「ふるさとづくり'90」掲載
奨励賞

地域にロマンを、家庭にうるおいを
岩手県紫波町 紫波町有線放送劇団
心豊かな私たちの紫波町

 私たちの紫波町は、昭和30年4月1日、1町8ヵ村が合併して誕生。岩手県のほぼ中央に位置し、県都盛岡市と商業観光都市花巻市との中間にあって、西の奥羽山脈、東の北上山地に囲まれ、町の中央部の穀倉地帯を潤しながら北上川が南下している、緑多き人情豊かな町である。面績は238.32平方キロメートル、人口は現在3万人を超え、世帯数は7500世帯を数えている。
 産業は水稲を主体に果樹や畜産を加えた複合的農業を基幹産業とし、誘致企業は30社を超えて、商工業との調和のとれた町づくりをめざしている。交通関係では、西部地域を東北高速自動車道が、中央部には東北新幹線とJR東北本線並びに国道4号線が、東部地域を国道396号線がそれぞれ町の南北を縦断しており、紫波インターチェンジのほかJR日詰駅とJR古館駅があって、地域産業や通勤通学などに利用されている。
 また、児童福祉施設12施設、幼稚園3施設、高等学校1校があるほか、中央公民館及び地区公民館9館、自治公民館98館、総合体育館、勤労青少年ホーム、特別養護老人ホーム、警察署、消防署、県立総合病院など、数多くの官公署が設置されており、近隣町村の中核を成している町である。
 さらに、総合農協の付属施設として5000世帯が加入している「紫波町有線放送」があり、災害や防犯、産業技術、生活一般など町の貴重な情報源として活用されている。
 なお町の歴史については、縄文時代の遺跡が数多くあるが、文献の中で日本史に初めて登場したのは、宝亀7(776)年の「蝦夷の反乱」という形である。その後、「前九年の役」及び「後三年の役」を経て、この地は、奥坪藤原秀衡の弟の樋爪太郎俊衡の所領となるのだが、文治5(1099)年に源頼朝によって敗れることになるのである。時代が下り南北朝期になると、足利一族がこの地を所領し、土地の名前を名のって「斯波氏」と称し、以降、室町幕府の三管領家筆頭の斯波氏発祥地として、全国に子孫が分かれ繁栄するわけである。10数代続いた奥州斯波氏も、戦国末期には南部氏によって滅ぼされ、江戸時代には南部藩に組み入れられて、明治維新をむかえ今日に至っている。


これが活動のきっかけです

「近年のテレビ、雑誌、週刊誌などに報じられているものは、多く低俗殺伐で退廃的非人間的なところから、子どもたちに与えたくないものばかりで困る」という声が、種々の会合の都度に高まってきたのである。それでは、青少年はもとより多くの住民に対し、もっと高尚でほのぼのとした心豊かなすばらしい文化に接しながら、より人間性を向上させ、より地域社会にうるおいを与える、そしてさらに、この地域に伝わりながら忘れ去られつつある民話や伝説などを通じた郷土愛の醸成を図るために、何か文化活動的な手立てを考えようということで、昭和57年4月、有志で協議したのである。
 当然議論百出したが結論としては、紫波町には前述の「紫波町有線放送」があり、また町の歴史や民話伝説などをわかりやすく掲載した『紫波町ふるさと物語』が刊行されたばかりだったので、これらをドッキングさせながら何か出来ないか、ということであった。これが有線放送劇の直接のきっかけとなるのである。
 様々な意見や提言などを参考にしながら、関係者でシナリオをつくり、そして渋る人たちを説得させて出演者を確保し、演出も自分たちでになうことにして、悪戦苦闘しつつもようやくスタートしたわけである。
 処女作品は、紫波町では悲恋物語として有名な『南面の桜』であった。そして出来ばえはともかく、町民の間で大きな反響があったのである。


