「あしたのまち・くらしづくり2011」掲載
あしたのまち・くらしづくり活動賞 振興奨励賞

みんなといっしょに―障害者の社会参加プロジェクト―
岩手県田野畑村 NPO法人ハックの家
はじめに
 東北地方では、家事はもとより農、魚作業の補助に女性の労働力の占める役割は男性以上と言えるのに、いまだ男性社会で、町村議会の女性議員は少なく、議会に女性議員の占める割合は47都道府県中、東北6県は全て30位以下です。
 町村議会では女性議員ゼロの議会もあるだけでなく、女性が表舞台に出るという社会環境が未だに整っておりません。特に北東北では優れた活動をしていても自分で情報を発信していない女性グループが多く、この『ハックの家』も活動を始めて15年、やっと自ら情報発信をするために、インターネットにホームページを作りたいという言葉が聞こえてきたほどです。
 ハックの家の代表・竹下美恵子さんも、ご自分の実績を上手に知らせることは苦手なようなので、サポーターの私が、これまでの活動状況をご報告させていただきます。

『みんな』って誰
 平成に年号が変わり、マスコミに『みんな』という言葉が多く見られるようになりました。例えば『みんなの町』『みんなの幸せ』『みんな一緒に』等々、この時この『みんな』とはなんだろうと岩手県の北三陸田野畑むらの竹下美恵子さんは考えてみたそうです。
 それは村の将来を担う赤ちゃん、幼児、少年、現在働いている人々、そしてこれまで村を支えてこられた高齢者と病床に伏せておられる方々・・・。
 これで全員だろうか、しかしこの中に心や体に障害を持った人々は含まれていないことに気がつきました。俗に『田舎』と言われる地方では、行政が声を大にして呼びかけてもなかなか障害者は『みんな』の中に入ることは困難で、これは障害者自身ではなく、家族がそれを阻んでいたふしもあります。
 そこでこの障害を持った人たちが『みんなの村』の仲間になって、楽しく集い、楽しく仕事が出来る環境を提供したいと思い、平成8年『ハックの家』を小規模作業所として作りました。(ハックの家=アメリカの小説「ハックルベリー・フィンの冒険」の主人公の名前から命名)

単なる福祉施設ではなく
 障害者がみんなの仲間になるということは、ただ単に集まって楽しく過ごすのではなく、一般の人たちがやっている仕事を、少ししか出来ないけれど、また時間は掛かるけれどやってみようということになり、障害者にも出来る軽作業を、斡旋していただき、試行錯誤しながら生産性をあげる努力を、サポーターといっしょに進めてきました。
 男性は主に村内企業のご協力を得て木工作業、女性は裂き織で、年末はみんなで水産会社の鮭の加工をお手伝いして、社会に一歩踏み込みました。
 普通は『一歩踏み出す』と表現すべきなのでしょうが、みんなの輪の中に踏み込みたいというのが本当の気持ちでした。
 はじめは、小さな一軒屋で、作業も食事も同じ部屋でしたが、プレハブの織物作業所、村からいただいた間伐材の木工室などが出来て、次第に村の人たちにも支援してくださる方が増え、県内外からも多くの支援をいただきました。
 この時期はスタッフも少なく運営もたどたどしいという状態でしたが、特に障害者のご家族が出来る限り時間を割いて協力してくださって、次第に運営が円滑に進むようになってきました。

少しでも給料払いたい
 一般的には、働くことの喜びの一つは代価として賃金をもらうことです。しかし、身障者にとって健常者と同じ喜びがあるのかという問いに対して明確な答えはありませんが、どのような答えが出るにせよ、お金を自分の手で稼ぎ、好きなものを買うことができるということは、社会との接点として、また村の一員として認めてもらう第一歩と考え、試してみる価値はあると思い、利益の上がるような、体制にしたいと努力しました。
 初めて少ない額ですが給料を渡すことが出来、自分の働いたお金で自分の意思で選んだ物を購入するということは、まさに村の一員となった瞬間だと思います。

大きな支援
 次第に支援してくださる方も多くなり、常時ボランティアとして協力してくださる方もあり、ハックの家の未来に灯りがさしてきたような感じがしてまいりました。
 大きな転機が訪れましたのは、村の診療所に赴任してこられたS先生のご紹介で『三陸大津波』の著者である作家の吉村昭先生が文学碑の建立のために村に訪れた際、立ち寄ってくださって、さらにデザイン指導をしてくださる方を紹介していただいた時でした。(吉村昭氏の太宰治賞受賞の出世作『星への旅』は田野畑村の鵜の巣断崖がモデルの小説です。また、S先生は吉村先生の小説『梅の蕾』に登場しています)
 それまでは裂き織の販路は知人や関係者に限られておりましたが、デザイン指導をしてくださった方が『福祉作業所作品ですから買ってやってください』と言うのをやめて、一般の商品として流通できる物にしようと、色彩や、縫製の指導をしていただき、さらに『裂き織』という名前では贈り物に適当でないということで、『花咲き織』と命名し、村営のホテル、盛岡や東京の店でも売れるようになりました。

