「ふるさとづくり2005」掲載
<集団の部>ふるさとづくり賞 振興奨励賞

『まるおか子供歌舞伎』の流れと現状を踏まえて
福井県丸岡町 丸岡歌舞伎物語
物語の創出

 手紙から生まれた物語を、歌舞伎仕立てで上演してみたい。「一筆啓上賞」は、ひとつの目標を「手紙博物館」の創設としながら、展示するだけの博物館でなく、手紙を素材とした物語の創出にも置いている。


中座から霞座へ

 平成11年秋、大阪道頓堀の劇場「中座」が最後の幕を閉じた。承応2年(1653)から約350年間、同じ場所で興行が行なわれた、演劇史上最も貴重な劇場である。初代中村鴈治郎と11代片岡仁左衛門をライバル同志とし花ひらかせるとともに、多くの歌舞伎役者の活躍があった。渋谷天外の後を継いだ藤山寛美が、観客の拍手により演目を決めるオールリクエスト、243か月連続公演記録の達成も「中座」である。
 福井震災前まで丸岡にあった「霞座」という芝居小屋の復元、歴史の再現という物語を誕生させようと思っていた矢先に知った「中座」の閉幕であった。単なる文化センターではなく、「丸岡らしいものを」との声もあり、町議会の賛成を得ながら、所有者の松竹株式会社との交渉が始まった。十数か所からの申し入れに対し、唯一関西以外からの丸岡に寄贈が決定したのは、約半年後のことだった。平成12年11月、大型トラック約10台に乗せられた破風や、緞帳、欄干、書き割りなどが、町内の小学校体育館に搬入された。単なる保管ではということで、破風の一部が再現されることにもなった。小学校の体育館、ステージ上部に現存最古の破風が姿を現した時には、お披露目に約4000人の人々が駆け付けた。東京や大阪、名古屋からも訪ねてきた。当初の歴史を生かしながらとの思いは、「中座」を知るごとに、責任の大きさも合わせて感じることになった。


子供歌舞伎の誕生

 博物館でもなく、文化センターでもなく、小学校の体育館という場所は、多くの人の目に触れるわけではない。どちらかというと、あまり人に見てもらいやすい現状ではない。1日も早く劇場をとの声をさらに高めるためにも、活用する必要があった。歌舞伎教室の開催や、伝統芸能の誘致などを考えたが、空調設備の問題や、学校行事との都合など、定期的なものにはあまりにも障害が多く、最終的に将来も見据えたものの、最も困難な「子供歌舞伎」に挑戦することとなった。
 差し当たって本格的な公演は考えず、ワークショップとして開催することになった「まるおか子供歌舞伎」。指導者に松竹の水口一夫さんを迎えてスタートした。小学2年から5年生までの男女10人、動機は様々だが保護者の歌舞伎に対する興味、夢を託されたに違いない。本格的な公演を前提とはしないものの、練習が進むにつれ、欲が出てくる。何人かの子どもたちに意欲が見えてくる。台詞もすべて入り、顔にも表情が出てくると、いつもニコニコしていた水口一夫さんが厳しくなってきた。いつの間にか、小学生10人との真剣勝負となった。
 それでも子どもは親が見ていると練習に熱心、親が帰ると気をゆるめてしまう。真剣に練習に取り組んでいる姿と、休憩時のはしゃぎの変貌ぶりに、夢を見させてくれたり、現実に引き戻されたりと、本格的な公演の是非について、ギリギリまで決断がなされなかった。その決断が決意に変わったのは、“涙”であった。11月3日に公演を予定しながら、9月の練習時、何気なく子どもたちの姿を見ていると、物語が見えてきた。相変わらず、休憩時のはしゃぎはあるものの、台詞の言い回し、首の振り、目線にしたたかさが出始めていた。丸岡にも子供歌舞伎が生まれたと感じた瞬間でもあった。何人かのスタッフの目に涙があった。子どもたちの笑顔にも、自信が感じられた。不思議な時が流れた。物語の始まりには感動が欠かせないようだ。


