「ふるさとづくり'90」掲載
奨励賞

山里に夢とロマンを育む古里ヨイショ集団「プラス2001」
徳島県上勝町 プラス2001
徳島のヘソ下三寸に生まれたプラス2001

「解散か総辞職」4年前、こんな言葉が使われた農業後継者クラブが見事に変身、住民活動の中核になっているのがプラス2001(ニイマルマルイチ)と呼ぶ若者グループ。
 活動の本拠地、上勝町は、徳島県中央のやや下(南東)、勝浦川の源流地帯を占め、多雨地域として全国的にも有名な山林に埋もれた山村で、山腹に民家が点在する人口約2700人(昭和30年には約6500人)の小さな谷間の町である。自ら「徳島のヘソ下三寸」と呼ぶのは、こうした立地条件をもじって誰もが興味を示す町をイメージさせているからであり、過疎の言葉を嫌って適疎と言うのもどこかけなげでさえある。
 一方、農林業の盛んな町とは名ばかりで、基幹産業と呼べるものもないが「先祖が平家の落ちこぼれ集団、これ以上に落ちる事はない」とばかりに開き直りを見せ、山狐よろしく木の葉を金に変える術を披露し「日本の101村展」で2年連続受賞した町でも知られる。こういった活動に影響を与えているのがこの集団である。
 上勝町の農業後継者クラブの歴史は古い。昭和40年代初期まで活発だった4Hクラブが解散し、組織だった活動はなかった。昭和53年に「新春交歓パーティ」をきっかけに再び組織した農業後継者集団「甚六会」も会員の減少により昭和61年度限りで解散せざるを得ない事態となった。そこで「なぜ解散か」について討論した結果「とらわれた考え方による活動が障害で会員が減少した」と言う結論を得た。これは行政主導を指しており、組織改革をするに当たって充分に論議を重ねてきた。
 まず、会員対象者を町の後継者まで無節操に拡大した。活動も農業技術から遊び心育成によるノウハウ蓄積へと切り替えた。活動資金も補助金依存体質から脱皮し、自己資金獲得体制をとることにした。しかし、最も効果があったのはダサイと言われた名称を変えた事かもしれない。感覚も集団からパーティヘと変化した。現在の異業種集団とも呼ばれる形は、組織改革と言うより新組織誕生と言った方が適切だと思われる。
「我々の時代だ。責任を持って自分達の色を出したい」という気持ちに大きく染まって、新組織を発足した当時は8人だったメンバーも活動を積み重ねるたびに増え、現在は22人になっている。念願となっていた女性会員も8人が加入している。会員の活動意欲をヨイショする方式を採ったことも成功し、活動のレパートリーも幅広くなってきた。
 過去の活動は自己啓発が中心だったことから、住民の評価は「甚六は甚六じゃ」「ゼニ喰い虫」「酒呑み集団」等々の悪口でしかなかった。新組織になって、一歩進んだ考えでの地域との関わりや、住民を巻き込んでの活動が評価されるに従い「うちの集落にも来て何ぞでけんか」「言うたら手伝うぞ」と言った期待や協力の声が上がり、イベント等の応援を始め、あらゆる活動でメンバーを支援する、準会員とも呼ぶべき協力者が大勢出現し、力強い励ましになっている。また、名前どおり他団体の活動にもプラスアルファでジョイントし、自らがヨイショ集団となって応援していくことから、自治会活動や商工会青年部、生活改善グループ等との協力関係も徐々に出来つつあり、各種団体の活動活性化に大きな影響を与えている。
 自分達の活動資金は自らの手でと軍資金獲得を兼ね、また、町物産の見直しと度胸だめしを目的に実施している、物産販売研修等の活動も含めた取り組みが評価され、徳島県の代表として中四国農継クラブ大会で発表したこともある。町に元気を与えながら3年目に入っている活動の足跡を簡単に紹介してみたい。


