抱いた彼らは、「どうすればふるさとを想う感動する子どもを育てることができるか」をテーマに、考え行動する青少年育健全育成・ふるさとづくり集団、「21世紀えひめニューフロンティアグループ」を12人の若者で、昭和56年に組織したのである。
 このグループは規約も役員もない「この指止まれ型」の全県的集団である。対外的な対応の必要に迫られてその後一応代表と事務局長を決めているが、一口株主で平等・協働が貫かれ活動資金は全て会費でまかなっている。発足当時から今日まで「煙会所」を主な活動拠点として、①今やれる青春、②1年1事業、③社会への揺さぶりという三つのテーマと、20年間継続するという大まかな目標を掲げ、今から26年前活動を開始した。


無人島に挑む少年のつどい

 集団結成の大きなきっかけとなったのは「煙が目に染みて涙が出る」という子どもの発言である。そのためには豊か過ぎる現代社会から隔絶した無の中で子どもたちを育てたいという思いから「無人島に挑む少年のつどい」を発想し実行に移した。しかし資金もノウハウも持たないグループの前に立ちはだかる理想と現実のギャップは大きく、挫折や失敗に会い幾度も挫折しそうになった。最初の試練は天候であった。「天に向かってブツブツ言うな。雨の日には雨の日の仕事かある」と、台風接近にもかかわらず強行した無人島キャンプは、「テントは要らない。作ればいい」「メニューなんて要らない」「火は起こせばいい」と非日常を演出しようと試みたものの完全に裏目に出て、プログラムのほとんどが消化できず、おまけに無人島から有人島への一時避難騒ぎにまで発展した。しかし4日間の無人島生活の果てに子どもたちが流した感動の涙は以後の活動の大きな原動力となったことは言うまでもない。
 無人島への入国には大統領のパスポートが必要な「ひょうたん型由利島共和国」と、パロディ豊かに名づけた由利島は、愛媛県松山市の13キロ仲合いに浮かぶ無人島だが、その後サメ出没騒動で退去を余儀なくされた3年間余り(その間は四国カルスト大野ヶ原をフィールドにして「君は大野ヶ原地球人になれるか」というテーマで酪農体験をする「モゥーモゥー塾」を開催)を除けば、毎年100人近くの子どもたちとリーダーが夢と感動を享受した思い出多き島である。紙面字数の都合で割愛するが以下に列記する出来事が記憶に残っている。①子どもたちに最も人気のあった露天ドラム缶風呂、②無人島に開設した郵便ポスト、③メッセージを入れた瓶流し(その後、広島県や福岡県へ漂着した)、④無人島原始の火祭り、⑤足骨折の惨事と海上保安庁への対応などである。


丸木舟瀬戸内海航海

 2年間の無人島キャンプを終えたグループでは、事故回避のための緊張感持続とさらなるステップアップを目指して丸木舟を製作した。長さ10メートル、直径1・6メートルのアラスカ産のモミの木を購入して約4か月間のくり抜き作業の末完成させ、無人島に至る約40キロの瀬戸内海体験航海を経て無事到着し、その年の夏のキャンプは丸木舟による無人島探検を行ない参加した子どもたちを大いに感激させたことは言うまでもない。その後このことがきっかけとなって丸木舟による黒曜石のルートを探る大分県姫島~愛媛県松山市間140キロの旅で古代人のロマンを再現実証したり、丸木舟で高知県仁淀川を太平洋に下る活動にも参加した。


竪穴式住居復元と語り部のつどい

 無人島キャンプ4年目にあたり、無人島で60人が暮らせる直径10メートルの竪穴式住居を松山市束本遺跡をモデルにして建設した。この計画実行には茅1500束、丸太300本、カズラ100束など多くの資材が必要で、その調達と無人島までの搬送、それに野宿4回の作業が必要であったが、いずれも多くの支援者が加わり見事な竪穴式住居が完成し、「語り部のつどい」というプレシンポを行なった。「遠くアフリカを思う」という飢餓体験や栗・稗を食べる「古代食への挑戦」を交えたプログラムは、その後の子どもたちの無人島キャンプのプログラムに多いに生かされた。また白砂青松といわれる瀬戸内海の島々の松の木が、松くい虫の被害にあって枯死していることに心を痛め、無人島にウバメガシの植栽を10年間にわたって行ない、緑の復活をするなど環境教育にも意を注いだ。


