「ふるさとづくり'90」掲載
奨励賞

紙パックの全市回収システムづくり
北海道千歳市 千歳市生活学校
紙パックのリサイクルを考える対話集会

 昭和62年12月15日、千歳市総合福祉センターにおいて、千歳市生活学校主催で「紙パックのリサイクル・システムを考える集い」が開かれた。
 千歳市・市議会・市教委・市社会福祉協議会・町内会連絡協議会・市コミュニティ協議会・(財)千歳市環境保全公社・商店街振興組合・農協・生協・大型店・消費者協会・道栄紙業(株)等と北海道新生活運動協会から計20名、それに千歳市生活学校主体メンバーが10名参加した。
 まず、大古瀬生活学校運営委員長が「この構想は、すでに関係者に説明し、大方の同意を得ている。紙パック回収運動が、全市的運動として実践されるケースは全国でも珍しく、市民運動として成功するようにアピールしたい。きょうは、その具体的取り組みについて取り決めたい」とあいさつし、梶浦市環境部次長も「この運動への支援を借しまない」と激励した。
 この後、回収運動推進計画について、専門メンバーのアドバイスを受けながら話し合った。この結果、千歳市紙パック回収事業推進連絡会を発足させ、市民運動とするためのPRを行いながら試行を続け、昭和63年4月1日から「愛の紙パック回収事業」をスタートさせることになった。
 回収の方法は、町内会の場合、使用ずみの紙パックをのばしてすすぎ、まとめて十文字にしばって、毎月の大型ゴミ収集日にゴミステーションヘ出す。児童施設や各種団体は、毎週土曜日に市環境保全公社に搬入する。販売店は、回収ポストを設けて集まったものを毎週土曜日に公社に搬入する。公社は、市リサイクルセンターに保管したあと、専門メーカーに計量の上売却するというシステムである。
 使用ずみの紙パックは、売却ルートにのせて適正価格で販売し、その収益金を社会福祉に寄付するのが狙いなので、商品価値のあるものとして製品化するため、@紙パックをたいらにのばすA内壁を水洗いするB乾燥するC紙パックの種類ごと(1000・500・200ミリリットル、その他)にしばることを徹底して呼びかけることを決めた。


初出荷で2.5トン

 千歳市生活学校は、千歳市紙パック回収事業推進連絡会の中核となり、大古瀬運営委員長が千歳パック連の会長に就任して、回収の試行に精力的に取り組んだ。試行期間(1−3月)中に約1トン、3万枚の紙パックが集まり、まずまずの出足であった。その間、パック連構成団体の会合や町内会連絡協議金峰入部研修会等での説明が行われ、回収協力店のチラシや店頭掲示もあり、マスコミの扱いも好意的であった。
 昭和63年4月から回収がスタートした。1日には32キログラムの回収量だったが、2回目の5日は、新富・北米・北斗地区が対象で135キログラムも集まった。リサイクルセンターの職員も、予想以上の回収量に驚いたほどである。
 その後各地区から続々と運びこまれ、市内各地区を一巡した5月13日、古紙再生業者の道栄紙業(株)(倶知安町)へ初出荷の日を迎えた。試行期間からの4か月分が2・54トン。千歳市民ひとり1枚の割の成果に、紙パック連の大古瀬会長はもちろんのこと、環境保全公社の岩渕理事長、社会福祉協議会の中島会長らも喜びあった。


紙パック回収の輪がひろがる

 ちとせパック連ニュースを配付して、徹底を欠いている製品化のための提供者の作業(洗う・開く・乾かす等)の徹底をはかりながら、市内の大口消費者である自衛隊にも協力を働きかけた。6500人の隊員を抱え、営内居住者2600人の東千歳駐屯地では、その要請に応じ、3ヵ所の食堂で調理用に使う牛乳1リットルパックを出すことを約束した。月平均900枚、30キロになるという。その他、市内の製菓店が紙パック3000枚を届けたり、大型店の回収協力も軌道に乗っていった。
 7月2、3日熊本市で開かれた第2回牛乳パックの再利用を考える全国大会に大古瀬会長が参加し、千歳での取り組みを報告し、全国各地の運動実践者との情報交流を通じ、自信を深めて帰ってきた。