河原のデート2001

 新組織が初めて取り組んだ企画であった。やりたいことがいっぱいある中で、旧甚六会活動の経験から町内の若者が最も苦手とするのが異性との交際術であり、かつ、そうした機会に恵まれていない現状からも、最初の取り組みとして選んだ訳である。男女とも参加したい者は町内外を問わず拒まないこととした、柔軟姿勢とネーミングが面白いとマスコミが取り上げたことで、参加呼び掛けをしないうちに申し込みがあい次ぎ、昭和62年6月18日、女性を主体に当日の飛び入りも含めて、予定オーバーの32名が集まった。結局は、甚六会が結婚相談所を通じて大阪等から農家の花嫁希望者を集めて実施した「山賊コンパ」を上回り、楽しい交流を通じて交際術を実践する中で、レク技術の大切さを痛感することになった。同じ発想から一歩進んで今年の6月に企画したのが、雨の中のキャンプ「れいんぼーキャンプ」である。特異体質と言われるほど発想転換をした代表的な取り組みである。本町にも、5月には800匹の鯉のぼりが泳ぐ八百萬鯉祭で賑わう本格的なキャンプ場が出来たものの、キャンプと言えば雨を避けるのが通例である。しかし、本町は雨を避けることが非常に難しいので、地域の特質を十分に生かした事例を作ってみようと、あえて6月という梅雨のさなかに雨中のキャンプに取り組んだ訳である。少し位の雨ならば雨の中でもレクリエーションはやれるはずだと、町内外の青年男女30人が雨に濡れても困らないように着替えを何着も準備して臨んだ。しかし当日は素晴らしい好天。キャンプファイヤーで火の女神に「雨乞い」をするひと幕もあった。お陰で翌日は慈悲の大豪雨。最初はヤッタ、ヤッタと雨の中に出たものの、余りにも激しい雨足には勝てず、遂に屋根下のレク研修となった。この活動で知り合った、電力会社に勤務する山引満男さんという素晴らしいレク指導員との出会いが、素人集団であった活動に一段と磨きをかけることになった。


三体の月鑑賞会

 町を見直すキーワード「温故創新」を旗印に、町内に伝わる「三体の月」伝説を確認しようと、樫原地区の婦人達とジョイントして三体の月鑑賞会を開催し、本年で4回目となった。起こりは旧暦の7月26日の夜、樫原の秋葉神社で見ると月が三体に見えるという伝説からである。第1回は有志で実施したが、第2回以降はプラス2001が中心となって田舎芝居や踊り、寸劇等を交え、綾姫伝説と三体の月伝説を基にアレンジした、3人の綾姫選考会等盛り沢山のプログラムを楽しみながら月の出を待つという趣向である。飛び入りやアンコールという予定外の出来事で時間が長引き、自分達が準備している出し物を上演できたことがないという盛況ぶりである。特に趣向を凝らしているのが「綾姫選考会」である。ありきたりの美人コンテストはつまらないと、400人近い来場者(会場の都合でこれ以上は入れない)全員の参加により練りに練ったレク手法を駆使して選出するため、思わぬ人が綾姫に選ばれる等、大好評である。今年は月の出の方角に位置する那賀川町の「やったろうー21」がジョイントして、東の空に三体花火を打ち上げる話も出ていたが、台風により中止になった。
 この活動で上勝のチベットと呼ばれた樫原地区がメジャーになったといって、他の地域にも「やれば出来る」という気運が起き、町全体に活気が出つつある。本年度は、町を少しでも前進させる契機にしたいと、全国に呼び掛けて「三体の月シンポジウム」を企画したが、残念ながら台風の上陸により中止となった。しかし、仙台や横浜、愛知、大分という全国から応援に駆けつけた仲間を集めて120人という少人数ながらも、敢えて観賞会を実施してしまった。参加者に聞くと「三体に見えるという現象よりも、全国からの仲間が友情を交歓し、新しい仲間が増えることが素晴らしい。若い仲間が頑張っていることが自分達を元気づけ、自分の地域へ帰っても頑張ろうという気を起こさせてくれる。」という評価である。


日本一のクリスマスツリー

 事実関係は知らないけれど、町の玄関にある上勝東小の校庭にそびえる、地上33メートルのツリーは全国最大と信じて頑張っていることに意義がある。当初は「町外へ働きに行っていて、正月に古里へ帰ってくる人を歓迎するモニュメントを作ろう」ということで昭和62年のクリスマスに始めたものである。初年度は、ツリーと併せて町の青壮年に呼び掛け、徳島市からロックバンドを招いて「田舎のディスコ・2001」を開催し、疎遠になりがちな20歳から60歳までという大人の交流が出来たと言って喜ばれた。
 昨年は小学校や幼稚園、PTAとジョイントすることで町内外の子供達を集め「楽しい金曜日・2001」と銘打ったレクリエーション大会に模様替えし、大盛況であった。特に、飾り付けに携わった子供たちが、夜空にそびえる大ツリーを見上げて大喜びしたのは言うまでもない。これを聞いた広島県の奥田祐子さんから、今年は「ザ・わたしたち」というグループを率いてコンサートとレク指導で応援をしたいという申し入れがあり、もっともっと大掛かりな異色のイベントに作り上げ、住民にも幅広く喜んでもらいたいものだと現在準備中である。


