「ふるさとづくり2004」掲載
<企業の部>ふるさとづくり賞 内閣総理大臣賞

コミュニケーション豊かな中心市街地の復活
北海道帯広市 北の起業広場協同組合(北の屋台)
はじめに

 場所の意志に添った「まちづくり」をやろう!
 困難に思えることでも知恵と行動力でチャレンジしてみよう!
 全国どこに行っても金太郎飴のように同じ店や町並みばかり。もっと場所の特性を考慮した特色ある「まちづくり」はできないものか。
 造って欲しい、お金を出して欲しいの陳情型や人の物真似はつまらない。
 こんな意識を持った若者が集まり、商いの原点である「屋台」をキーワードに寂れた中心街に賑わいを取り戻すぞ! と調査・研究を楽しみながら、常に情報をオープンにして活動を続けた。
 寒いから、法律の壁が厚いから、不可能だと言われてきた「屋台」!
 この既成概念を覆えし、破常識な「北の屋台」でまちづくりが始まった。


経緯

 1996年3月、帯広青年会議所のメンバーを核にして、十勝から21世紀型のライフスタイルの提案と実践を行ないながら世界に向けて発信することで、地球環境に貢献していくことを目的に「十勝環境ラボラトリー(略称TKL)」を設立した。《2002年10月から十勝場所と環境ラボラトリー(BakaLabo)に改称》
 同時展開している九つのプロジェクトの内の一つ、場所特性を重視した地方都市におけるまちづくりを研究する「都市構想プロジェクト」が北の屋台の母体となった。
 1999年2月、TKLが中心となって、「まちづくり・ひとづくり交流会」を設立。場所の特性を活かしたまちづくりのためには「中心部というへそが必要である」という共通認識を持ち、「屋台」というキーワードを見つけて本格的に調査と研究を始め4月には最初の報告書を作成した。
 屋台の資料等が見当たらないので自分たちで造ろうとメンバーの海外旅行のついでにアメリカ・台湾・韓国・香港・シンガポール・イギリス・ベトナムなどの屋台を自費で視察、調査した。その際に撮影した1000枚に及ぶ写真をもとに独自の屋台写真資料集を作成。9月からは補助金の関係で帯広商工会議所の「北の屋台ネット委員会」に組織変更し行政や商工会議所の人たちもメンバーに加わってきた。
 その後は国内の福岡・呉・広島・大阪・東京・仙台等を視察、調査、研究をした。
 屋台は道路法・道路交通法や食品衛生法などの法律でがんじがらめにされた、現営業者一代限りの営業権しか認められていない既得権の商いであり、新規参入ができないためにやがて日本では絶滅してしまう業態であることが判明したが、諦めようという者がいない。世界の屋台を最初に視察した効果であった。「商いの原点である屋台に新しい息吹を与えて誰でもが出店できる屋台を考案し十勝を新しい屋台の発祥の地にする。」と燃えたのである。警察署や保健所に何度も足を運んではアイデアに改良を加え続け、遂に11月末に完全遵法の画期的な「十勝型オリジナル屋台」の開発に成功した。
 2000年2月21日には厳寒の屋外で「第1回寒さ体感実験」を実施し、同月には実施主体となる「北の起業広場協同組合」を設立して独立した組織になった。この1年間は住民に「北の屋台」の活動内容を事前に知ってもらうために各種のイベントを戦略的に実施して「話題づくり」をすることに重点を置いた。6月にはインターネット上にホームページを開設。世界中の屋台の写真を60枚のパネルにして市内各所で「世界の屋台写真展示会」を開催。その他各種メディアを多用した広報を行ない常に活動内容の開示を続け市民の期待感を高めた。7月〜8月末には全国各地から作品を募集した「北の屋台アイデア・デザインコンペティション」を関催して優秀作品を試作。その試作品を使って9月27日に、仙台の屋台店主を招いて「チョット小粋なシンポジウム 北の屋台の夢ひろば」を開催した。9月初旬には「市場」の調査のために高知・福岡・沖縄を視察。11月初旬には「大道芸」の調査のために静岡を視察した。また11月1か月間をかけて、全国的なネットワークを駆使して1万人規模のPRを兼ねたアンケート調査を実施、回収した4300名分のデータを解析した。
 2001年1月20・21日には「出店者説明会」を開催、2日間で116名の出店希望者が集まった。同年2月12日には「第2回寒さ体感実験」を実施、実物大の屋台の模型2台を試作し、冬囲いを取り付けてマイナス9度の外気温の中で料理をふるまいながら各種の耐寒実験を行ない防寒対策を万全にした。
 新たな壁として出てきた建築基準法と消防法をクリアして6月1日から工事を開始し、7月29日正午にオープンさせた。


