「ふるさとづくり'89」掲載
入賞

流山市立博物館友の会その歴史と現状
千葉県流山市 流山市立博物館友の会
見る資料館から参加する資料館へ

 千葉県の北部江戸川ぞいに、流山という人口12万ほどの町がある。かつては江戸川の水運とみりんの醸造で栄えていたが、いまは東京のベッドタウン的性格を帯びた静かな田園都市である。これといった大きな企業も無く、税収も少ないので派手なことは何もできない。しかしこのところ千葉県下で最も文化運動の活発な町としての高い評価を得、近隣の市町村からも羨ましがられている。これも、地味な文化運動を10年間、コツコツと積み上げてきたからに他ならない。
 昭和53年秋11月5日、流山在住の作家北野道彦が、同じ町に住む旅行作家の山本鉱太郎を訪ねた。こんど流山市に市制10周年を記念して市立流山資料館がオープンし、“見る資料館から参加する資料館へ”をキャッチフレーズにしているが、ひとつわれら市民もそれに呼応して資料館友の会を結成し、いろいろ手助けしようではないかと提案した。
 北野は、若い頃から生きた社会科の書き手として知られたノンフィクション作家。全生涯を通じて社会との強いかかわりの中でものを書いてきたし、山本は、1年140日を旅に過ごし、全国各地のふるさと運動とかかわりをもってきた。
 2人はすっかり意気投合した。2人とも東京っ子だが、縁あって流山に住みついたかぎり、流山のために一肌脱ぎたい、と思った。しかし、誰もがやるようなイベントの連続ではおもしろくない。地味だが、後世の人にとって必ずプラスになることをしよう。
 その結果、次のテーマを決めて町の有識者たちに呼びかけた。
・流山とその周辺地名研究
・利根運河と江戸川の水運調査
・古民家の分布調査
・野仏や板碑、祠などの分布図作成
・流山に関する古文書や資料の収集と記録
・古老からの聞き書きと録音
・流山の歳時記や流山のこと初め調査
・流山電鉄や東武野田線の調査
・みりんや醤油などの醸造史
 集まった者は住職、大学教授、高校教師、編集者ら約20名。資料館はのちに博物館となったので、会のいまの正式名は流山市立博物館友の会である。
 ふつう各地の博物館友の会というのは官製行政指導型で、お役所が地元の文化人に依頼して作るものがほとんどだが、流山の場合は全くの民間任意団体で、経済的にも自主独立、行政の影響は一切受けない。


