「ふるさとづくり'88」掲載

トンボ王国づくり
高知県中村市 トンボと自然を考える会
 いま、世界でも例のないトンボの保護区づくりが進んでいる。舞台となっているのは清流四万十川のほとり、高知県中村市池田谷地区。この計画は昭和60年夏、国際的な自然保護団体「世界野生生物基金・(WWF)」の日本委員会が参画を発表して以来、各方面から熱い視線が注がれている。それからほどなく、昭和60年12月には中村市に本部を置く、これまた世界でも例のない昆虫保護を主目的とする法人組織「トンボと自然を考える会」が発足した。目下、この試みは「WWFJ」と「トンボと自然を考える会」を主体に、高知県と中村市の積極的支援を受けるという、文字通り官民挙げての運動に発展している。これは、この計画の目的を単に自然保護のみに留めず、合わせて地域の活性化にも役立てようとしているからである。


池田谷のトンボ

 将来構想、運動手順の前に、まず池田谷のトンボ相を説明しておきたい。
 トンボの仲間は世界で約5,000種、日本列島からは約200種が知られている。池田谷を中心とする四万十川流域では、これまでに約80種のトンボが記録されており、全国的見地からも学術上貴重である。トンボは一種類ごとに生息する環境(とくに水系)を異にしており、トンボの種類の多様さはそのままその地域の自然環境の豊かさを示すバロメーターとなっている。
 池田谷は周囲の山林すべてを含めても50ヘクタールに満たない小規模な湿地帯である。東方向に開けた細長い2本の谷間の底部約6.5ヘクタールほどが農耕(水田)に利用されている。しかし、谷の出口付近は、年中、水の涸れない湿田で、現在では廃田として放置され、約2ヘクタールにおよぶ湿地帯が広がっている。この地のトンボがもっとも繁栄していた時期は恐らく昭和55年頃である。谷の出口付近に位置する水田ではシオカラトンボやアキアカネなどが、少し奥まった場所の水田からは、シオヤトンボやカトリヤンマなどが生まれ、谷の中央を走る池田川には下流域でハグロトンボやキイロサナエなど、上流に進み水田地帯を縦横に巡る細流となってからはオニヤンマやヤマサナエなど、最上渡部に至ればニシカワトンボやミルンヤンマなど純然たる渓流種を見ることができた。
 しかし池田谷を象徴するトンボたちは、むしろ谷の出口付近に広がる湿地化した廃田に住みついていた。コフキイトトンボ、マルタンヤンマ、マイコアカネなどなど。絶滅寸前とまでいわれたネアカヨシヤンマさえ、夏の夕暮れには連日数百に上る群飛を目にすることができたほどである。それまでにこの谷全体で記録されたトンボは60種。この種数密度はおそらく日本一だろう。


トンボ保護区づくりのきっかけ

ところが、このような湿地帯はそのまま放置しておくと湿性植物が無制限に繁殖、やがて全く水面のない草原と化してしまう。湿性遷移と呼ばれる現象である。湿性遷移によって減少しつつあるトンボたちをもう一度甦らせ、願わくはさらに増殖させるため、こうした湿地帯を確保し、そのトンボたちがもっとも好むかたちに整備してやろう、というのが今回のトンボ保護区づくりの最大のポイントなのである。
 ここでひとつ断わっておきたいのは、トンボというものはただ単純に水辺だけあればいいというものでぱなく、一種のトンボが生きていくためには、幼虫の住みかである清潔な水辺はもちろん、餌場となり運動場となる開けた草原や明るい木立、さらにねぐらとなり、かつ、また、豊かな水を涵養する深い森の存在が不可欠である。例え減反という人為的な原因で生じた水域とはいえ、ただそれだけならトンボたちは決して住み着かない。


トンボ王国の目的

 日本人が、ほんのささいなことからも豊かさを感じることのできる心を持ち続けていくためには、本当の日本の自然に日常接していくことが必要と考えられる。その場を与えたい、というのが実は「トンボ王国」なのである。トンボはごく身近なもの、トンボはしょせんトンボに過ぎない。トンボのような当たり前のもののなかからでも、楽しさ、豊かさを見出せる感性を、というのがトンボの保護区づくりの真の目的である。