丸岡歌舞伎物語の誕生

 子供歌舞伎実現のために「丸岡歌舞伎物語」が誕生した。主に子供歌舞伎だが、九岡に新たな歌舞伎を根付かせるため、強いては、将来文化センターが完成した時の応援団にもなるように結成された。「物語」としたのは、演じる者だけにとっての歌舞伎ではなく、支える人もすべて含んで、みんなで創り上げてゆく「物語」なんだという意識付けのためでもある。チケットの販売や、広告依頼など、すべて初体験。子どもたちのやる気だけに支えられての船出でもあった。


旗揚げ公演の会場づくり

 公演会場は、小学校の体育館。光は漏れるし、あちこちホコリまみれ。楽屋もないし、暖房もなし。ないないづくしの会場に、2000ケースのビール箱、800枚の畳が搬入された。中座の欄干などといっしょに会場が少しずつ、芝居小屋に変わっていった。すべての畳が敷かれ、京都から借りた定式幕が吊られた時には、あちこちからどよめきが聞こえてきた。一週間だけの芝居小屋の完成であった。子どもたちの姿も花道のついた舞台で、たのもしくさえ感じた。子どもだからこそ感じる素直さかもしれない。旗揚げ公演当日の11月3日、外は雨風。心配に心配が重なった。開演1時間前になると、続々と客が入り始めた。北は福島から南は岡山まで、東京や三重、大阪などからも人はやって来た。もう雨の心配はいらない。中座で演じられた『夫婦善哉』にちなみ、善哉をふるまった。外の雨風もこの1杯のあたたかさで帳消しとなった。開演80分前、逆に客が入りすぎて心配になった。1200しか入らない劇場に1800人以上。このまま客の入りが続けば、立ち見どころでは済まない。客席の中に分け入っての場内整理が始まった。もう頭を下げ回るしかない。とにかく入れるだけ入れなければならない。帰ってもらうわけにはいかない。関係者は席から出てもらった。昼夜2回で1500人。数百人の立ち見の方には申し訳なかったが、熱気に包まれた晩秋の会場には、子どもたち一挙手一技足に拍手とため息と涙がもれていた。
 旗揚げ公演、晴れ姿、これから続くであろう「まるおか子供歌舞伎」にもこの1回限りの至福とも言える時間は決して忘れることはないだろう。


ソフトからハードへ

 ハードからソフトではなく、ソフトからハードヘ。中座から譲り受けた破風や緞帳、欄干は、あくまで仮の場所に置かれ、年に1回だけ子供歌舞伎の場所として光を浴びる。現在丸岡町で計画されている「町民文化ホール」に生かされる時には通年脚光を浴びることになる。一筆啓上賞、振媛文学賞、全国高校生詩のコンクール、そして、「まるおか子供歌舞伎」。いづれもソフトがこれまで、そしてこれからも蓄積されてゆく丸岡町。もうこの辺で、ソフトに相応しいハードがあっても良い。ソフトが生かされる時が近いのかも知れない。
 文化が様々な方面から問われている。経済状況にも大きく左右されている。町づくりにも文化のウエイトは大きい。歴史のなかで育まれてきた伝統を体感しながら、町づくりに参加することができれば何よりだ。子どもたちの笑顔も嬉しい。夢を実現しようとする大人たちも頼もしい。「まるおか子供歌舞伎」旗揚げは多くの副産物を残してくれた。


追記

 2002年9月9日。解体中の「中座」が火災で消失した。丸岡に運んだ破風や緞帳が遺品となってしまった。
 そして今年、「まるおか子供歌舞伎」は5回目の記念公演を迎える。最初から演じ続けている子どもが8名、今回で卒業となる。本人だけでなく、周りの人たちにも力が漲っている。年々町の補助や協賛金が少なくなる。あとは費用だけが心配。智恵と英知の記念公演となる。すでに全国からの問い合わせ、入場券のリクエストが始まっている。ちょっと心配なところだ。