ナース恵子のビューティ作戦

 女性会員がいることは活動にも優しさや和やかさ、そして華やかな雰囲気が生まれる。男ばかりでは相手にされないボランティア活動も、女性が提案すれば自然な感覚で受け入れられる。今春、グループ研修で大分県の湯布院と大山町へ行った後で「私達の町を訪れる人のために町内を美しくしたい」と言った岩江恵子さんの提案を取り上げて「ナース恵子のビューティ作戦」と命名し、荒廃農地の整理や美化を検討していた農業委員会とジョイントして、観光案内板や交通標識の洗濯と花一杯活動をすることになった。どんな花を植えるか困っていると、聞きつけた藍住町の森みつ子さんという女性が「花のことなら私に任せて」と遠路はるばる、車いっぱいに花の苗を積んで応援に来てくれた。徳島市ヘコンサートに来ていた広島の奥田祐子さんのグループが「もっとメジャーに!」と「ビューティコンサート」を開いてくれた。メンバーの人脈の広さが花の苗を集め、奥田さんを上勝まで迎えることになり、活動を素晴らしいものに作り上げていく。こうしたチョットしたきっかけをとらえて活動の幅を大きく広げるのも、このグループの特徴となっている。


おもしろ看板の設置

 様々な特技を特つキャストが揃っていることは面白い。何と言っても職業が土木作業員から新聞記者までと幅広い上に、ひとりが幾つもの特技を構えている。何かをやろうと言えば知恵が集まる。その一例が「面白看板」の設置である。
 自分達の活動をPRして参加者を募るには自前の広告板が必要だと言う意見が出て、最も人目につく町有地に専用の看板を設置した。設計経験者が設計を、土木作業員は基礎工事を、イラストが好きなものはレイアウトを、看板書きは看板屋が、何もできないものは設置の手伝いを、と全員が手分けしながら協力して作り上げた。一際目を引く面白看板が、住民啓発の広告塔の役目を担い、看板に描かれたユニークな絵が、住民に暗示を投げている。


名もなく豊かに美しく

 過疎現象というのは恐ろしい。「過疎地は素晴らしい自然が残されており、将来のリゾート地としての価値が増している」なんて言葉は、現状を知らない東京の論理である。過疎へのプロセスを断ち切らない限り、何時かは誰も住まなくなる。ところが、田舎の人はそれを知っていながら誰も動かず、助けを期待して待っている。しかし、過疎を止める手段などは行政を始めとして誰も知らない。そこに現れた若者グループに、町の将来を何とかして欲しいと期待が集まっている構図だ。メンバーは重々承知していて「我らの時代」を如何に生き、次の世代に何を引き継ぐかを模索している段階である。
 後継者グループとしての活動から確実に一歩ずつ踏み出し、今迄積み上げてきたノウハウを駆使しながら環境にあわせ、自然を活かしたレクリエーションの町としてライフスタイルを築き上げて行くならば、特色ある「ふるさと」が形作られることになる。経済都市東京や大阪を目標にすることなく、視点を変えて楽しく心遊ぶ古里の姿をみんなに見せつけ、アピールできる力を備えたグループとなっていきたいと願っている。
 とまれ、甚六会からプラス2001へと、ずっと町の将来を見つめながら活動に携わってきたが、全国に仲間を増やし、活動を通じて地域の人びとと親しくかかわりを深めていることは誇りとしたい。豊かな未来を作るために21世紀まては解散せずに頑張ると明言していることもあり「町をメジャーにしたいという希望を加えて百九の煩悩を持つ集団」として、今後も継続して住民にインパクトを与え、息長く、少しづつでも町を変えて行く原動力の役割を果たしたい。今迄、心温まる応援をし、誠心誠意育ててくれた住民の善意に応えるためにも、いつまでも町の索引者となって「徳島のヘソ下三寸」の言葉通り、人びとの関心を引き付ける夢とロマンを育む町になることを目標に頑張り続けたい。