「ふるさとづくり2005」掲載
<集団の部>ふるさとづくり賞 振興奨励賞

色をテーマにした町づくりと地域活性化
大分県竹田市 奥豊後古代紫草蘇生研究会
取り組みの経緯

 奈良の東大寺の正倉院文書のなかに、今の竹田市でムラサキ色の染料となる紫草が栽培されていることが数年前に分かりました。紫草と書いて、ムラサキと詠むのだそうですが、草木染しかなかった時代には、紫草の根(紫根と書いて、シコンという)を使って紫の色を染めていたそうです。
 ムラサキは高貴な色として知られていますが、江戸時代までは最高権力者以外は身につけてはいけない色として、禁色とも言われています。従って、厳格な管理の下に栽培されていたものだと思います。栽培の場所も、栽培技術も特定の人たちにしか分からないものであったのではないかと考えられます。
 おそらくそのような環境下で栽培や加工が行なわれていたために、郷土の歴史や文化として書き物として地元に残されていないのだと思います。
 その紫草は、現在絶滅危惧種に指定され非常に栽培することが難しいものとされています。北海道、青森県、滋賀県、和歌山県をはじめいくつかの自治体や団体で栽培に取り組んでいましたが成功例がありませんでした。
 そこで、竹田の歴史と文化の掘り起こしをしながら紫草の蘇生をしながら地域おこしをしようという呼びかけで、奥豊後古代紫草蘇生研究会(会長・後藤宗昭前竹田市長)が発足いたしました。


奥豊後古代紫草蘇生研究会の取り組み

 会は最終的には紫草の栽培の確立、紫草の歴史文化の研究、紫草の文化取り組みに関する地域への浸透、そしてそれらの活動を通じて地域の活性化への貢献を目的に始まりました。
 栽培に関しては、今年で4年目を迎えますが、絶滅危惧種に指定される植物だけあって非常に難しいというのが実感です。まず、栽培の適地や環境というものに左右されるのだろうということが言われています。特徴を列記いたしますと、標高が400〜450メートルくらいのところで水はけのよい火山灰土。アルカリ性の土質。山間地。農薬と化学肥料の残留していないところ。と、言われていますが、そのような条件だけでも満たす環境は非常に少ないといえます。
 そのような基礎的条件に加えて、南面の傾斜のあるところで1日中日の当たらないところなど様々な条件があるようです。
 4年目を迎えいくつかの成功例と失敗例を分析するなかから、栽培に関するノウハウがある程度確立しつつあります。
 歴史や文化に関する研究に関しては、いくつかの面白い成果が生まれています。なかでも万葉集との関係は興味深いものです。「明日よりはわれは恋・・・・・名欲山・・」の相聞歌が竹田市城原を詠んだもの、という説が定説になりつつあります。これは、万葉集の研究で権威のある奈良万葉文化館の中西館長が、有力説を唱えています。
 紫草の栽培地がどこかと当初は戸惑ったものでしたが、竹田市志土知(シトチ)の紫八幡神社の周辺であることも調査の結果分かりました。紫八幡神社の今のものは、建て替えられていますが、古い社の屋根の瓦に菊のご紋が印されており、皇室と深いかかわりがあったことをうかがわせています。また、地名の志土知(シトチ)は、紫土地(シトチ)を何らかの事情で変えたものだということも分かりました。
 東大寺の正倉院文書や万葉集と竹田市のかかわりが明らかになるにつれて、ムラサキが最高位の位を表していた江戸時代まで竹田市と都が深いかかわりを持っていたことが分かりますが、その内容についてはベールに包まれたものが多いのが実情です。これからの課題でしょう。
 地域とのかかわりですが、このことについてはいくつかの行事や活動を述べながら説明したいと思います。


「古代紫草と竹田」シンポジウムの開催

 第1回のシンポジウムは宮城、城原地区の住民を対象に紫草の歴史と栽培に関する理解を深めるために、平成12年7月に行なわれました。
 平成13年9月23日竹田商工会館で草木染の第一人者・吉岡幸雄氏をはじめ紫草に造詣の深い方々をお招きして、第2回の盛大にシンポジウムを開催しました。このときは順調に育った紫根を使って染色を行ないました。吉岡先生も生の紫根を使って染色を行なったのは初めての経験だったそうです。
 専門家の方々の発言により、公式の場で紫草が奈良時代から栽培されていたこと、万葉集の中に紫草の栽培管理に来ていた藤井蓮(ふじいのむらじ)が詠んだ歌があることなどが公式の場で発表され、市民に竹田市が古い歴史と文化を持ち都との交流があったことを印象付けました。
 これ以外にもシンポジウムに先立ち、紫草の栽培地だった城原、宮城地区の住民を対象にしたふるさと学習会などいくつかの活動が行なわれています。
 このシンポジウムを通じて来竹された吉岡先生は、竹田の紫草をご覧になり驚嘆されていました。「これまでたくさんの国内栽培を見てきたが、このように立派に育ったものを見たことがない。やはり、歴史や文化に育まれたものはすばらしい」と。
 そして、翌年に控えた東大寺で行なわれる50年に1回の大仏開眼供養1250年祭への紫衣の贈呈の提案がありました。


東大寺大仏開眼供養1250年祭への奉納(平成14年10月15日)

