「ふるさとづくり'87」掲載

町づくりの原動力を培う江差地域大学
北海道 江差地域大学
 私はこの北海道の里、追分流れるロマンの町・江差、自然に恵まれ、人情あついこの町がとても好きだ。私も30代を過ぎてから本気でこの町に住む覚悟ができた。
 江差は歴史と文化の町である。先人が創りあげた、北辺の地に生きるための闘いのなかから生まれた生活文化、すばらしい歴史の足跡がある。いま、われわれは、それらの有形・無形の文化を大切に守り続けている。しかし「江差の5月は江戸にもない」といわれたニシン漁の繋栄の時代は過ぎ、いまでは、先発後進の代表的な町でもある。


まちおこしはこころおこし

 北海道維新時代といわれている咋今、古さのなかから、自分たちの新しい考え、発想の転換が迫まられている潮流のなかにありながら、依然として困習のなかに自分を生かしている。そこからは新しい発想は少しも生まれそうにない、そういった地でもある。
 昔から日本人が持ち続けてきた自立・自助の精神は、いまや崩れ去ってしまったかのように、自らのカでできることさえも捨て、誰かにしてもらい、補助を受けて生きていく姿勢に変わってきていることに、大きな危機感があった。また、古い因習のなかに生きる人々は、他からの考えやアクションを受容しようとはしない。だから、いつも閉鎖的な考え方をしている。この町に流れているものの考え方、感じ方、見方は、ここに一生を送ろうと覚悟した人間にはとてつもなく悲しいことであり、恐ろしいことでもあった。
 この町の変革、町おこしは、そこに住む大人たちのものの考え方、見方、つまり、生き方を変えることからはじまる。他を変えようと願う者が自己変革をしないで、どのようにして他を変えることができるのだろう。「自己変革なくして他の変革は起こらない」という仮説を立て、「町おこしは心おこし」の方向を見い出したのである。 いまの大人たちが感じていること、悩み、失望しているこの町を、次の世代の子どもたちに、現状のままで引継いでいってよいのだろうか。せめて大人たちが、この町のために精一ぱいの生き方をした姿を、足あとを、大人たちの後姿を見せておくことが、次の世代へのせめてものの大人としての責任であろう。物理的な過疎は、たとえ現状では歯止めできなくとも、心の過疎だけは防ぎたいと思っている。そのためには、困習や開鎖性を打ち破る方策として、他からの血の移入、他からの考え、思想をこの町に注入することから手がける提唱を試みた。


いま“なぜ”をみんなでゆっくりと

 「他人の話を聴くことによって、発想の転換への刺激を与え、起爆剤になってくれれば」と思い、昭和56年(1981年)10月、地域に住む人たちが自らのカで企画・運営する生涯学習の場・江差地域大学の開校にふみきったのである。56年6月豪雨のなか江差地域大学構想を提唱する会を開いた。
 私一人だけではなく他にも同じ考えの持ち主がいた。私たちの提噌に賛同は得たが、まだまだ夢のようなこと「どうして1万円も出して勉強する人が集まってくるのか?」「100人も集まりませんよ」「江差とはそんな町です」という意見もあった。
 一方では教育関係の方々、とくに社会教育関係者にはひとつの誤解も起こった。それは私たちがいま起こそうとしている生涯学習の場は、現在の社会教育のあり方や方法への批判ではないのか、ということである。決して施策についての弱点を指摘あるいは、カバーするためのものではない。社会教育の専門家からば知恵を出してもらい援助・指導を受けるが、町や道・国から資金援助は受けず、自分たちが学ぶためにお金を出し合う。そこに自立・自助の精神の高揚をはかろうとしているのである。
 種々の難門はあるが、地方の時代と呼ばれているなか、いま私たちが手を汚し、町のなかに住民に問題を投げかけ、そこからみんなで考える。共通課題を解決するための行動を起こさないと、まだ10年の遅れをとると、いち早く察知した数名の人が現れてくれた。
 ひとりひとりのスタッフが、いま、なぜ江差地域大学なのか? この理念を明確に認識することに時間をかけ議論しあった。あとは、目標に向かってどうエネルギーを爆発させていくか、各々の熟意にかかっていた。