研究誌「流山研究」を発表

 歴史散歩、文学散歩を続けるうちに2人で始めた小さな小さな運動が、とうとう500名の会員を擁する千葉県最大の文化団体(歴史研究)となった。家庭の主婦もいれば、老人ホームで悠々自適の余生を送っている人も発憤して入会してきた。とにかく肩書は種々雑多、元警察官もいる。会費は年2000円。
 ただ運動するだけでは、やがて記憶も風化しよう。自分たちの運動をきちんと記録するために、年4回会報「におどり」を出すことにした。におどりとは、
 鳩鳥(におどり)の葛飾早稲を饗(にえ)すとも
 其の愛(いと)しきを外に立てめやも
という葛飾を歌った万葉集の歌からとったもの。におどりはカイツブリという鳥の古名で、潜水のとても巧みなかわいらしい鳥で、水上にぽっかりと浮かび、キリキリと鳴く。かつては流山周辺の川にたくさんいた水鳥である。
 単なる記録だけでなく、会員の研究も積極的に掲載したが、なにしろ12ページという薄いもの。そこで毎年1回春に「流山研究」という研究誌を出版することになった。貧乏世帯なので町の商店や医院から広告を集めることにしたが、みんな広告集めは苦手である。苦手でも、頭を下げてまわらないことには本は出せない。そしてようやくのことで20万円の広告を集め、あとは主な執筆者が1人1万円賛助することで、ようやく創刊号を出すことができた。146ページ、会員には無料配布である。
 レイアウトもカットも校正も、すべて会員の手による流山研究。苦しい船出だったが町の評判はすこぶるよく、以来今日まで7号も続き、経済的にはもうつぶれる心配はないだろうと思う。
 現在の出版部数は1000部、製作費150万円。内訳は広告70万円、執筆者の賛助金40万円、あとは会費でなんとかまかない、今年夏出版された第7号は、厚さが214ページにもなり、表紙にビニールがけの本格的なものである。3号から毎回1年前に特集テーマを決め、執筆者は1年間そのテーマに真剣に取組む。古老に会い、旧家の土蔵を見せてもらい、図書館で資料あさりをし、できた原稿を検討しあう。そして実現した特集は次の通りである。
〈3号〉利根運河
〈4号〉ムルデル(利根運河建設功労者)
    終戦40周年、8月15日その日あなたは…
〈5号〉流山老舗物語
    流山の歴史4つの疑問
〈6号〉流山と太平洋戦争
〈7号〉流山と交通
 のべ何10人によるさまざまな分野の研究成果は、従来から流山で言われてきた定説を次々に書きかえ、さらにこれからも新事実が次々に現われることだろう。趣味の段階を越えて、500人の会員がみな文化財委員、文史編さん委員の心境である。
 もっとも、歴史研究だけは、とてもこれだけの結束、会員増加は望めない。幸い旅行作家や歴史書の出版社の編集局長など人材も豊富なので、時にはバスを使って信州木曽街道歴史文学散歩をしたり飛騨高山や古川、会津若松、川越、横浜、水戸、明治村、リトルワールドに行ったり、東京下町や深大寺散歩をしたりしてきた。おいしい物を食べ、たくさんの博物館を見てまわる、講演会や文章講座を開く。こうして毎月1回は集まってどこかで誰かが何かをやっている。
 時には、清里の高原ペンションを借り切ってシャンソンとタンゴのタベをやり、時には西伊豆の松崎温泉で、浴衣がけでシンポジウムをし、時にはダンスパーティを開いたり東京下町の寄席へ行ったり…。
 そうした日頃のスキンシップの中から連帯感が徐々に生まれていた。初めは誰しもはにかみ、躊躇し、遠慮がちに喋るが、1年もすればもう10年の知己のように楽しく振舞う。人々の心理を巧みに掴んだ会の運営のうまさにもよろう。
 実質的にはみんなが会長であり、さまざまな会のつど、司会者も変われば提案者も変わり、上下の区別も全く無いからみんな喜んで出席する。どんなに偉い大学教授でも作家でも、友の会の会合の時は進んで受付係をし、お茶を入れ、会費を集めたり、パンフをくばったりする。
 縁あって流山に住みついたのだから、新旧住民を問わず市民のみんなが幸せになって欲しいと私たちはいつも願っている。そのためには、私たちは何をなすべきなのか、抽象論、観念論を言う前に、まずはできるところから実行しよう。
 いま、私たちの近くにある手賀沼は、日本一汚染された招である。大正の初め、武者小路実篤や柳宗悦、志賀直哉、バーナード・リーチら白樺派の文人たちが住み、絶賛してやまなかったあの美しい沼が、いまや生活雑排水や工場排水でドブ沼と化し、アオコが水面を覆って毎夏何万尾ものコイが白い腹を見せている。かつては沼底から清水が湧き、それを飲み、そこで泳いだという手賀沼が、いまや瀕死の重傷である。
 どうすればよいのか。幸い博物館友の会に作曲家や作家や演出家がいたので、じゃひとつ創作オペラをやってみるか、という話になった。地元を舞台にした書き下ろしのオムニバスオペラである。初めは資金のことでみんな気遅れしていたが、台本は出来、作曲は進んでいる。とにかく挑戦してみよう。講演会をしたって来る人はせいぜい、5、60人。反公害写真展をやってもさっぱりだし、各戸にちらしをまいても効き目がない。しかし柏市の文化会館大ホールでオペラを2日間やれば、少くとも4000人の人たちは手賀沼の汚染についてどうしたって考えざるをえなくなる。
 オペラ実現運動は日毎に高まって、170人からなる実行委員も結成された。ついに東葛地区400人の合唱団も出演することになった。プリマ級の出演者、演技陣、それに照明、装置、受付などの裏方200人を入れると、総勢約700人である。時間は約4時間、オペラは、お金を措しんでは面白くなくなる。やるからには生涯の思い出に残るものを、ということで、企業にお百度参りして2200万円集めることに成功した。
 実行委には他市町村の友の会以外の人も大勢入っているが、作家、作曲家、演出家はすべて日頃親しい友の会会員であり、友の会だけでチケットを500枚以上売り、まさに全力を拳げての応援である。
 この講演はついに大成功。全席満員で拍手は10分間鳴り止まなかった。出演者も見る者も、みんな涙を流していた。そしてもう手賀沼は汚すまいと、心に誓ったはずである。

