「ふるさとづくり2001」掲載
<集団の部>ふるさとづくり奨励賞 主催者賞

過疎返上へ移住作戦
和歌山県中津村 なかつ村移住者推進協議会
休耕田の活用で過疎化ストップ

 地方ではどちらを見渡しても過疎化が大きな問題になっています。町村なりにあれこれ知恵を絞ってはいるものの容易に解決しないのが現状です。ところが中津村では、休耕田を活用するというやり方で、人口減にストップをかけました。田舎の魅力を積極的にアピールした結果、脱都会派が豊かな自然と夢のマイホームの2つを同時に手にすることができると移住してきてくれたからです。私たち民間人の知恵と行動力で取り組んできた「ふるさとづくり」の実践ぶりをレポートします。
 都会の人たちが大挙して中津村へ引っ越してくる計画の中心となったのは「なかつ村移住者推進協議会」です。この協議会は、平成3年に村内の農家や建設会社など約20人で結成され、私(上平裕一)が会長を務めています。結成のきっかけとなったのは、見知らぬ都会の定年退職者からの1本の電話でした。「退職金で家を建てたいのだが、都会では土地代だけで退職金全部が消えてしまう。田舎なら土地代は安いはず。何とかなりませんか」という問い合わせでした。
 この時、私はひらめきました。「そうや、休耕田を生かしたらええやないか」と。私はそれまで、村内あちこちに拡がる休耕田には心を痛めていました。「立派な土地なのに何も植えず草が生えたままというのはあまりにも残念」と考えていた矢先のことでした。
 早速、私は農家の人たちに「休耕田を貸すつもりはあるか?」と聞いて回りました。反応は上々。「どうぞ家を建てて下さい。毎年、土地代が入ってくるなんて願ったり適ったりです」と多くの賛同を得ました。「土地代が入る」というのは、休耕田は買い上げるのではなく、年間12万円で借りる方式を採用したからです。これなら先祖伝来の大切な土地は守れるというわけです。思い立ったら間髪を入れずすぐ行動に移すのが私のモットーです。まず、貸してもらえる休耕田をリストアップ。村内の20か所ほどを確保すると、新聞や住宅関連情報誌などに構想を知らせました。この作戦が見事に成功。近畿圏は無論関東や九州など全国から問い合わせが殺到しました。村内の候補地を大型観光バスで見て回るツアーを何回か企画しましたが、50人、100人と家族連れで駆け付けて下さる大盛況。参加した人たちは「緑に恵まれたこんな良い所ならぜひ住んでみたい」と口を揃え、中には見学に来たその日のうちに移住の仮契約を結んで下さった方もいたほどです。


1000万円で夢のマイホーム

 この協議会のシステムは次のようになっています。まず、協議会が農家から休耕田を借り受けます。都会の移住希望者がその土地を気に入れば、家を建てる契約をします。宅地転用などの手続きは協議会が代行。転用許可が下りた後、住宅を建設します。1戸(3LDK、約50平方メートル)で980万円。敷地は全体で約180平方メートルあり、野菜や花づくりを楽しめるので「菜園付き住宅」と名付けています。土地は借地で年間12万円支払うだけで、購入しなくてもOKです。
 都会の定年組の人たちは「こんな結構な話はない」と喜びます。都会で働くサラリーマンにとってマイホームは長年の夢でしょう。だけど、都会で家を建てるのは容易ではありません。定年で手にした2、3000万円の退職金。無理して家を購入すると、老後の蓄えが一気に消えてしまう恐れがあります。だけど中津村の菜園付き住宅なら1000万円弱で念願のマイホームを手に入れられる。その上、虎の子の退職金は、半分以上残る計算。「安定した老後」―悲願のマイホーム獲得とともに忘れることのできない大きな課題も、土地を借りるという方式で、退職金の大半を土地代に費やすことなくマイホーム建設の夢が実現するというシステムです。
 都会の人たちを何回も招いて見学会を催したり、機会を通じてPRしてきた地道な努力が実り、9年間で44戸、計88人が中津村へ移住して下さいました。中津村が誕生した昭和31年当時の人口は約4600。それが37年後の平成5年には2500人と2000人以上も減ってしまいました。しかし、移住作戦がスタートしてから人口減に歯止めがかかり、その後、人口は横バイ状態です。移住してきたのは80人ほどですが、過疎の村では人口をたった1人増やすのでも大変だということは分かってもらえると思います。


