「ふるさとづくり2003」掲載
<集団の部>ふるさとづくり賞 振興奨励賞

函館からトラストの試み
北海道函館市  函館からトラスト事務局
 幕末期、横浜や神戸とともに開港場として開かれ、いち早くわが国への洋風文化導入の窓口になり、いまも鮮やかな色彩のペンキを塗った町家群が残るハイカラな街・函館に、1993年初夏、市民による新しいまちづくりの仕組みが動き始めた。「函館からトラスト」、正式名称を「公益信託函館色彩まちづくり基金」という。函館山の麓、西部地区といわれる歴史的街並みと港の明るく伸びやかな風景の街で、市民グループが自ら財産を提供し、公益信託という制度を活用して、もともと市民のまちづくり運動が盛んな地区に、さらに住民による自主的、持続的なまちづくりが展開することを支援する仕組みをつくりだそうというものである。市民主体のまちづくり公益信託としては全国でも初めての試みであった。


街並み色彩のこすり出し

 活動の第一は、街並み色彩のこすり出しと生活文化としての環境色彩の発見である。

●街並み色彩のこすり出しと「時層色環」の発見
 西部地区の住民、行政有志、研究者からなる市民グループは、バブルの開発の波が函館にも押し寄せ始めた1988年、下見板の町家に塗り重ねられたペンキの層を発掘して、ペンキ色彩をとおした街の歴史、文化を研究する活動を開始した。ペンキ塗膜をサンドペーパーで削り、研ぎ出す「こすり出し」という誰もが手軽に楽しく参加できる方法を開発し、鮮やかな色彩の年輪(「時層色環」と命名)を浮かび上がらせ、約90軒近くの建物を調査し、明治から現在までの街並み色彩の変遷を明らかにした。色彩的な資料の残りにくい都市の街並み研究において、大げさに言えば日本で初めて、明治から大正、昭和を経て現在に至る街並みの色彩変遷の有り様を、実証的データでもって示した研究であった。

●生活文化としての環境色彩の発見
 研究のなかで、さまざまな時代背景や変化の要因のなかで色彩選択は住民の手でどのようになされてきたのか、一番興味深いポイントであった。ヒヤリング調査から、地域の建物所有者の色彩への関心は高く、ほとんどの場合色彩の選択は自ら決めているということが分かってきた。
 色彩選択の理由としては「港をイメージする明るい色として」、「公会堂や学校などの有名な建物にあこがれて」など場所や建物のイメージから選ばれた場合や、「娘がいるのでピンクのかわいらしい色を選んできた」、「建物の輪郭を白くして建物を大きくみせたい」など家のイメージを表現したものとか、「塗り替えは向かいや隣と一緒にし、色も同じもの」等隣近所との関係で選んだものなど、さまざまな視点で地域環境やコミュニティとの関わりのなかで建物色彩を考えていることが分かった。
 日本の住宅地でよく使われる、「汚れが目立たない色」、「飽きのこない色」等の消去法的な発想の色彩選択は函館元町界隈では少数なのである。ピンクや青、緑、黄色など、一般の住宅地であまり使われない色彩も函館の歴史的建造物に塗られると実際実に映えるし、楽しい街並みをつくりだす。函館の街の風景のなかでは、ペンキ色彩はささやかだが、楽しい自己主張の表現となっているのである。かつては塗装業者がペンキ缶を自転車に積んで街中を巡り、外壁の塗装が痛んでいる建物を見つけると塗り替えを進めて回っていたという。職人たちと一緒に住民たちが街の色彩を考え、つくりだしていく条件もまた備わっていたのである。
 現代の環境色彩学の考え方とは、地域の土、植物、空、海、山などの自然環境そのもののなかに見出される色や、風土のなかから建築の素材、例えば瓦(土の色)、白木(木の色)、漆喰(石灰の色)にみられる色など―これを「自然色」と呼ぶ―をベースとし、それに対して色彩科学の発達のなかから生み出されたマンセル、オスワルトらの科学的な色彩調和論の世界―これを「科学色」と呼ぶ―、この「自然色」と「科学色」の2次元的な関係で決定される調和論の世界である。
 それに対し函館の街並み色彩研究から読みとれるものは、風土やコミュニティのなかでの住民の生活表現としての色彩の存在である。ペンキ色彩が単に建物を保持する道具ではなく、公会堂の色にあこがれてとか、娘がいるのでかわいらしい色にしたとか、まわりと調和して生きたいとか、動機はそれぞれにあろうが、時代とともに変化して、住民の自己表現となってきた環境色彩の世界があるということである。ペンキの色彩にこめられた地域に住む人々の街への思い、色彩に託した楽しい自己表現のあり方が、「生活色」としての環境色彩の発見をもたらしたのである。
 この研究は町並み色彩研究というアカデミックな側面をもっていたが、半面市民の誰もが気軽に参加でき、身近な環境である街並みの色彩を見つめ直すことができるという面において、すぐれて参加型の研究であった。住民はこの研究をとおして、色彩に込められた住民の街への思いや楽しい自己表現のあり方を知ることができたことに加え、ちょうどバブルの時期とも重なり、住民が街を守り、地域づくりを進めていく上で、自分たちの手で街の環境を実体的に発見することがいかに重要であるかも学ぶことになった。このことが活動の第二に発展していった。