発想の転換へと連動するとき

 開校1年目300名の目標が500名を超え、4年目600名を超え、5年目700名を数えるという大集団に成長した。
 この現象は知名度ではない。ひとりひとりのロコミという熱意が人を説得し動かした。各ジャンルの著名講師の話を聞く。それぞれに優れた人生哲学を語ってくれる。その話を聞くこと、そして、その人々に出合うことによって、学生(町民)の受信機を磨き上げる。すなわち、感性を磨き上げることにより、次は自己の考えを、発想を送信するときがやがてくる。そのことがいままでとは異なったコミュティヘの意識の高楊となり、発想の転換へと連動している。
 町民が自分のお金(年間1万円)を出して自分の学習をする。このことは、町が道(行政の意)が何がしかの援助をと直感しがちであるが、そうではない。自己の学習のためにお金を出す。一人では聞けないが、地域のみんなでお金を出し合う(割勘根性)ことによって、著名な方々の話を聞き、勉強ができる。そして、江差まできてくれる。そこには距離感や文化の差が解消され、そこに自立、そして連帯意識が生まれ、いま、町民として何が成せるか、行政は何をしなくてはならないのかを同じ土俵・ステージで考えてみる。町づくりの分担を明確にし、ともに住む者の英知が集結されたときこそすばらしい。次の世代へ胸をはって手渡すことのできる、わが郷土江差ができるであろうと信じている。
 あらゆる業種の職業人、住民が集まり学ぶ集団は牛歩ではあるが、ひとつの胎動をしている。90歳を超えた、一学生・大塚翁が「地域大学だより」のなかで「期向上吾歩」と一生涯学問である「生きざま」を写し出している。老若男女がともに同じステージの上で、学ぶ姿を示す場、生涯学習の場の設定である。


住民の交流から国際交流へ

 IYYの若者たちは国際交流に目覚め、彼らの手で実践しはじめた。彼らは桧山地方でははじめての国際交流シンポジウム・フィールドパーティを開催した。まわりの心配を振り切り、やればできることを見事に実証した。
 閉鎖的で地域エゴ・商売損得だけで生きている人間の集団の町だ。それだけに国際交流を実践し、行動を起こす前に確認し合っておかなくてはならないことは「となりの町の垣根をも越える(交流)ことのできない者にどうして外国と交流ができるのか」という論理を明らかにしてから、活動が開始されなくてはならない。その心づくりに十分な時間をかけて論議し、意志の疎通をはかってからのスタートが大きな成功をつかむことになった。
 イベントは、決して大学の目的ではないが、たとえば音楽ホールもない、施設不備、ピアノも不十分な町にポーランドのピエトロ・パレチネ氏(ショパン・コンクール審査員)を迎え、ピアノ・コンサートを聞いたり、耳にもしたことのない古典雅楽笙演奏の第一人者である宮田まゆみ氏とガラス工芸家の浅原千代治氏をジョイントさせ、古典雅楽の夕を開催し住民に提供するなどのイベントも行ってきた。これなどは何かを学び、何かを作るための手段として、活用し、連帯感を作り上げるために企画されている。
 人口13000人ほどの町で、いま、同じ学習の場を700人もの大人たちが持ち、そのコミュティの輪から、明日の江差の町を考える大人たちが数多く出てきている。もはや卒業生は2000名を超した。いま行動を起こす大人たちがたくさん出てきている。数多くのイベントを超えてきた、そこには連帯があり、すばらしい仲間が存在している。
 “継続は力なり”。このような因習の町には、継続は力であり、数は説得でもある…。
 すばらしい町、江差へのロマンを追って、町には今日も大人たちが熱く語り、酒をくみ交わしている。そんな座が数ヵ所あるにちがいない。いまは、第6期(6年風)開校に向かって、学生募集に走り回っている。今日も大学運営について運営委員会の人たちが班長を中心に論じ合っているにちがいない。今日も事務局のスタッフは次の準備、雑用にかけまわっている。学生である地域の大人たちが、以前に開いた、出合った講師についての話に花を咲かせているにちがいない。
 着実に新しい息吹が、地域住民の行動が、スローではあるが起こりつつあることを肌で感じている。この5年間の活動はお互いにすばらしい出合いであり、素晴らしい街づくりの原動力になることを念じ、地域の教育力や民土が高まってくることを念じ、明日を夢みている。