「ふるさとづくり2003」掲載
<集団の部>ふるさとづくり賞 振興奨励賞

天神崎の自然保全を続けて
和歌山県田辺市 財団法人天神崎の自然を大切にする会
はじめに

 “天神崎の自然を子どもたちに残そう”という運動が進み出したとき、多くの人々の温かい支援が続きはじめた。なかでも、全国の子どもたちから寄せられた激励や寄金は、関係者に対して、喜びとともに、強く胸を打つものがあった。この運動を中心的に進めていた外山八郎氏は、多くの子どもたちの支援に対して、次のように述べている。
 「自然破壊が急速に進む日本の現状に対して、身近な自然を自分たちの手で保全しようとするバケツリレー的行動が予想外の効果を生むことが注目されてきている。若い人々や子どもたちのうちに、大切な自然は自分たちの手で保全していくのだ、という心が育つ捨石となればうれしいことである。天神崎は“だれかが残した”のではなく、大勢の市民、国民が力をあわせた、そのことをも子どもたちに残したい」


天神崎の保全運動のおこりとナショナル・トラスト運動

 1974年(昭和49年)、海岸林の茂る天神崎の丘陵地に別荘が建設されるという計画を知った田辺市民は「天神崎の自然を大切にする会」をつくり、この自然を守ろうとしたのが、保全運動の起こりでした。この地域一帯は田辺南部海岸県立自然公園に指定されていることもあって、当初は行政的な解決を願い、署名や要望などによって田辺市および和歌山県に求めた。しかし、市も県も保全は困難だということになり、大切にする会では苦しい話し合いが続き、この運動は何度も挫折しそうになった。
 そして、保全するためには“自ら買い取る”という方法しかないと言われ、募金によりその資金を得る方向も検討された。しかし、それは大変危険な方法だとして、「大切にする会」では意見が分かれ、長い議論と苦悩の末、募金活動もやむを得ないということになった。そのためには新たに別の団体、つまり「天神崎保全市民協議会」が結成され、この市民協議会により募金活動が始められたのである。それと同時に、土地所有者への対応から別荘予定地の一部を緊急に買い上げねばならず、この時は、一部の役員がお金を借り入れたり、また、多くの有志の方々からもお金を借りた。こうして、募金活動を始めたものの、土地を買い取る資金にはなかなか届かず、苦しい年月が続く中、市民協議会は県内や県外の各地で募金活動をおこなうなど、いろいろな機会に人々に訴えた。
 こうしたなかで、この運動が各種の報道機関の目にもとまり、全国に知られるところとなり、同時に、このような運動はナショナル・トラスト運動といって、既にイギリスでは1895年以来おこなわれていることを知らされた。天神崎の運動は、言わば日本でのナショナル・トラスト運動の先駆的なものだというのであった。


募金活動と支援の広がり

 1981年、県知事は、保全運動の苦しい現状を訴え続ける本会の願いにやっと応え、県自然保護基金の一部を天神崎へ支出することを約束し、翌1982年、田辺市は県の助成金を得て、開発予定地の一部を市有地とすることによってこの運動を支援したのである。この行政上の措置により、保全運動がさらに広く知られるところとなり、また人々からはこの運動に対する信頼感を高めるところとなった。その結果、全国の方々から寄せられた寄金は飛躍的に増え、1982年だけで4000万円近くにもなった。
 しかもこの1982年には、北海道斜里町で「知床国立公園内100m2運動5周年記念シンポジウム」が開催され、その当時、ナショナル・トラスト運動をしていた4団体が招かれて現状報告をした。それとともに、この大会を契機として「ナショナル・トラストを進める全国の会」が結成され、翌年(1983年)、その第1回全国大会が田辺市で開催された。ナショナル・トラスト運動が全国的に活発になったことにより、国(環境庁)も自然環境を保全する新たな国民的運動として認め、天神崎や知床の運動関係者が国会に呼ばれたり、衆議院・参議院および環境庁からの視察が相次いだ。
 こうした進展とともに募金活動は多様な形態となり、天神崎保全市民協議会は物品等の販売による収益活動をおこない、和歌山・大阪・名古屋・東京などでは支援集会や街頭募金などがおこなわれ、各種の団体による天神崎支援のための企画が次々と生まれた。
 1985年(昭和60年)、第4次の土地保全が達成できたことにより、当初の別荘予定地は保全されることになった。そして、翌1986年4月に天神崎保全市民協議会の総会を開催し、財団法人の設立をもって市民協議会を解散することを決め、会は「財団法人天神崎の自然を大切にする会」として再び一つに戻ったのである。この「大切にする会」という名称は、「守る」ということにすると、人と人との敵対関係があるようになり、自然を残すために人々が争うというのではなく、自然の大切さを全ての人に理解してもらい、ともに残そうという願いからつけられた名称である。