ペンキ塗り替えボランティア

 活動の第二は、町家のペンキ塗り替えボランティア隊の活動である。老朽化する西部地区の街並みに対して、市民レベルで何ができるか、問い返すなかで、研究の成果を地域に還元することを考え、1990年、住民のペンキ塗り替えの相談に応じたり、ボランティアとして、痛んだ外壁の町家のペンキ塗り替えをおこなう活動が始まった。
 大学生や工業高校の学生などの若者によるペンキ塗り替えボランティア隊が組織され、1993年からは函館からトラストの助成も受け、毎年夏休み西部地区の老朽化した町家のペンキ塗り替えに取り組むことになった。人数は年を追うごとに増え、近年は延べ50人近い若者や、地域住民が参加する西部地区の夏の恒例行事となっている。
 ペンキ塗り替え活動は、エリアも広く、建物の老朽化も進む西部地区の街並みのなかでは、ささやかな化粧直し活動にすぎないかもしれない。しかし取り壊し寸前のものが建物の価値を再発見され、息を吹き返したり、外壁のペンキ塗り替えに刺激され、屋根や窓の修復が持ち主自身の手でおこなわれ、建物が見違えるようになるなど、その波及効果は決して小さいものではない。高齢化し元気を失った住民が、環境改善の実感と若いボランティアの活動に刺激される部分が大きいのである。
 塗り替えられた町家は、いままで22軒。町並みとしてペンキ塗り替えの建物が数軒連続する通りの風景などは、なかなか壮観である。
 このボランティアによる環境改善への気運が、さらに活動の第三のステージに展開していった。


基金による市民まちづくり活動支援

 活動の第三は、基金による市民の自主的なまちづくり活動への支援の取り組みである。
 市民のまちづくり基金「函館からトラスト」は五つの“から”にこだわっている。

●函館のカラーにこだわる
 函館のカラー(色彩や地域の歴史文化)にこだわった街並みまちづくりを応接する。

●函館からの発信
 市民の活動を育て、函館からの市民まちづくりの展開や情報発信の輪をひろげていく。

●からくち(辛口)の情報
 行政、市民にとって辛口の内容や言いにくいことを自由に言い合える場として。

●触媒としての「から」
 市民、全国の支援仲間をつなぐ、触媒としてのニュースレター「から」の発行。

●目に見える成果から
 実際の環境に、目に見える成果を着実に積み上げていくことから、市民、行政、企業等のまちづくりへの認識を高めていく。

 誕生以来10年の活動のなかで、基金が助成してきた活動は総計で25件、総額470万円になる。そのなかには、◎毎年夏の恒例行事にもなった若者たちのペンキ塗りボランティア隊の活動もそのひとつに含まれるし、◎奥尻地震で被害を受けた海産商同業組合会館の復旧や、◎十字街の大火後の復興プランづくり、◎元町での住民と地域の住環境を考えるワークショップの開催、◎松陰や湯川商店街の自主的なまちづくり活動、◎町家活用の路上アートミュージアムの試みなどさまざまな取り組みが展開されている。
 ささやかな活動支援であったようにも思えるが、この10年の函館の話題となったまちづくりの主なものは含まれていて、その波及は決して小さなものではないように思う。また基金を盛り立てていただける輪も、函館から全国にひろがっている。


市民まちづくりに向けて

 従来市民のまちづくりというと、なにか切実な課題や反対運動に突き動かされ、やむにやまれず立ち上がるというタイプの活動が多かったが、「函館からトラスト」から生まれつつある市民の活動は自主的にテーマを設定して市民が自ら考えて楽しみながら行動する、能動的な活動が特色のように思われる。
 本来「まちづくり」という言葉は、地域に住む市民が中心となって行政やデベロッパーと対等な関係をもって、市民にとって暮らしやすい街の整備や開発をおこなっていこうという意志をこめた言葉である。そういう意味では函館は「まちづくり」に独特のスタイルをもった街である。函館山の麓、西部地区と呼ばれる地域でここ十数年来おこなわれてきた歴史的環境をめぐる「まちづくり」はお上意識、公共依存の開発に対し、市民の知恵とアイデア、臨機応変の動きがいかに街を面白くできるか、その実験場であったようにすら思う。
 街は生きているのだから、変わっていって当然だ。再開発の波は函館の街にも押し寄せている。今後も街並みの変化が、ペンキを塗り替えるように街の主役である人々の手でおこなわれるような「まちづくり」をわれわれは望みたいのである。