保護区づくりの経過とトンボと自然を考える会の活動

37年7月 杉村(小2)トンボ収集を始める。
47年5月 杉村(高3)中村市内随一のトンボ生息地が公共事業で埋めたてられたのを契機にトンボの保護運動を決心する。
48年3月 杉村・保護運動のためのトンボの分布、生態調査を始める。(標本収集、写真撮影など)
56年2月 杉村・沢田寛氏(映画館経営)の協力を得て、本格的な保護運動を始める。(小学校等での講演、公民館等への写真パネル展示等)
57年5月 杉村・高知新聞紙上にエッセイ「トンボ王国」を連載。(1年間)
58年7月 杉村・自宅の一部にトンボの展示室、トンボギャラリーを開設。同時に私製の絵ハガキでトンボ保護区づくりへのナショナル・トラストキャンペーンを開始。中村市の計画する四万十川河川敷公園内にトンボの生息地を残させることに成功。
59年11月 杉村・世界野生生物基金日本委員会(WWFJ)にトンボ保護区づくりへの支支援を要請。
60年3月 WWFJ・トンボ保護区づくりへの支援を理事会決定する。
60年6月 WWFJ・トンボ保護区づくり参画を正式発表する。
杉村・新潮社より文庫「トンボ王国」を刊行。60年7月 杉村・安部丑二氏の協力を得てトンボ保護区づくりの母体となる法人組織の設立準備を始める。
8月 杉村・集英社より写真集「シオカラトンボ」(共著)を刊行。
8月 トンボ保護団体設立の参加者が百名を突破。ひと先ず任意団体「トンボと自然を考える会」を発足させる。
   10月 トンボと文化を考える会、機関紙「トンボと文化」を創刊。以来、隔月で発行を続ける。
   2月 WWFJ・中村市池田谷の土地取得を開始する。
12月 賛同者402名を集め、社団法人「トンボと自然を考える会」設立総会を開く。県知事より正式に社団法人「トンボと自然を考える会」設立認可を受ける。
61年1月 トンボと自然を考える会・土地取得を開始する。当初は買い上げという形をとっていたが、地価の関係もあって最近では、専ら借り上げ方式である。
3月 取得地の整備作業開始。ボランティアの公募。
7月 杉村・あかね書房より「トンボの楽園」を刊行。
10月 第1回全日本トンボフォトコンテスト。1,600点が集まる。
62年5月 イギリスからノーマン・W・ムーア博士らを迎え、トンボ王国会議を開催。約400名参加。

9月〜第2回全日本トンボフォトコンテスト。730点集まる。現在、トンボと自然を考える会の総会員は914名。上地取得面積は、買い上げ1,886平方メートル。借り上げ19,440平方メートル。計22,326平方メートル。今でも新聞、TVなどで何度も報道され、トンボの番組作りもされている。


トンボ王国の将来構想

 現在、地元でも、量販店でのスタンプ集めなど、少しずつ関心が高まりつつあるが、今
後、この保護区を観光資源として役立てるために、もっともっと地元の人たちの興味を呼び起こさねばならない。なぜなら、これからの観光はモノや場所という現実的なものだけでなく、むしろ、その地域に住む人たちが、それらを愛情を持って守っている。そうした情熱を味わいにくる方向に変わりつつあるといわれているからだ。
そこで、最終的には池田谷全域を誰にとっても魅力的で楽しいと感じられる、人とトンボの楽園にしたいと考えている。思い通りの楽園が実現すれば、恐らくスポーツ施設が次々とできる同じ理由から、全国各地にこうした保護区(トンボには限らない)が作られることになろう。これこそ、自然保護産業成立のときである。カネの使い方が下手なために世界中の非難を浴びている経済大国ニッポン。自然を守るためにカネを使いはじめたなら、必ず日本に対する世界の目も変わってこよう。そして、その「心」こそ、日本を代表する輸出物になるだろう。このように考えると、この計画の失敗は許されない。その成否のカギはひとえにトンボが面白くなるかならないか、虫の音にも小さな幸せを感じる心を多くの人々に持たせられるかどうかであろう。地域の活性化、それはまず心の活性化から始めなければならない。
 筑後に、このような自然保護区に多勢の人を招いても大丈夫なのかという声がある。一番問題なのはマニアの乱獲だろう。この点に関して一つだけいえることは、池田谷の湿地帯は水深こそ20センチ程度だが一歩誤ると、腰まではまりこんでしまう大変な泥沼の世界、照りつける太陽の下、泥まみれになってトンボを追い回す馬力のある人間は、私を除いてそう沢山はいないだろうということである。