教育運動として

 外山八郎氏は、天神崎の自然保護運動について、次のように述べている。
 「天神崎保全の市民運動が、筆舌につくせぬ苦難の中で、息長くもちこたえここまでこぎつけてこれたのは、偉大な教師である生きた自然を、何としても後々の子らに残そうと願う、教育的主張に対する幅広い共感のおかげであると信じている。・・・
 天神崎保全の市民運動は、田辺市民の心に探く結びついた景勝の地を保全しようとのはじめの願いから、かけがえのない海辺の自然観察適地を保全して、全国の子どもたちも泊まりがけで観察に来れるようにと願う教育運動へと発展した。とかく無視されがちであるが、幼いころ無心に遊びながら大自然の神秘に打たれ、その美しさに感動することは、子どもの将来を左右する貴重な体験となる。また、直接自分の目で時間をかけて苦労を重ね、生きた自然から心理を学ぶ学習は、意欲的に取り組む人間を育てる場なのである。親や教師が大量の既成の知識を注入しようと焦る競争教育の中で、いつも受け身の立場におかれ、みずみずしい感受性を失いかけている子どもたちを、自然の中へ解放してやりたい。そして、一人一人が異なる興味を見出し、それぞれの賜物を生かして逞しく成長していくための、かけがえのない自然観察地を永久に残したいと強く願っている」(「望星」1982年10月、東海教育研究所)
 1985年2月、NHK教育テレビの学校教育番組「なぎさを守る」が5年生向けに放映され、このなかで天神崎の保全運動の様子が詳しく紹介された。これを見た全国(約110校)の5年生から、激励の作文集や寄せ書き、それに貴重な寄金までも送ってくれた。


「未来」がやってきた 〜子どもたちの歓声と応援〜

 天神崎の保全運動が始まって29年。その間、県および市による保全(買い上げ)も増え、本会が取得した面積とをあわせると、現在約6・7haの海岸林が保全されたことになる。大切にする会としては、現在もなお募金活動を続けながら、保全地を広めることを目指し、そして、その自然を維持し、自然観察教室を開き、各地からの訪問者への案内や説明、それに「天神崎通信」や「天神崎だより」の発行などをしながら運営している。
 とはいえ、今日の経済事情のなかでは、基本財産からの利息が得られず、運営資金は大変困窮した状態にある。運営は会員(1350名)の会費によって支えられているものの、年々会員数は減少して、会費収入もどんどんと少なくなっている。いろんな機会を見つけては募金を訴えたり、わずかな物品の販売などもしているが、最近はなかなか買い取り地を増やすには至っていない。
 そういうなかで、何にも変え難いのが子どもたちの歓声である。昨年、天神崎にやって来た高槻市の小学6年生は、次のような感想文を送ってくれた。

 「私が一番びっくりしたのは、『コビトウラウズガイ』でした。ものすごく小さくて、こどもかな?と思っていたら『大人だよ』って先生に言われてびっくりしました。『かわいいな』って思いながら見ていました。モンドリで魚をつかまえたいな〜と思っていたら、ハゼが2匹入っていました。すっごくうれしかったです。
 私が二番目にびっくりしたのは『ニセクロナマコ』でした。なぜかというと、プニプニかと思っていたのにさわると、ガサガサだったからです。『かわいい』って思ったのは『タコクラゲ』です。ミニでプニプニで毒もなくて、すっごくプリティで軽かったし。
 私は少しおこったことがありました。それは、あんなにきれいな海なのに、フィルムケースやビニール袋やらたくさんのゴミが捨ててあったからです。『ゴミは自分で持って帰れー』ってさけびたいほどでした。
 田辺湾はなぜか、はじめて来たようなきがしませんでした。天神崎の平らな岩のところは潮がくると海なんだと思うと、もうなんだか天神崎を尊敬しました。私は今後、田辺湾に行く時は、釣りをしたり、生物を研究したいです。とってもきれいな所でした。また行きたいと思います」(E君)

 こうして天神崎でいろいろな生物を自ら見つけ、その姿や動きに見入っている子どもたち。見つけた生物をつかんで、興奮して大きな声で友を呼び、先生を呼ぶ子どもたち・・・。彼らは本当の「教科書」から直接学んでいるのである。この姿こそ私たちが当初から「未来の子どもたちのために」として続けてきた大きな願いであった。
 そして、この春は、天神崎に最も近い田辺市内の小学5年生たちが、天神崎の自然とその保全運動を学び、さらに発展して、校内でも校外でも募金活動をおこなったのである。しかも、この活動と連携して応援してくれたのが、遠く茨城県の小学生であった。保全運動は今なお子どもたちに支えられているのである。
 このような運動は、自然を残すことがその大きな目的であるが、同時に、自然の大切さをも残して(引き継いで)いくことも忘れてはならない。いつまでも、この自然のなかで子どもたちが笑顔を見せ、興奮する姿をこれからも大切にしていきたい。