「ふるさとづくり'87」掲載

みんなで田舎を飲み喰いかたる会
広島県 グループ新友
 抜けるような青空、そびえ立つ天守閣から突然、ほら貝が鳴る。勇壮な太鼓の音が響きわたる。昭和60年5月26日、私たちが知恵と力を結集して実現した、手づくりの祭り「みんなで田舎を飲み喰い語る会」の開幕である。
 祭りへのきっかけは、59年の秋、広島県の県北、庄原市で「過疎を逆手にとる」という面白いタイトルの出版記念パーティが開かれたときであった。
 これは中国山脈の盆地に点在する市町村の若者が中心になって発足した「過疎を逆手にとる会」のロマンチックで、しなやかで、したたかな、はつらつとしたまちづくりを大都市生活者が共鳴して取力した。その活動を山間の村や町にしか残されていない人間と自然の魅力を1冊の本にまとめたものでした。著者の指田志恵子さんも一家そろって東京から駆けつけた。 
 この本の中に永六輔さんが、こんな手記を寄せている。
   「手づくり宣言」
  創ることを忘れた人間は
  人間ではない
  手をつかい道具をつくり
  ものを創り出して
  人間は人間になった
  そして今
  人間は道具をつくりすぎて
  手をつかうことを忘れ
  物を創造することを忘れ
  歯車と化した。
  今一度手づくりをはじめよう
  下手を恐れず
  己が己であるために
  己を掘って生きる証しを残そう
 追いつめられた過疎の若者たちが居直っているわけではなく、その運動に遊びの多いことが救われる。10回遊んで3回うまくいけば立派な3割打者という気分なのである。
 「楽しくなければ、いいことでもやらない」という若者もいて、だからこそ都会に去った連中も輝いてくるのだと思う。 
 永六輔さんは、いまも中国山地の若者たちのよきアドバイザーであり、よき兄責分である。21世紀に向けて、確実に何かが変わろうとしている。それはやはり原点に戻った創造性とヒューマニズムではないかと思うとき、都市の街づくりも芸術感覚を伴った創造性と人間性が充実していかなければならない。そうでなければ、逆に街のなかに過疎がやってくるときがくるかも知れない。 
 過密した都会を都市砂漠にしてはいけない。そういう思いから都市のド真ん中でまちとむらを結ぶ、大交流会をやろうと同じような思いで参加した広島県庁職員の橘道憲さんと誓い合った。


人と自然、人と文化の交流の場

 私が理事長をしている広島市新川場商店街振興組合・通称「並木通り」は、広島市の中心部に位置し、いまでは若者の街として定着し、個性的なブティックを中心に、イタリアンレストラン、ケーキショップ、小物の店などが並び、土、日曜ともなれば若者たちがどっと繰り出す。都心部にありながら、名もない裏通りにすぎなかった10年前とは、大きく様変わりした。店舗だけ、事務所だけの通りではなく、人が住んでいる温かみを街づくりに盛り込み、自然と人間を優先する街をテーマに、既存商店街とは一味違った手づくりの活動をすすめてきたことが、ユニークな商店街に育った原動力となった。
 点から線へと発展した「並木通り」からさらに、面的に拡げていく考えで、周辺の6つの町内会、7つの商店街、50余りの大型店、企業に呼びかけ、57年に「広島市中央部地区振異の会」が発足した。明るく活力ある街づくりをテーマに地域の連帯が一段と深まり、住みよい街づくりにますます拍車がかかってきた。そんななかで私は58年12月、広島県コミュティづくり推進協議会が主催する「コミュティ大学」に出席し、中国地方の各地で活躍している若者たちと出会う機会に恵まれた。そして、交流が始まった。 
 都市では気温の変化でしか季節を感じないが、山間には雄大な自然のロマンがあり、四季それぞれに変化に富んだ美しさを見せている。そのふところに抱かれて、いきいきとした生活とともに、町づくり、村おこしが着々と進められている環境の異なる地域の相互の交流こそ新鮮で、創造性があり、そこから新しい地方の文化が生まれる。 
 自然の恵みに触れ、人と人の出会いのなかで、人間の原点にかえることが街づくうの何よりの潤滑油になろう。こうして人と自然、人と文化の交流の場をつくろうと、60年1月、広島市似島臨海少年自然の家に、いまからの時代に向け、個々のわくを超えた行政マン、商工会指導員、公民館主事、芸術家、自営業、マスコミ関係の人たちが一堂に集い、企画集団「グループ新友」が護生した。 
 そこで、4年後の広島城築城400年を目指し、昭和60年5月26日、広島市の象徴である広島城で、まちとむらを結ぶ文化のイベント「みんなで田舎を飲み喰い語る会」を行政、企業に頼ることなく、手弁当、手づくりをモットーに毎年開催することを申し合わせた。