こんなことを行っています

「当初は数回ほどで打ち切り」という関係者の暗黙の了解のもとに、2回3回と行ってはみたものの、同じメンバーや似たような題材では聴取者に失礼と、目先を変え努力を重ねているうちに、創造のおもしろさや仲間づくりの楽しみに魅せられ、とりあえず半年6回、1年12回と続けてみたわけである。そのうちに、聴取者に飽きられたらやめようということになり、町有線放送の多大の協賛のもとに、昭和57年5月以来、一度も休むことなく毎月1回(第4土曜日及びその翌日の早朝)、聴取者の要望によっては年末年始などの特別番組を含めて、町内5000世帯へ直接手づくり放送劇を届け、まもなく100回を数えようとしているのである。
 内容は、郷土に伝わる民話や伝説、そのほか地域の地名や屋号のいわれなどを多く題材にしているが、ときには、最近の農業情勢や農家の嫁不足など、現代の風潮を織り込んだものや、主題歌(作詞作曲も手づくり)をともなったオリジナル歌謡ドラマもあって、惰性に陥らないよう腐心しているつもりである。
 劇団員は、小中学生から78歳の婦人まで幅広い年代構成になっているほか、職業も役場や農協の職員、主婦、医師、教師、警察官、会社員、商業、農業などなど様々であるが、私たちの共通の目的に向かい、それぞれの立場で努力を重ねている。また、公的な施設を利用していることから、出演の希望者やシナリオの持ち込みはもとより、さらにそれらの公募も行って、希望すればだれでも参加できるよう、公開性には十分留意しているところである。


このようなことに生かされています

 私たちの活動は、「地域にロマンを、家庭にうるおいを」ということで、家族みんなで楽しめる作品を各家庭に届けているつもりであるが、次のようなことにも活用されており、私たちの意を汲み取ってくれたものと、あらためて感謝している昨今である。
 過去100回ちかく収録した作品を、紫波町有線放送室の一隅に備え付け、希望者には録音テープのコピーサービスをしているほか、町内の小中学校での地域理解のための郷土史学習や、地区公民館の郷土史教室・講座の教材として活用されている。また、老人クラブや特別養護老人ホームなどに貸し出され、高齢者の人たちの楽しみのひとつにもなっているほか、シナリオの取材などで昔話の聞き取りを通じ、生きがいの一助にもなっているように見受けられる。さらに、埋もれている民話や伝説伝承などの発掘や、郷土食、郷土料理の見直しなど、思わぬ波及効果も生まれているようである。
 このように、地域のテープライブラリーとして様々な形で利用され活用されているが、私たちの最も喜びとすることは、保育所や児童館の子どもたちが、これらのテープを聞きながら食事を取り、昼寝をして、豊かな創迫力を培っていることに、微力ながらも手助けできることである。


こんなこともやってみたいな

 わずか7人でスタートした紫波町有線放送劇団であるが、現在では劇団員が70人近くの大世帯になり、出演延べ人数も600人を超えているが、地域集団のひとつとして民主的自主的に運営することはもとより、今後も毎月1回の放送劇の制作に、力を結集することを確認しているところである。
 さらに広く町外にも題材を求めながら、活動の範囲を拡大させるとともに、要請があれば施設慰問などの活動も展開したいと希望している。また、本年12月で100回に達することから、記念事業として「脚本集」的なものの刊行も考慮している。


私たちはみんなに訴えます

 私たちは、極めてささやかな活動ではあるが、「貧者の一燈」の気持ちを保ちながら、さらに地道に活動を継続したいと考えているものである。そして、このような活動が「燎原の火」のごとく全国に広がって、多くの人たちの心の豊かさを引き出しながら、殺伐としたやり切れない風潮が心暖まるようになり、それぞれの地域おこしや地域連帯感がより強くなるとすれば、私たちの望外の喜びとするところである。
 不幸にして、この活動の発起人のひとりで初代の劇団代表だった方が、昭和58年9月に急逝されてしまったが、この遺志を大切に受け継ぎながら、さらに活動を発展させなければと、あらためて各々の心に誓うこの頃である。