「ふるさとづくり'89」掲載

九十九里浜夢構想−まちおこしふれあいフェスティバル
千葉県飯岡町 面白くて為になる会
マンネリ打破、本物を生み出す工夫

 飯岡町を語るとき飯岡助五郎という。おなじみ天保水滸伝だが、町には汽車の駅がない。昔、汽車が走ると煙で農作物が汚染されたり、汽笛で鶏が卵を生まなくなったり、イワシが逃げてしまうなどということで、鉄道の来るのを反対した。逆に隣町に名前だけの飯岡駅がある。
 最近では大型フィッシュミールエ場建設が公害問題等の理由で反対者が続出して、完成したがまだ操業はしていない。昔を再現したかのような人間模様であった。飯岡町には公民館、文化会館はない。各種団体の中で、会議や集会や催しを行うのに、役場や農協や学校を借りることを、余儀なくされるため、時間制限や規制が多く困っている。不平不満も多く聞いたりもする。しかし文化施設を整備することがイコール地域文化の活性化につながる保証はない。そこで、創意工夫して仲間と力を合わせてささやかな手づくりのイベントを行うキッカケとなった。
 地域活動の中で青年団といえば昨今の時代変化の激しい中、どこの地域も衰退ぎみである。当時飯岡町青年会もやはり多くの問題、課題をかかえていた。1976年に静両県細江町青年団が飯岡へ交歓会に訪れた。彼らは青年団活動が活発で、会の運営や振興も手慣れており非常にうまい。飯岡の先輩達のぎこちなさに比べ、彼らの得意満面に話す姿がうらやましくまたくやしくもあった。「あいつらに負けるか! よし俺がやる」とつぶやきながら翌年青年会長になった。
 千葉県教育委員会主催「洋上教養大学」に参加する機会に恵まれた。この洋上研修3泊四日の船旅はなかなか好評で、活発な青年団の参加希望者が多くなかなか参加できないと聞いていた。片や飯岡町では参加者をさがすのに苦労していた。今回もやっと1名参加。
 班別行動で各地域の活動状況の資料をもらい、それぞれの悩み、問題点そして自慢話を聞いた。生き生きとしたリーダーは、ユニークな活動やその地域でなければできない魅力的な事業をやっているようであった。遊びをまじめに考え、楽しくみせびらかしているサークルもあった。200人近く県下のリーダーが集まると、全体会の発表やディスカッションではエネルギッシュな活動報告や活気あふれる討論が展開された。自分がますます小さく思えた。
 グループ別の寸劇は打合せなし、船にあるだけの物を使って、思い思いの衣裳や小道具を作り自由なテーマで、与えられた時間の中で行う即興芸だけに、こっけいさに爆笑したり見事なチームワークですばらしい演技もあった。「井の中の蛙大海を知らず」の飯岡人だったが、思いきり笑って、歌って、話し合って、同じ釜の飯を喰って共に過ごした時間の流れで、やっと自分の殻を破ることができた。
 各地域のリーダーたちも共通の悩みや課題は皆同じなのであった。うまくやっている、成功しているところは、そのリーダーとスタッフの智恵と努力の積み重ねである。「リーダーが輝けば青年団も輝く、そして町も。」
 洋上研修で刺激を受け学んだことの実践は模範となりそうな青年団の模倣から始めた。しかし「二番煎じじゃだめ。」ものまねから飯岡にふさわしい、本物を生み出す工夫をしてみた。それは洋上研修の感動的な見送りと出迎えの人達の持っていた団旗と機関紙をつくることであった。会員の徹底をはかるために機関紙に各町内役員を写真入りで紹介した。そして青年会旗をつくるためのシンボルマークと名も無い機関紙という創刊号に青年会機関紙の名前も募集した。大いに反響があって当選者には賞状と賞品を進呈した。念願の青年会旗も出来て、同時に少しずつ勇気も出てきた。
 当面、会員の減少傾向にストップをかけることと、新会員獲得は重大な問題であった。マンネリ打破と文化活動を組み入れて、イメージアップを図る事業計画を検討し始めた。