Uターン組も出てきた

 この移住作戦には、予期せぬ相乗効果もありました。自然志向の脱都会派が中津村へ移っていくのを知った都会に住む中津村出身者たちが、「オレたちの住んでいた中津村はそれほど良かったのか」と素晴らしさを再発見。子どもが独立した熟年夫婦などが、都会から中津村へUターンしてくるようになったのです。協議会が進めている移住作戦の思わぬ効用といえるでしょう。
 もっとも、移住作戦が成功した陰には、県や村の地道な条件整備も見逃せません。移住者のほとんどは月1、2回は京阪神方面の以前住んでいた友人宅などへ出かけます。中には大阪方面へ通勤している方もおられます。中津村へ移り住んだ人たちは「高速道路を使えば2時間足らずで大阪へ行ける。こんなに近いのに自然がふんだんにあるというのが大きな魅力です」と道路状態の良さをあげています。通行量が少ないと思われる山間部の県道や村道であっても、忘れることなく県や村が毎年予算をつぎ込み、こつこつと改良を続けてきた努力が評価されているわけです。行き届いた道路整備が、移住を決意するひとつの要素になっているのですから、県や村のふるさとづくり政策が中津村の過疎化防止に大いに貢献していることは見逃せません。「ふるさとづくり」というのは、いざ何か始めようという時になってあたふたと手を打つのではなく、このように日頃からきめ細かい町づくり、村づくりに取り組んできてこそ、実を結ぶと言えるのではないでしょうか。


時には「親族代表」にもなる

 移住作戦の中で特筆すべきは、中津村へ移り住んできた44軒のうち、1軒も立ち去った人がいないことです。いかに住み心地が良いかの証明でもあります。無論、その影には、移住者たちが、見知らぬ土地で寂しがったり、不自由することのないよう村の人たちが温かく接するという良き隣人に恵まれたことも忘れてはなりません。移住者協議会の皆さんが、移住者に早く村に慣れ親しんでもらおうと流した汗も相当なものでした。初めのうちは、移住家庭に病人が出ると、御坊市の病院まで搬送役。亡くなると葬儀の世話から時には「親族代表」になり代わってあいさつ。仏壇を買いたいという遺族の案内役も務めました。医療不備を心配する人のため、協議会は和歌山市の会社と契約し、緊急時にはヘリコプターを出動させ、中津村から和歌山市まで5分ほどで搬送できる体制も整えています。移住者の皆さんに安心して暮らしてもらう―それが私たち協議会の仲間の最大の願いであることは言うまでもありません。
 移住者の顔ぶれは多彩です。京阪神方面の定年退職者ご夫婦が大半ですが、現役の高校教諭や内装デザイナー、元大手製薬会社部長に新聞記者といずれも立派に仕事をしてこられた人たちです。最近では20〜30歳代の独身女性3人も移り住んできました。「父が移住するというので一緒に中津村へ来たのだけど、私のほうがいっぺんに気に入ってしまい、父ではなく私たちのほうが移住することになってしまいました」と笑う姉妹。中津村には、若い女性さえ引き付ける素晴らしさがあるという証明では―と、協議会のメンバーは喜んでいます。


新しいサークルも生まれ

 村にやってきた人たちは一様に元気。近所の奥さん方にパン作りを指導したり、村内では唯一の手作りパンを販売する主婦。子どもらを集めてケーキ作り教室も開きます。俳句サークルを結成しその指導者となり張り切っている女性もいます。古くから中津村に住むお年寄りも「都会育ちはハキハキして気持ちがいい」と一緒にサークルに通い、ほのぼのとした交流が続いています。
 過疎化に悩む自治体から「どうすればそんな上手にふるさとづくりができるのですか」という問い合わせが殺到しています。こんな時、私たちは「ふるさとづくりは他人(ひと)任せではダメ。自分たちの村は、自分らで何とかするのだという情熱が第一。ふるさとづくりで大切なのは、自分たちの村をどれだけ愛しているかにかかっている。方程式はないけれど、移住者の立場になり、親身で世話してあげることが大事ではないでしょうか」と答えています。
 今年1月には、移住者の親睦組織「四季のさと」が結成されました。44世帯全部が参加しています。狙いは、都会暮らしで培った知恵や経験を村の人たちと交換し合い、村人との交流がさらに深まれば―というものです。移住者同士が閉じこもるのではありません。ふるさとづくりに貢献してきた移住者たちは、単に自分らの仲間が増えればいいというのではなく、村人たちとの交流を大事にし、村の先輩たちへの配慮を忘れない―これこそ真の村おこしであり、ふるさとづくりではないのかと考える次第です。