 すでにNHKのBSや家庭画報を通じてご存知の方が多いと思いますが、吉岡幸雄先生の提案が実り、東大寺の管長が身につける紫衣の行事への復活が約束されました。
 東大寺の供養祭の実行委員会の一員である吉岡先生は、絶滅危惧種となっている紫草が、万葉時代から栽培されていた竹田市で復活したこと、東大寺の行事の中で国内で紫草が栽培できないため紫衣の着用が途絶えていたが復活できること、などが竹田市の協力で復活できることなどを実行委員会で説かれ実現できる運びとなりました。
 その際も、竹田市で採れた紫根を使い、竹田の湧水で染めることに意味があるとして、入田の中島公園で染色作業を行ないました。大勢のボランティアの方、県、市の協力もいただき竹田では糸染めを行ないました。この糸を京都の工房で織り上げ、様々な加工をして完成した法衣を阿南竹田市長が東大寺橋本管長に贈呈いたしました。このときの報道により、竹田の紫草は全国の注目を浴びるようになり、今でも紫草を尋ねて来られたり、多くの問い合わせをいただくようになりました。


さらに、愛知万国博覧会への出品

 私たちが豊後絞りの指導を受けている大分県出身の藍の染色家・安藤宏子先生より、先日うれしい知らせがありました。平成17年名古屋で開催される愛知万国博を飾る染色を安藤先生が依頼され、その染色に竹田の紫草を使った作品を出品したいというものでした。
 詳しくお伺いしてみると、事前に作った作品はコーナーに飾られ世界のお客様をお迎えします。そのほかにワークショップを行ない、条件が整えば竹田の紫根を使った染色の実演を来場者の前で行なうとのことでした。世界中から集まる人たちの前で、世界中で高貴な色として大切にされてきたムラサキの染色が行なわれることを思うと、何とか実現のために協力した気持ちになりました。
 竹田のためにも先生のためにも実現したいと思い関係者に相談し、協力を得られることになりました。先日、安藤先生がお見えになり紫草の植えてある農場をご覧になり、絶滅危惧種に指定されている紫草の栽培がいかに難しいかということと、竹田の紫草が栽培に適し、他の産地のものに比べ紫根の色素の含有率に驚かれていました。


紫草ネットワークの拡がり

 町づくり会社むらさき草は、紫草の蘇生事業が行なわれようとする時期にスタートし、社名にむらさき草を使用することを了解され、一緒に紫草の蘇生や様々の活動に協力してきました。そんな関係で、これまでの取り組みや紫草に関する資料室を店舗の2階に常設しています。
 一方、東大寺で行なわれた供養祭以降ホームページで紫草の紹介と全国の紫草蘇生活動家への情報交換の呼びかけを行ない、多方面からの交流が生まれています。詳しくは、http://www.murasaki-gusa.comをご覧ください。
 竹田市が取り組む以前から紫草の蘇生に取り組む自治体や団体があることは、インターネットを通じて分かりました。
 著名な染色家や文化人からの問い合わせや交流も生まれています。紫草の里を訪ねてというツアーが組まれたり、栽培地を見学したい、染色をしたい、染料を分けて欲しいなどのたくさんの情報や交流が顕在化しています。


栽培農家の取り組み

 紫八幡神社のある志土知地区の農業に携わる人たちが、当初から栽培に取り組み悪戦苦闘しています。将来的に栽培方法が確立されれば、生産性や経済性も高まると思われますが運動の取り組みが緒についたばかりの現在は、収入的にはマイナスの状態です。
 歴史や文化を理解しながらも栽培方法が分からない状態、つまり、失敗する確立のほうが高い状態で、郷土の歴史文化の復活を目指して取り組む人たちの姿勢には、胸を打たれます。そのような必死な取り組みが、地域の子どもたちや子どもを持つ母親たちに理解され、城原、宮城地区の小学生が課題学習として取り組み、子どもなりに紫草の歴史や文化に関する研究発表を行ないました。また、栽培農家の提供で紫根を使った染色体験を吉岡幸雄先生の指導のもとに、竹田市内の空き店舗を利用して、行ないました。
 研究の成果は、むらさき草の資料館に展示されていますが、地域の人々のひたむきな取り組みが子どもたちをはじめ全体へ理解と共感を呼んでいます。栽培に参加しようとする農家の数も増えつつあります。


これからの課題

 私たちが今取り組んでいる紫草の蘇生や地域活動は、現実に竹田市に存在した文化や歴史の蘇生であります。
 この活動を通じて指導してくださる吉岡先生が自らの染色の世界を述べて次のようなことを述べておられます。
 「明治時代に化学染料が発明され、その利便性のためにそれまでの染色技法を何の検討もしないまま捨ててしまいました。化学染料で色鮮やかに思いのまま染まることにのみ目が奪われ、永いあいだ蓄えてきた伝統を捨て去ったのです。奈良時代やそれに準ずる時代に染色されたものと、化学染料で染められたものを比較するとき、古い技法を捨ててしまったことを後悔し、私は草木染の復活に心血を注いでいます。伝統とは、先人たちの失敗を繰り返し生まれた優れたものを優先的に残したものだと思います。そのなかには優れた知恵がたくさん蓄積されています。一度失われると元に戻るのが大変に難しい」と。
 最初に申し上げたように、竹田で紫草が栽培されていたことや、国の中央と紫草を通じて交流のあったことも史実として地元には残っていません。
 私たちは、このような歴史と文化を紐解きながら、伝統や文化に新しい息吹を吹き込みながら紫草の文化を蘇生することにあります。
 まだ、始まったばかりで暗中模索の段階ですが、奥豊後古代紫草研究会の会員が中心となって紫草の蘇生を通じて地域の活性化の一助となれば、と願いながら活動していくつもりです。