埼玉県北本市との交流

 埼玉県は海のない県である。ある青少年に関する研修会で、21世紀えひめニューフロンティアグループ代表の話を聞いた北本市長の心を動かし交流が芽生えた。以後10年間北本市の子どもたちは夏になると愛媛を訪れ、愛媛の子どもとともに無人島キャンプに参加した。そのことがきっかけとなって愛媛の特産品であるミカンを、埼玉に送るみかん交流へと発展し、その交流は細々ながら今も続いている。


廃屋を利用した40回のフロンティア塾

 地域づくりにとってリーダーの資質の向上は大きな意味を持っている。いわゆる人づくりの一環として瀬戸内海を一望できる廃村の憂き目に遭った集落の廃屋を利用して、10年間で40回開催のフロンティア塾を平成3年に立ちあげた。「21世紀への潮流」というテーマで春は青春塾、夏は朱夏塾、秋は白秋塾、冬は玄冬塾を組み合わせ、しかも1回の塾は時計一回り12時間というデスマッチにも似た過酷な塾であった。塾のために家具メーカーに公開質問状を出してアイデアを提供してもらい、組み合わせ自由なブーメランテーブルを製作し、県内外で活躍している著名人を講師にして学習会を行なった。竹村健一さんや永六輔さんも講師に加わり、多い時には100名を超える参加者が自立・自律のための学習に参加、その後それぞれの地域や団体で意欲的に活動を行なっている。


新たな活動の場は人間牧場

 私たちの活動は21世紀までの概ね20年間、まさに20世紀最後の期間を21世紀へのプロローグとして活動したことになる。目標通り20年間の活発な活動に終止符を打ったが、その間に培った気力と知力、行動力を生かすべく人間牧場構想を立ち上げた。それは無人島を場とした青少年育成活動拠点のいわば陸バージョンといわれる研修施設で、無人島・由利島や民俗学者・宮本常一の生まれた周防大島など西瀬戸の島々が一望できる標高130メートルの高台に、海と空とを牧草に見立てたコスモス(宇宙)を連想できる場所なのである。
 拠点施設となっている水平線の家は窓を開けると、海側に張り出したウッドデッキが開放感を高め、心の縛りを解き放つことができるのである。またこの眺望を見ながら足湯や温浴を楽しむ五右衛門風呂や、木を抱き込んだツリーハウス、段々畑の農場など垂直的な発想が湧いてくる。
 人間牧場はオープン以来4年が過ぎたが、5年計画で始めた施設の整備も今夏に建設する釜戸小屋で一応の完成を見るが、子どもたちが発想している木の上に家をつくるツリーハウスなど夢は果てしなく広がりつつある。この4年間地元教育委員会と共催して開いている「おもしろ教室」では、命のリレープロジェクトと称して芋づるから育てる農業体験や、ミツバチを飼育観察したり、さらには高知県馬路村から贈られた樹齢150年の魚梁瀬杉切り株の年輪になぞらえ、年輪塾ネットで結んだ50人余りの会員による年輪塾を開いてフロンティア塾の流れを汲んだ人づくりも推進中である。
 斬新な無人島体験活動やフロンティア塾を中心とした20年の活動を終え、人間牧場活動という新たな里山保存を絡めて始めた21世紀えひめニューフロンティアグループの目指すのはやはり「ふるさと運動」である。少子高齢化がもたらす学校統廃合や限界集落などマイナス要因の多い時代にあっても、未来に羽ばたく青少年を中心に据えながら常に希望の灯を掲げて、サスティナブル社会を構築していく気概があれば、日本の田舎は未来を背負い逞しい青少年を育てるフィールドになるかも知れない。