「ふるさとづくり'90」掲載

話・和・輪で村づくり
滋賀県びわ町 びわ町北富田区
伝えられた人形芝居

 人形芝居の復活の中から、ふるさとづくりの息吹が生まれた。その紹介をする。
 今古東西を問わず、人間の生活している所に人間を形取った人形はついて回っていた。
 子供たちの手すさびの人形から呪いの人形まで、人それぞれの立場と条件に合った人形が用いられてきている。そして、人間の知恵は動きのない人形を人間並みに動かせるように工夫をこらし、やがて傀儡子となって全国を巡る大道芸人へと発展していった。
 中世から近世にかけて糸操りが人形浄瑠璃の素朴として完成し、やがて、三味線・浄瑠璃・人形遣いという、いわゆる「三業」形式が整えられるようになってきた。
 いつごろ伝来したのか、それを証明するものもないままに、まるで伝説まがいの語り伝えが残されているだけだが、私たちの住む北富田に、前述のような旅芸人の一座によってもたらされた人形芝居の一式が保存されてきている。
 天保年間よりこのかた150余年間にわたって、戸数20戸、約90人の小集落である北富田で、絶やすことなく郷土の宝としてはぐくみ、共に汗して育ててきた文化遺産であるこの人形芝居。これを伝承し続けてきたエネルギーの源はどこにあるのか。
 有形文化財を、形を変えずに保存していくことに比べて、無形文化財の保存は不特定の人びとから技術の伝承を受けるより方法がなく、極めて不安定なものといえる。それが克服されてきた理由は、北富田の住民がひたすらに魂の底から人形芝居を愛し、先祖からの貴重な贈り物を守り、共に楽しみ、後世に伝えていこうとする執念にも似た熱情があったからにほかならない。そして、この伝統は今もなお引き継がれてきている。


人形芝居の危機を越えて

 戦争は伝統芸能の保存・伝承に大打撃を与えた。後継者たるべき若者は戦場に赴き、その多くは不帰の人となってしまった。また、社会構造の著しい変化によって、農業にひたすらはげんでいた多くの人は、工場へ臨事工として働きに出かけていき、若者は農業を嫌って上級学校へ進み、田舎を捨てていった。古めかしい人形芝居など見向きもされなくなってしまった。当然の結果として、人形の遣い手は壮・中年者に限られてしまい、後継者も育たないままに遣い手はいよいよ減少し、公演もできなくなってしまった。人形は収蔵庫に閉じこめられ、虫干しのために年に数回扉が開かれるのみの状態であった。
 せっかくの宝を収蔵庫に入れておくだけでよいのか。先祖に申し訳ない。村にいる者が今、ひとつになれるものは何かと、連日討議が重ねられ、伝統の復活を願う熱意が高まってきた。昭和54年の春、一時休眠以来25年が経過していた。
 職業も趣味も多様であり、年令も20代から40代までの15人の集団ができあがった。三交代するわずかの時間をぬって、農作業と工場勤めの疲れた身体で、人の命を預る緊張した職場から汗くさいままで、無住の掛所を練習会場にしての、にわか仕立ての人形遣いが誕生することになった。
 人形の復活をめざすまでは、北富田の人が一堂に集まる機会は年2回、2月上旬に行われる湖北地方特有の年中行事の神事“おこない”だけであった。
 20戸がばらばらの状態で、隣近所のつきあい程度であり、寄り合い(自治会議)にしても結論としてまとまるのに時間がかかり、感情の対立が目立った。一致協力にはほど遠い状態で、道で出会っても言葉を交わすでなく、何人かいる子供の名前すら知らない人もいるほどであった。区民運動会を開くだの、子供会を作ってバス旅行を実施するなどは、夢のまた夢のことであった。ひとつにまとまれるものを求めてはいたものの、これという策をとらぬままに、時間だけが経過していったのである。
 人形の練習は通学月3回、公演前の2ヵ月からは毎夜と定め、8時から10時までの2時間を、掛所内に舞台を築いて実施している。


深まりと広がりと、始まった会話

 とは言え、人形の操作については何も知らない。かつて祖父たちの舞台をかげでのぞき雰囲気だけは知っている者も、本格的に遣うとなると、まるで駄目である。古老の指導を受けても、素直に聞き入れることはなかなか困難であった。しかし、以前と違ってきたことは古老と話しができることであり、一体の人形を3人で遣うため、3人で技術や演技について、とにかく共通の話題で話し合う雰囲気が出てきたことである。3人と言うのは、人形はひとりが首と右手を、もうひとりが左手を、足を3人めが遣っていくことを指す。
 この3人の呼吸が一致しないことには、人形は思うように働いていかない。問答無用で3人のコミュニケーションがはかられなければならなくなる。このチームが、出演する人形の数だけできあがり“話す”ことの輪が始まり、広まっていった。
 人形の練習とは言え誰かが仕事の都合で遅れたり、欠けることがある。待っている時間、とりとめのない話が続く。それも時間を忘れて、人形の練習はそっちのけであった。しかし、その話の中から、老人憩いの家の修繕、子供会の結成、元旦の区民総出の新年会・年中行事の見直し、区民スポーツ大会、花壇づくり、生垣きの構築、川掃除などが生まれ、北富田区の事業として取り上げられ、実施されていった。