社会福祉基金に11万円寄付

 千歳市生活学校が提唱した「愛の紙パック回収運動」は、文字どおり市民ぐるみの運動として、その輪はひろがっていった。4月の本格的回収開始から8か月、11月末までに12.3トン。1リットルパックに換算すると36万8400枚に達し、7万7000市民ひとり当たり4.8枚出した計算になる。
 1キロ10円の割で再生業者に売却した代金は12万2800円になった。経費を差し引いた11万520円が、12月15日千歳市社会福祉基金として寄付された。
 大古瀬会長は「ゴミの自治体収集経費は、1トン当たり2万3000円かかると言われており、収益を上げたうえ清掃経費を28万円節減することができた。これからは、第2航空団や北千歳駐屯地、それに各学校のPTAにも呼びかけを強め、もっと大きな運動にしたい」と語っていた。
「私たちが飲んでいる牛乳やジュースのパックは、可燃ゴミとして処理されている。1個に15円もかけて作った紙パックをゴミにするのはもったいない。何とか再利用の道はないものか」と考えた千歳市生活学校の主体メンバーは、昭和60年から小物入れづくり等を始めた。それも、「どんどんたまる紙パックの再利用としてはどうも…」ということになり、道内に再生紙工場ができたこともあり、ここまで来たのである。


紙パック資源化への道

 千歳市生活学校の「ゴミの再利用・資源化」への歩みは、昭和48八年に始まる。この年、「ゴミの分別収集の実施と再生施設の設置」を市に申し入れる一方、不用品バザーを開いている。昭和54年、市清掃事業所からの依頼に応じて「家庭ゴミの分類調査」を行った。全市の家庭ゴミの10パーセントの量を、区域を平均し、3日間調査した。初日の飲食店街では市職員とともに作業に当たったが、その臭気たるや大変なもので、吐き気を催した者もあり、袋から犬の死骸が出てきたりするなど、腰を抜かさんばかりの経験であった。
 それ以来、毎年3日間の調査を生活学校が担当し、現在まで10年に及んている。そして、その年その年のゴミの傾向を的確につかみ、数々の問題提起をしてきた。「トイレのゴミ化」「空き缶の処理と再利用」「空き瓶の処理」「紙オムツのゴミ化」の問題等を次々と取り上げ、「紙パックの資源化」に行き着いたのである。
 また、昭和56年の千歳市環境保全公社の設立や、57年の千歳市リサイクルセンター設置にも深くかかわってきた。このかかわりのなかで、行政と生活学校との関係がよくなり、これが、紙パックの全市的リサイクル・システムが出来上ったひとつの要因と考えられる。


千歳市生活学校四半世紀の歩み

 千歳市生活学校は、昭和40年、北海道で最初にできた12校のひとつとして誕生した。さっそく「商品の正量正価販売の問題」に取り組み、とくにそれまでルーズであった石炭の正量正価販売・計量の立ち合いの実現は高く評価された。
 次いで、「食品の有害添加物の排除」「自然食品・純正食品の製造・販売」「屎尿処理の車両・人員の増加」「サルチル酸の入らない酒の製造・販売」「食品衛生監視協力員制度の見直し」「公民館及び周辺環境の整備」と、毎年のように事前調査から対話集会へともっていき、生活者会議ももちながら成果をあげていった。
 この間、芝田運営委員長は、北海道生活学校連協の理事・副会長・会長を歴任し、昭和50年には全国生活学校連協の初代会長に選ばれ、翌年も再選された。
 「くらしを見直す教室」での学習から、野菜の産地直結購入を実現したり「資源の再利用を考える」対話集会をもったり「図書館の設置」を市に要請し、図書室の整備や図書費の増額を認めさせたのは昭和49年である。
 その後も「学校給食の安全性」「地域医療の改善」「地域食品認証制度」「クリーニング料金」「歯科医療について」と対話集会を重ねていった。
 昭和52年、初の集団資源回収を行い、「一般医療について」の対話集会をもって以来、諸般の事情から停滞期にはいった。
 そして、運営委員長が変り、前述の「家庭ゴミの分類調査で息を吹きかえし、「資源の問題」をベースにしながらいろいろな課題を見つけては取り組んでいった。「北国の食生活の見直し」「有害図書の排除」「市文化センターの利用」「広報ちとせを考える」「児童生徒の校外生活」「消費者ニーズに応える商店街づくり」「市地下駐車場の利用」「中心街の交通規制(グリーンベルトの安全利用)と再び活動が活発になっていった。近年は、紙パックの再利用の運動の中核となるかたわら、「高齢化社会への対応」をテーマに、食品や医療、交通、生きがいの問題の学習に調査に懸命である。
 「愛の紙パック回収運動」は、昭和63年5〜12月が12.3トン、平成元年1〜6月が12.8トンと、市民運動としてすっかり定着した。抜群の行動力をもつ大古瀬委員長のもと、藤江・大久保両副委員長はじめ、意欲的な50人の主体メンバーが形成する千歳市生活学校は、これからも、その時々の生活課題の解決をめざして前進することであろう。