まちとむらの交流

 16平方メートル足らずの私の事務所では、仕事を終え三々五々集まってくる仲間たちと、カンカン、ガクガク深夜まで議論が続き、いろいろなアイデア、夢のような話・運営・分担など実現に向け、熱っぽい話し合いが続いた。 
 その間、祭りの趣旨に共鳴した広島県を中心に、島根、岡山、山口の各県下28町村、過疎を逆手にとる会、高野町リンゴ今日話国、総領町ゆうぐれ市、武生刃物工業研究会(福井県)など40団体の賛同も得られ、準備は着々と進んだ。そしてついにその日がやってきた。5月26日午前10時、待ちに待った開幕である。
 前日まで続いた雨も関係者全員の願いが天に通じたのか、雲ひとつない日本晴れもお祭りを盛り上げた。
 前日の中国新聞の「天風録」は次のように祭うの模様を報じた。
 言うなれば、主役のいない祭りだろうか。広島城跡公園を舞台に催された「みんなで田舎を飲み喰(く)い語る会」である。あえて主役をあげるなら、祭りの企画者、賛同者、そして参加した人達ぜんぶいま、この祭りについて、あるなしのデジタル方式で解析してみると。まず、なかったもの、(1)補助金の類。すなわち、お上が関与していない。(2)スポンサー。すなわち、企業の寄附金なし。逆にあったもの(1)人間そのもの。だれに頼まれるわけではなく、企画者達は集まった。目を輝かせて知恵を持ち寄った会を重ねるごとに、少しずつ賛同者が増えていった。人の輪が少しずつ広がっていた。(2)太陽。企画者達の心配を吹き飛ばすように朝から晴れわたった。五月晴れというより炎天に近い。公園の新緑が、燃えるように照り輝く。国際交流広場に展示された児童画が呼応するように照り輝いている。太陽と大洋の国、南大平洋の島々の子供達が寄せた絵だ。(3)人々の熱気。田舎の人達がモチをつく。おにぎりをにぎる。炭火でヤマメを焼く。メバルを煮る。豆腐やコンニャクをつくる。石ウスで大豆をひく。飛び入り青い目の子がひく。黒い目の子がそれに代わる。田舎を語る会、むらおこし車座談議の熱気も上がった。結成したばかりの青年団の話。“おばあさん軍団”の話。南太平洋のニューギニアの話。特別町民募集の話。最後に泥くさく、粘り強く人の輪を広げていく話。


市民の祭りになったね

 この欄を担当された論説委員の阿部洋さんに2回目の今年も手打ちの農機具、包丁を持ち込んのかしだ広島県千代田町の野鍛治、三上正幸さんの露店でお会いしたが、阿部さんが買う人ではなく、売る人になっていたのには驚き入った。
 それは新聞人というより鍛冶屋のオッサンそのもので、私と目が合った阿部さんは、いかにも楽しそうに笑っていた。売る人が楽しければ買う人も楽しい。記事を書く人までこのお祭りに参加している。このことに確かな手応えを感じた。
 「来年もまたお会いしましょう」   
 私は阿部さんと再会を約束して別れたのだった。  
 1回目の祭りは、予想していた入場者5000人を遥かに上回る36000人の入場者で終日賑わい、大成功に終わった。その後、お礼の電話や多くの知らない人からの励ましの手紙などをいただいた。だが第2回目のお祭りに向けて気勢が上がるはずのグループ新友全員が一向に燃えないのである。原因は、私自身にあった。1回目のお祭りは、あくまでも遊びを重視し、雨が降れば傘を差し、酒でも飲めばいいじゃないか。そんな気持ちではじめたグループ新友のお祭りに、周囲の期待感が想像以上で、それが重圧となり決断がつかない。そんなある日、あの阿部さんと、ある会合でお会いした。 
 「あの祭りはグループ新友だけのものではなく、市民の祭りになったね」  
 その言葉に私は目が覚めた思いがした。  
 何を迷っているのだ、やるのだ。この気持ちをグループの人たちに伝えた。  
 「そうだ、新しい気持ちでやろう。」そして私たちは、まちとむらとの交流を目指して再び動きだした。翌年61年5月25日、再び広島城に、ほら貝が響き渡る、太鼓が鳴る、ひるがえる「百万一心」のノボリ、5万人の大親衆が見守るなか、毛利発祥の地、吉田町から西5キロを黒沢明監督の映画「乱」のロケで使われたよろいかぶとに見を固め、鉄砲、槍、ノボリを務えた「毛利元就公をよみがえらす会」30名の武者行列が昼、夜歩き続け入城する。盛んな拍手のなかで、「あっ毛利が帰ってきた」と、思わず叫んだ老人の眼に、なぜが涙が光っていた。