「ふるさとづくり'01」掲載
<集団の部>ふるさとづくり賞 振興奨励賞

「文学の蔵」設立に願いをかける“こころのまちおこし”
岩手県一関市 「文学の蔵」設立委員会
 一関は、芭蕉「おくのほそ道」の二夜の宿となった地で、平泉を訪ねる文人の立ち寄りも多く、一関市出身・ゆかりの文学者も多い。地域のこの文学的特色を生かした活性化を狙いに、作家、文学愛好者、実業人らが、平成元年末「文学の蔵・設立委員会」を結成。鋭意活動が始まった。


出身、ゆかりの文化人は多士済済

 平成元年春、一関市の都市計画事業で取り壊しになる明治初期の3階建土蔵を惜しみ、解体材を引き取った酒造会社社長の提案で、文化的活用方法を論議する中から「文学の蔵」設立構想が浮上した。古い土蔵を改造した著名なジャズスッポト「ペイシ−」の「音楽の蔵」をヒントに「文学の蔵」が発想された。
 一関は、かつて若き日の島崎藤村や幸田露伴、北村透谷なども訪れている。また、国語辞典『言海』の著者・大槻文彦の祖地でもあり、一関出身・ゆかりの文学者には、俳句の加藤楸邨や詩人で画家の矢野文雄、作家の小野寺公二、光瀬龍などの故人から、現在は直木賞作家の三好京三、遠藤公男、及川和夫、星亮一、内海隆一、中津文彦、馬里邑れいさんらと多く、中学時代を過ごした井上ひさしさんの存在も大きい。また、会の発足当時、移住まもない色川武大が急逝し、遺品の一関市寄贈実現に尽力したことが、文学館「文学の蔵」設立に弾みをつけた。
 2年目の平成2年は、強力な助っ人、井上ひさしさんの「日本語講座」を開催し、ゆかりの文学者10人によるリレー講演「ふるさとと私」を5回開催した。
 3年は、市長を委員長に、『言海』完成百年記念事業実行委員会を組織して、「ありがとう『言海』講演会」や「大槻文彦と『言海』展」、記念シンポ「言葉と日本文化」など、多彩な催しを、大勢の文化人の協力で実現した。
 4年は、「井上ひさしの文章学校」や連続講座「一関ゆかりの文学者」などを開催。5年は、「島崎藤村一関曾遊100年・没後50年記念事業」や「藤村セミナー」を3回、「藤村と一関展」、「木曾五木」の植樹、「藤村文学碑建立」、「記念誌」発刊などの事業を募金活動と合わせて行った。また、「井上ひさしと読む『賢治の世界』」の開催は、深く市民に浸透し、「心の町起し」の評価も高く、翌5年に、第11回「岩手日日文化賞」を受賞した。


子ども読書年で多彩な活動を展開

 6年は、フォーラム「街づくり――文化からのアプローチ」を開催。7年は、島崎藤村学会全国大会の一関開催を実現、全国から200人の参加者を集めた。
 8年は、「文学の蔵」実現に奔走した。当初予定していた蔵の解体材は、腐朽と狭隘から復元を断念。代わりに、かつての豪商の土蔵を中心に、地主・所有者の協力も取り付け、9年に東北工大研究室に「建設構想案」の策定を依頼し、10年に入って、「文学の蔵」成案をもとに市当局に陳情した。
 こうした取り組みと合わせて、活動はより市民と密着していく観点から、作家と行く「文学散歩」や「子どもと読書のつどい」、「井上ひさしの作文教室」などを積み重ねてきた。
 11年には、一関市長と話し合った。そこでの市長の考えは、「文学の蔵」は必要、とした上で、進め方などで調査研究などの時間が欲しい、というものだった。
 12年は、「子ども読書年」に呼応して、「子ども読書年記念事業」を1年間にわたって展開した。ゆかりの文学者と市民が共同で作った『子ども時代は心の宝庫』(1200部)を発刊し、「子どもたちに本を贈る募金活動」を行った。また、詩と合唱による『子ども風景』や、谷川俊太郎さんを招いての、トークと朗読と合唱のつどい「子どもの宇宙」などを開催した。その他、記録集の発行や市内の保育所・幼稚園、小学校44施設それぞれに、2万円の図書券を贈った。
 「一関・文学の蔵」は、公設民営による文学館「文学の蔵」の実現を目指す市民運動だ。目的はまだ実現途上にあるが、各地の文学館建設には15年、20年の歳月を要したものも多い。それだけに、粘り強い持続した活動の必要性と、施設完成後から活動を始めるのではなく、これまで続けてきたような活動の過程こそが大事、というのが会の考えだ。
 会の活動テーマを「うごく・まじわる・まなぶ・たたえる・あらわす・あそぶ」に集約する。そして、そこには文学を経路に、生活と結び、一関の文化伝統を活性化し、資源化するとともに、美術・音楽・演劇・歴史などとの接点を拡大し、魅力ある催しをおこなってきた、という自負がある。
 経済成長至上の価値観が生み出したひずみに、現代人は苦悩している。この閉塞状況を打開し、より人間的な生活を求めて新しい価値観を創造していく上で、ハードな活動も生き生きと支えてきたこの文化活動に、会員たちは大きな期待を寄せるのである。