 ここでのエピソードですが、吉村先生から、資金を集めるためにバザーに出品して販売する雑貨や衣料を、段ボール箱約100個をお送りいただき、作業場にしている座敷に広げて整理しているとき、帰宅時間がきたので一人の少女に『なんでもいいから好きな物を持っていっていいよ』と言ったところ、座敷いっぱいに広げられた文具、雑貨、衣料の中から、少女は鉛筆一本と消しゴム一つを大事そうに持って帰りました。
 その様子を私たちは見て、もっとこの子のためになってあげたいと感じました。

パン工場が出来た
 多くの福祉施設がパン工場を経営し成功したという記事を見まして、思い切ってパンを作ってみようということになり、いただいた助成金でスタートしました。
 毎日パンを作って売るということは、完全に障害者が村の一員になるということです。
 東京でパン屋を数店舗経営されている方の紹介で、製パンの指導員で退職されて、岩手県の一ノ関にリタイヤされておられるKさんが指導してくださり、美味しいパンが出来るようになりました。
 このパンの評判はよく、村営(第3セクター)のホテルの朝食に採用されました。また、このホテルは、花咲き織のバッグや小物も、かなりの量売ってくださったのですが、今回の津波で両方とも販路がなくなり、軽自動車による移動販売を始めることになりました。
 この移動販売で驚きましたのは、所員(障害者)でいつもうつむき加減で声も小さかった女の子が、移動販売の販売員にしたところ、大きい声でパンを売り、見違えるように明るくなり、販売に出かける時間になると、缶に入れたつり銭を持ってガチャガチャと音を立てて、車の前で待っているようになり、障害者が何に生きがいを感じるかを、私たちはしっかりと観察しなければならないと痛感しました。

NPO法人になる
 活動を始めて10年、平成19年3月、NPO法人格を取得しました。これにより自治体や、支援団体との交渉もスムーズになり、いろいろな行事に参加したり、公的な補助金の申請も出来るようになりました。正式名称は『特定非営利活動法人ハックの家』で、所長の竹下さんの長女が福祉関係の大学を卒業してスタッフに加わり、大学で同級だった青年と結婚、彼もハックの家の一員としてパン工房を受け持っています。
 このころからハックの家の所員(身障者)の社会参加の方法も多様化し、村内の小学生との交流や、高齢者養護施設の慰問、さらに村外、県外のイベントに参加するなど、みんなとの接点が大分増えて、近隣(北三陸地域)の養護学校の卒業生も加わって、所員の特性に合わせていくつかの職場に分散できるようになりました。

お城が出来たよ!
 平成20年、ハックルベリー・フィンの小屋の数十倍だろうと思われる、赤い屋根の『花咲き織工房』と、事務所、それに宿泊もできる集会所が助成金で完成し、車椅子でどこにでも行けるバリアフリーの屋内は、お城と呼んでもよい建物です。
 工房には薪の暖炉が置かれ、冬はみんなで暖炉を囲んで楽しい時間を過ごします。
 出発当時の作業所は製品の展示室になり、花咲き織のバッグや小物、衣料が展示されています。

津波がきた!
 3月11日、三陸を襲った津波は、高台にある私たちハックの家は、まったく被害はなかったのですが、魚の加工の仕事をさせていただいていた水産会社は全滅、花咲き織の小物を販売していただいていたホテルは営業できなくなり、従って朝食のパンの注文もなくなりました。
 津波の被災者約400人が避難する大きなホールがありましたが、障害者や外国人は団体生活には馴染めないだろうということで、被災した数人の所員とその家族、村に研修に来ていた中国人を含めて約20人に、織物工房を避難場所として提供しました。
 3月11日から数日は停電で、電気を使うストーブはまったく役に立たず、雪も降ってきたのですが、工房の薪ストーブの回りにみんな体を寄せ合って過ごしました。
 パン工場は材料のある限りフル稼働でパンを焼きみんなに配りました。
 津波は私たちの田野畑村にとっても、非常に辛い出来事でしたが、ハックの家とその所員が町の一員として認めてもらう良い機会だったといえるかもしれません。
 津波の後、次々と支援物資が届き、改めてこんなに多くの方々にサポートしていただいていたのだとあらためて驚きました。
 送られて来る段ボールに貼ってある伝票を、そっと剥がして廊下に貼って毎日眺めています。

パンと、畑と、花咲き織
 田野畑村の海岸地域は津波で壊滅的な打撃を受けました。村はこの地域に住む漁業者と、山間部に住み農業や酪農を営む人々で構成されています。ハックの家の所員は人口約4000人の中にしっかりと組み込まれるために、パンつくりとその販売、高齢者の農家のお手伝い、古い着物の再生活動としての花咲き織や、多くの村人との交流、年数回のピクニックを兼ねた吉村昭先生の文学碑公園の掃除、海岸の清掃などで、接触から融合に向けてこれからも活動をしていきたいと考えております。