「ふるさとづくり2004」掲載
<市町村の部>ふるさとづくり賞 主催者賞

市民とともに石炭産業の歴史を記録映像に残す
福岡県 大牟田市
はじめに

 大牟田市では、平成13、14年度の2か年にわたって、炭都大牟田の歴史を映像記録として後世に残す事業、「こえの博物館」に取り組みました。110時間にも及ぶ撮影、100人以上への取材・調査、72人のインタビュー撮影、そして市内を中心に点在する近代化遺産32か所を撮影し、この撮影テープをもとに映画4本を制作し、平成15年夏から石炭産業科学館などで公開しています。
 事業概要はこのように簡単に記すことができますが、この「こえの博物館」事業の成果は、映画の完成以上に、事業に取り組む意義やプロセスがとても重要であったと考えます。


大牟田市の現状

 平成9年3月30日、日本の近代化を支えてきた三池炭鉱は閉山しました。三池炭鉱は、官営から民営へと経営が変わりながらも、大牟田で120年以上も石炭を掘り続けた炭鉱です。最盛期には、日本の石炭の6分の1を出炭していたこともあり、日本一の炭鉱と評されるものでした。
 大牟田のまちは、この三池炭鉱とともに発展し、大きくなったまちです。有明海に面する半農半漁の村に炭鉱ができたおかげで、日本中から続々と人が集まり、また、明治期の最先端技術が次々と導入され、活気にあふれる「炭都」となりました。
 現在も当時導入された技術や建物がそのまま残り、現役として稼動しているものがいくつもあります。また、閉山したとはいえ、大正時代に完成した石炭化学コンビナートは、今もその技術を生かしながら地元の経済を支えています。
 このように、石炭を通じて日本の近代化や戦後の経済復興を支えてきたという誇らしい歴史がありながら、地元では石炭産業の歴史については、あまり語られていません。時には「負の遺産」と呼ばれ、語ることがはばかられるようなこともあります。
 石炭産業の歴史は、一面では、戦前の囚人労働や強制連行、戦後の労働争議や坑内での炭じん爆発事故、そして炭鉱閉山など、地元の人たちにとっては辛く悲しい出来事であったことも事実です。そのことによって、せっかくの誇らしい事実さえ霞んでしまって、「負の遺産」という言葉だけが残ってしまったように思います。