漁港に人の波が押し寄せた

 始めての試みだけに郷土の歴史、税金の話、戦争体験談など手身近な話題と、講演料のできるだけかからないような方に講師依頼をした。1回、2回は何とか人が集まってくれたが、だんだん回を重ねるうちに人が減ってきた。どんなにいい話と思うことでも、知名度の高い人、話題牲のある人の面白い話でないと続かない事が判った。思案したあげく芸能界の永六輔さんを講師にどうかと持ち掛けた結果、役員たちも賛成してくれたが予算の出どころがない、そこで困っている青年会の現状をしたためて、講師依頼の手紙を書いた。早々返事が来て、やっと1年後に投銭方式の講演会が実現した。当日は、投銭と一緒に釣って来た魚や手づくり陶器・果物等を持参してくれた会員もいて、永さんはとても気分よく帰った。
 気をよくして毎年1,2回飯岡へ若手の無名の芸能人を連れて通ってくれた。「寄付なしの投銭、口こみ。これが飯岡でイベントをやる条件である」。小さな試みが会員や町民の人々にも浸透し、飯岡のみならず東総地域の青年団やサークルも自由に参加してもらった。イベントを通しての交流で、近隣市町村へと会場を変えながら共済事業も数回行なっていくうちに、東総地域の青年団・サークルで結成する東総青年サークルが誕生した。その小さなイベントを皆んなの手づくりで成功させ、ついに小朝独演会や加藤登紀子コンサートも実現することができた。鼓童公演を含め総動員数5,000人を突破して、子供から老人までの人脈もふくらんだ。
 飯岡を中心に、東総地域の青年パワーが結集され、楽しみながら地域文化の活性化や「まち」が活気づく地域活動を続けてきたことで、広がり始めた輪を何とか集大成して、本格的なまちおこしにつなげたいという思いがいつの間にか仲間の話題となった。逆境をバネに文化施設の悪条件を克服してきたことを糧に「アイディア」と「実践」と「若さと行動力」を武器にして、一度は乗り越えなければならない大きな壁へのチャレンジを決意した。
 侵食対策事業により、よみ返った太平洋・九十九里浜、修築の進む飯岡漁港を活用して、地域住民や都会の人達も楽しめる面白い「イベント」ができないものかと、活動を通じて知り合った仲間による「夢を語る会」で話し合ったことがきっかけとなった。飯岡を輝かす「まちづくり」の一環として、遊び心を大切に、世界初の、飯岡でしかできない独創的なイベントにより、いきいきとした人のふれあいが、地域社会へ大きな輪となって広がるような構想にしたいという考えにまとまってきた。
 そこで雄大な太平洋・九十九里浜を舞台に、いずれも世界一の「長岡花火」と「鼓童」による音と光の芸術祭を企画して、日本民謡一筋の伊藤多喜雄さんをゲストに全体構成・司会を永六輔さんにお願いした。各出演者も主旨に共鳴してくれて喜んで参加してくれることになった。
 7月28日の前夜祭は飯岡中の「ブラスバンド」や飯岡・銚子の「おはやし」や「ジャズダンス」など地元の皆さんと伊藤多喜雄のコンサートを予定した。29日は「鼓童」と「長岡花火」の共演、30日はふれあい朝市と砂の芸術コンクール、31日は釣り大会や宝さがし、綱引大会など4日間を祭り一色に塗りつぶす計画もまとまり、各団体に呼びかけた。
 実行委員会は飯岡青年会・東総青年サークルなど6団体で構成し、飯岡町など25団体の講演他、交通整理や警備に各団体の協力も得られたため、実施へ向けスタートすることにした。企画・構成はまとまったが、問題は費用であった。従来の活動が自主運営を基本にしてきた経過もあったため、寄付やスポンサーを予定せず入場券の売上で運営資金を賄うことにした。
 野外コンサートは長期の準備期間が必要であり、また、気象条件に左右され、危険度が高く失敗しても保証がない。このため責任問題やさまざまな難題があることで、コンサート及び総括的実行委員は飯岡町民にこだわらず多種多彩な顔ぶれの結集体で個人参加の編成でスタートした。(何度となくスタッフ募集したが冷やかな視線と半信半疑の傍観者が圧倒的に多かった)。
 今は、「1人の人間のがんばりではどうにもならない」と、思われる程、「1人の人間の力」が小さく見える時代といわれる。まちづくりやまちおこしに一番大切な「やる気」は起きにくく、自分主義にうずもれる人が圧倒的に多い。特に若年層の人達をまちづくりに引き出すためには、「自分の得になる」「自分のためになる」「自分のもち味が発揮できる」そして「面自そうだ」という条件が必要であるが、巻き込むのはむずかしい。
 波乱続きの厳しい状況の中で、町役場や多くの団体・個人の温かい励ましや協力・援助のお陰で運営資金や準備はできた。しかし悪天候のため、前夜祭及び当日は雨で最悪の事態になり、悪戦苦闘の末、皆んなの頑張りで奇跡的に雨も上がった。そしてコンサート本番の30日は、昔侵食で波が押し寄せていた漁港に、人の波が押し寄せた。飯岡町始まって以来の人の輪ができた。4,000人以上の観客は、豪快な太鼓と花火の共演に酔いしれた。大感動と拍手の渦・・・。
 日常ばなれが決め手のイベントが多くの人々の心を動かして失った活力を再生したり、飯岡町を、県内はもちろん関東近県にまで人々が注目するまで浮生させた。また経済活動を起すキッカケにもなったようだ。地域社会へ刺激と感動を与えたことによって、まちおこしの起爆剤としての役割を果せたような気がする。「ない」ということは、何んでもできるという可能性でいっぱいであり、「困った」は、飛躍するための最大のチャンスであった。
 小さな町でも知恵と情熱と行動を結集すれば、町の持っている潜在能力を引き出し、独特なイベントもでき、輝くまちづくりへ続くものと実践から学んだ。