北の屋台の構造と規模

 帯広にかつてたくさん存在した商業形態である「連売市場」。その中の一つ「一条市場」は中心街(西1条南10丁目)で生鮮食料品を販売し住民の台所として機能していたが1998年1月の火事で焼失。その跡地の間口約11メートル、長さ約50メートル、面積は約160坪の駐車場(月極19台)となった更地を借り受けた。屋台1軒あたりの占有面積は丁度3坪(間口3メートル、奥行3・3メートル)20軒の集合体として出店し、広場にはシンボル像「ikinukin(イキヌキン)」と手押しポンプや樹木等を設置、雪対策として通路にはロードヒーティングを整備し、中央にはきれいで温かい共同の水洗トイレもユニバーサルデザインで完備し「いきぬき通り」と命名した。
 屋台1軒では土地を借りたりトイレなどの施設を作ることは信用的、金銭的に難しい。4、5軒程度では集客力に不安が残る。たとえ1軒ずつは小さくても20軒の屋台が集合することでその問題を解決した。
 道路法・道路交通法をクリアするために民有地を使用し、食品衛生法をクリアするために厨房部分を固定方式にした上で、上下水道、電気、ガスを供給。そこに移動式の「屋台」を融合させる独自の手法を開発した。
 保健所からは飲食店としての正式な許可が取れ、通常の食堂と同様に生(なま)ものや冷たいものなどあらゆるメニュー(福岡等の既存の屋台は食品衛生法上は露店の扱いなので、直前に火を通す温かい食品しかメニューにすることができない)が出せる。組立、収納、移動、保管、深夜営業等々、屋台に付きものの重労働を大幅に軽減することができた。


北の屋台の狙い

 全国の中心市街地と言われている場所に元気がない。国や行政からの補助金を受けて改装し、きれいな通りに直してはいるが、その通りには場所の特性や生活の匂いは徴塵も感じられない。どこも一様に無機質で冷たく、通行するためだけの通りへと変容している。かつての通りは「生活の場」であった。様々な人間模様が営まれ、生活の匂いを醸し出していた場所だった。自動車が大手を振ってわが物顔に通りを占領し始めた頃から、何かがおかしくなってきた。中心街の再生には「生活の場としての通りの再生」が不可決だ。通りには、本通りもあれば裏通りも路地も路地裏もある。きれいなだけの通りじゃ何か物足りない、「人間らしさ」を表わすには猥雑性や少々のいかがわしさも必要だ。
 「人」と「通り」にこだわり、「まち」に行ったら、常に何かしら面白いことがあるという期待感を取り戻すために、飲食・物販・パフォーマンスの三つの部門の屋台を作って、数々のことを仕掛け続けている。


地域生活への効用


 街にはコミュニケーションが豊かで、生活に密着した市場的な賑わいと広場が必要である。火災によって焼失した市場跡地を住民の記憶が薄れる前に、「屋台」を使った市場として再生し、全く新しい形の商業の提案と実践を行なっている。
 空き地対策としては「屋台の集合体」で即時に埋めることができる即効性を、空き店舗対策としては商売の素人が3年経って屋台を卒業したら近隣の空き店舗に出店する遅効性の二重の効果があり、短〜長期にわたる対策。ローリスク、ローコストで新規参入のできる「屋台」は起業家を育てるインキュベータ機能がある。
 朝はとれたての野菜を並べた「朝市」に、昼は花などの「物販屋台」で街に彩りを与えたり、ランチタイムには「オープンカフェ」としてビジネスマンの昼食の場となったり、夜は気軽で安価な雰囲気抜群の飲食の「屋台」として、同じ場所を重層的に使用することで賑やかさを創出する。
 空調管理された建物の中なら北海道でも沖縄でも違いはない、屋外だからこそ場所を感じての一期一会的面白さがある。同じメニューでも天候によって感じ方が変わる。十勝は生産地でありながら作物の旬を味わいにくい所である。地元のスーパーマーケットには年中同じ種類の食品が並んでいて、食べ物の旬や季節感が喪失している。北の屋台は季節ごとの旬の食べ物を提供することで、場所を感じる施設になった。
 屋台の大きさは世界共通で約3坪であり、働く人の個性が輝く場所である。歴史と経験に裏打ちされたヒューマンスケールの空間なのである。


成果

 2001年7月29日のオープンから3年後の2004年7月末日までの集計で、総来客数は46万6500人、総売上金額は7億円を超えた。
 19人しか使用しない月極駐車場が8420倍の16万人(年間)が訪れる賑やかな場所になり、456万円(年間)の駐車料金収入しかなかった場所が57倍の2億6000万円(年間)を売り上げる経済効果を生み出す場所になった。
 これまでに全国140か所から1300名もの視察者が訪れ、北の屋台をモデルとした屋台村が今後全国各地に25か所もできる予定である。