会話から実践へ

 家に閉じこもって、テレビにかじりついていたのが、疲れているにもかかわらず掛所に出かけていくことは、これまでの生活サイクルからは大きく変化していった。そして、その結果として、支え合う人間関係が生まれ、人形という文化の伝承活動を通じて、新しいふるさとづくりへのアイデアが発生し、活力となっていくことになったのである。
 老人憩の家修繕については、とにかく区民が集まれる場所は前述の掛所しかない状況で、老人が憩う場所と公民館的な集会所としての必要が話題になり、各家にある材料を持ち寄り、労力を提供して約1ヵ月がかりで完成させてしまった。
 子供会も、18名もいる小・中学生を縦と横のつながりを育て、自然体験をさせようと伊吹山の登山とキャンプを計画し、親子または祖父母も共に参加してのにぎやかなものとなった。子供会を卒業した中学生も、サブリーダーとして参加させるようにした。
 元日の新年会は、稲荷神社の境内に区民全員が集まり、新年の挨拶を交わしたあと、御神酒を飲み、区長の抱負を開く会である。これだけのことだが、北富田の人が全員集まって声をかけ合うことで、今までになかった親密さも増し、とりわけ人形にかかわっているメンバーは、その後で新年宴会を開くなど、いっそうの懇親を深めている。近年、メンバーは家庭ぐるみで参加するようになってきた。子供たちの楽しみがひとつふえたことになる。
 他の行事にしても、とにかく北富田の人が全員参加することを原則にしたもので、奉仕作業に欠席しても不参加料を取ることもせず、誰も文句は言わない。常に人形の練習で話し合っているからか、事情もわかっていることもあるが、とにかくギスギスとした雰囲気は一掃されたことは事実である。


初公演始末

 昭和54年の秋、人形芝居の練習の成果を発表するため、第1回ふるさと文化祭・富田人形公演会を開催した。
 ハラハラ・ドキドキの連続で、夢中のうちに終わってしまった。絵本太閤記・尼ヶ崎の段を演じきることができた。
 2月から始めて9ヵ月、何も知らなかった人形遣いが、重次郎や初菊を遣い、操のくどきを額に汗をかき、眼鏡がずり落ちそうになっているのもかまわず、とにかく精一杯演じきったのである。
 幕が降り、客席から大きな拍手が聞こえてきたとき、舞台上では皆が握手し合い、中には涙すら浮かべている者もいた。
 翌年からは外題もふやし、ひとり一役を目標に、全員で人形を操る集団となるよう、傾城阿波鳴門、壺坂観音霊験記、日高川入相花王、伊達娘恋緋鹿子等の外題の復活に取り組むことにした。同時に、女性や子供も巻き込み、幅広く後継者の育成を図ることとした。
 人形芝居を復活することからスタートしたメンバーは、今日では30名を超え、すっかり北富田の中心的な存在となった。練習の合い間に話しをよくすることで、人と人の心が和やかになった。そして、話をする輪も大きく広まり、日常の挨拶に加えて「疲れのでませんように」「よく精が出ますね」などと、あとひと言がつけ加えられるようになってきた。
 それは、人を常に意識することであり、地域の人びとの連帯意識が定着してきたことを意味している。


文化の北富田をめざして

 人形の仲間から提唱されたひとり1鉢花づくりにしても、総会で可決されるやすぐにプランターと種が配られている。子供遊園の近くに花壇が設けられ、道ばたに花鉢が置かれている。花のあふれるうるおいのある北富田づくりの一端である。
 伝統文化に毎日触れていると、その価値が見えてこないが、1個数100万円もする貴重な人形の首がすぐ身近にある。それを遣って人形芝居を演じるなんて、これは滋賀県のどの町にもまねのできないことである。今後、より一層、この文化を伝承していくために、拠点としての人形会館の建設をめざして、一丸となって運動していきたい。と同時に、各家に伝わる宝物を大切に保存するよう、交流会を開いていきたい。我家の自慢文化財展とか、常に文化を話題にする北富田づくりをめざしていきたいものである。
 人形の話しから人の和が生まれ、やがて北富田全体にその輪が広がり、郷土の顔・誇りとできる文化活動を続けていきたい。