 市民を大きくまきこんだ運動のもう1つにムルデル顕彰碑の建立運動があった。ムルデル干拓治水で有名なオランダの土木技師で、明治12年(1879)日本政府のお雇い外国人として来日し、利根川、江戸川、三角港をはじめ日本各地の河川や港湾の建設にあたった。
 その頃、千葉県北部は水運の便すこぶるわるく、利根川と江戸川を最短距離で結ぶ利根川運河建設待望の声がほうはいとして上っていたが、容易には実現しなかった。しかし人見寧、広瀬一郎、ムルデルらが悪戦苦闘のすえ明治23年、ようやく完成した。生活習慣の違いや言葉の不自由を越えて日本人と力を合わせて難工事を完成させたムルデルのことは、実は意外と日本人に知られていないのである。
 そこで友の会有志は、オランダ本国や大使館からの資料をとり寄せ、熊本県の三角港にも調査に行き、そのほかさまざまなルートからムルデルの生涯を精力的に調べ、「流山研究」に何度か発表、「日蘭学会会報」にも17ページにわたって詳細に報告。学会の注目を浴びた。
 調査だけでなく、利根運河のほとりに顕彰碑を建てようということになり、市民から広く浄財を集めるため、友の会を中心にムルデル顕彰碑建立実行委員会を結成。市内各地で講演会やシンポジウムを開いたり、山本鉱太郎の書きおろし「青年たちの運河」(2幕9場、2時間、観客3000人、会員梅田宏演出)を野田と流山の文化会館で公演。文明開花の波に大きく揺れ動く醸造の町流山と野田を背景に、青年実業家秋山真之助やムルデル、そして運河実現に情熱を燃やした人見や広瀬がどう生き抜いていったかを描いた。
 こうして着々と機運を盛り上げ、ついに昭和59年4月、赤御影石の立派な顕彰碑を建立。吹奏楽高なる除幕式にはオランダ公使夫妻も列席して国際親善に一役かわれた。
 その後、市や建設省が碑の周辺にたくさんの桜を植えたり石を置いたり浮橋を作って、水辺公園として整備し、今では楽しい市民憩いの場となっている。
 友の会もはや今年で創立10年。11月27日(日)には柏のプラザ平安で記念パーティをやることになっている。それと関連した記念行事として、「智恵子抄」後年と朗読の集い、海老原澄子津軽こぎん展、千葉県関宿が生んだ天才棋士関根金次郎の生涯を劇化した芝居「名人(山本鉱太郎作)」を講演することになっている。朗読も友の会会員たち、芝居の原作や演出、作曲もすべて友の会会員で、日頃のスクラムのよさが舞台でどう生かされるか、今から楽しみである。
 こうして、歴史や文学の研究、音楽、芝居、工芸、オペラヘの参加を通して、“人間が生きる”とはどういうことなのか、それを改めてみんなで考えてみようではないかと、日頃から話し合っている。
 そしてこれからの文化運動は、狭い一流山のことだけを考えるのではなく、もっともグローバルなものの見方をしなければならない。そのためには隣接する松戸や柏、我孫子、野田、関宿、沼南などの町々とも連帯して情報を交換し合おうということで、すでに何度かシンポジウムも開き、音楽会や文学散歩でも交流し合っている。
 友の会創立10周年。いわば1つの節目。さらに心をひきしめ地域社会の繁栄をわが会の発展のために力を尽したいと思っている。そしてわが町は、いま少しずつ活気づき、面白くなりつつある。