事業着手とその経過

 「負の遺産」という言葉に代表されるように、大牟田では市民も行政もこれまで石炭産業の歴史と向き合うことができませんでした。しかし、閉山前後から、炭鉱関連施設の取り壊しが急速に始まり、閉山後には、建物の取り壊しだけでなく、多数の関係者が地元を離れるという事態に直面し、このままでは一大都市の形成にまで寄与した炭鉱に関連する歴史と文化が風化してしまい、人々の記憶にすら残らないのではないかという危機感が募りました。
 そこで、大牟田市は「負の遺産」とも呼ばれていたまちの歴史に初めて向き合い、建物だけでなく、様々な出来事を経験した人たちの証言なども映像記録として後世に残す取り組みを企画。構想から3年がかりで予算化が認められ、事業に着手しました。
 しかし、いざ始めてみると困難の連続でした。「こえの博物館」事業で制作をお願いした熊谷博子監督(東京在住)から、これまでの出来事について証言できる人たちの調査が大牟田市に依頼されましたが、行政には、その人たちとの接点が何もなく、三池争議の関係者や炭じん爆発事故関係者の人脈もほとんどありませんでした。
 やっと手繰りよせた情報をもとに面接調査を行なってもスムーズにいかず、事業の主旨に共感して快く協力していただいた人たちがおられる一方で、「なぜ今頃になってそのようなことをするのか」という不信感を正直にぶつけてくる人たちもおられました。
 協力していただく人たちだけを取材しても記録映画は成り立ちません。行政がまちの歴史と向き合うためには、偏った見方ということは絶対にあってはなりませんし、それぞれの出来事には、いろいろな考え方の人が関係していたことがむしろ当たり前と言えます。ですから、不信感をぶつけてくる人たちには、何回も足を運び、話を聞き、少しでも協力してもらえるような関係作りから始めました。
 行政としては初めての記録映画作り、さらには、これまで触れることのなかった大牟田の歴史と向き合うということ。事業がスタートした当初は、本当に悲壮感にあふれていました。特に、三池争議や炭じん爆発事故による後遺症の問題など、取材する中で次々と新しい事実が分かり、途方にくれたこともありました。また、証言協力者の皆さんに対して、知らなかったことに対する申し訳なさと、これまで私たちと何一つ接点がなかったという、事実に、どうしようもない無力感を何度も味わいました。
 また、撮影が進むにつれてもう一つ難しい問題に直面することになりました。歴史をひもとく作業は、歴史をある程度明らかにすることができますが、それ以上に作り手側の価値観を基に、歴史の良し悪しを決め付けてしまう危険性があるように思えました。
 この映画作りの企画が持ち上がった時から完成するまで、行政内部では「思想性の問題や偏った見方などがないように」「中立な立場を保つように」など、様々な意見や要望が出されました。その一方で、三池争議や炭じん爆発事故、そしてその後の一酸化炭素中毒問題などに触れると、「重いテーマばかりに偏った編集になっている」との指摘を受けることもありました。
 しかし、大牟田の歴史を振り返ってみると、石炭産業の華やかな時代ばかりではなく、むしろ、国、企業、あるいは資本主義社会といった体制の中で翻弄され続けた歴史であるように思え、様々な出来事やその時代を生き抜いてきた多くの人々の証言は、それを物語っているように感じました。故郷の歴史を知り感じたことは、その時代や出来事の中では、一人ひとりの誰もが必死で、そこには「正」も「負」もなかったということでした。
 これまでの歴史をどうこう評価し選別するのではなく、このまちがどのような歴史をたどり積み重ねた末に、今に行き着いたのか、そのことを正確に伝えなければ、辛い出来事に遭いながらも証言いただいた多くの市民の皆さんたちの思いを無駄にすることになると考え、編集作業にあたっては、ぎりぎりまで撮影スタッフと行政側とで議論しながら映画を完成させました。


映画公開以降の状況

 平成15年の夏、完成した映画の中で一番長いドキュメンタリー作品を初公開したとき、500人の満員の会場から大きな拍手があがりました。また、「このまちに長く住んでいながら、初めてまちの歴史を知ることができた」という感想もたくさん寄せられました。
 私たちは、改めて、記録映画の持つ力のスゴサを実感しました。経験の有無に関係なく、映画を通じて誰もが故郷の歴史を共有できるのですから。そして、この共有から生まれてくるものが、故郷に対する愛着であり誇りであると思います。
 実際、この映画作りの取り組みは、映像コンクールや広報コンクールなどでも全国的に高い評価を受けています。このような評価を受けることによって、出演していただいた市民の皆さんや、映画を見ていただいた市民の皆さんに、大牟田が歩んできた歴史に対する関心と故郷に対する誇りを抱いてもらうことができると思っています。
 完成した映画を上映している石炭産業科学館には、地域学習のための上映会やビデオの貸し出しの問い合わせが相次いでいます。また、修学旅行や社会科見学だけでなく、故郷の歴史を学ぼうとする市民や炭都に興味がある市外の方など、様々な方が映画を見に来られています。
 そして、これまで接点がなかった人たちと「こえの博物館」をきっかけに交流がはじまり、「炭都を語る会」というシンポジウムを開催したり、石炭産業科学館の解説ボランティアとして活躍していただいたりと、新しい関係ができつつあります。ほんの数年前までは、このようなことが実現するとは思えないような状況でしたから、「こえの博物館」による成果は、関係者にも気持ちを切り替えるきっかけを与えることになったのではないかと思います。
 大牟田市では、石炭産業の歴史を映像に記録するだけでなく、皆さんの記憶に留めてもらう取り組みが、今ようやくスタートしました。