「ふるさとづくり'91」掲載
<集団の部>ふるさとづくり奨励賞

母ちゃんのうでをふるって村づくり
長崎県 椎根コスモス生活改善グループ
鉱山閉山の苦境の中で

 私が住んでいる椎根は対馬の首都とも言える厳原からバスで40分、石屋根で名高い観光地で、なぎの日は眼下に広がる地平線の彼方に韓国連山を望める素晴しい所です。
 昭和54年3月、気心の知れあった仲間9人が集い、生活や農業の勉強をしながら、この地に生き続けようということで、グループを結成しました。当時は、対馬唯一の企業であった対州鉱山が私達の地元で操業していたのですが、イタイイタイ病として知られているカドミウム汚染源となり、私違の水田も汚染され耕作禁止となり、農家経済に多大な影響を与えた頃でした。昭和48年に鉱山は閉山。地域の大半がこの鉱山に勤める兼業農家だったので、現金収入先を失ったうえ、生活基盤の水田も手を着けることが出来ず、途方に暮れ、日稼ぎ労働に追われ、身も心もクタクタの毎日でした。その様な中で生まれたグループだったので、皆の願いを込め、さわやかな秋風にやさしくゆられ、可憐ななかにもたくましく育つよう椎根コスモス生活改善グループと名付けました。


甦った田畑

 グループ活動開始の頃は経済的な危機を各人がかかえていたので、暮らしの見直しなど個人的な課題を解決する内容を中心とする活動でした。しかしこの頃より水田復元の運動も実を結び、55年には復元事業が始まりました。そして57年には、水田作業の全面委託方式を地区内農家で話し合い、農業機械利用組合が設立され、美田が復元し、主婦の農作業に対しての労力軽減も図られることになりました。そして私達のグループ活動もこの期を境に、個々の生活中心の活動から地域中心の活動へと広がり始めました。


自給運勤の成果

 昭和59年度の椎根コスモス生活改善グループの活動目標は「自給率の向上」で、具体的な活動内容としては、野菜の共同育苗と計画栽培に取り組みました。この私達の活動が基礎となり年々減少していた普通畑の面積にも歯止めがかかり、荒地も減り、我が家の自給率の向上と共に、地域内の自給率も向上し、新しい野莱づくりの技術もグループ員から普及され、地域全体の向上となりました。さらには、下県地区生活改善グループ全体に波及して、「5・5・5運動」ヘと発展しました。5・5・5運動とは、5アールの家庭菜園の確保、5種類以上の果樹の植え付け、5羽以上の対馬ひげ地鶏の飼育を目標としたものです。
 これは、我が家の自給率向上と共に島内野菜の自給率の向上、更には特産品の育成をめざし、対馬の活性化を図ろうとするものでした。これがみごとに成功し、自給運動はすみずみまで波及し、平飼いの地鶏の卵や肉、新鮮な野菜、新鮮な果物で安心した食生活となり、鶏の工サは自家産野菜のクズ、鶏ふんは耕地に還元し、循環型自然養鶏となりました。
 やがて、この野莱づくり技術は無人販売所の設置へと結びつきました。島内産の野菜は流通ルートがなく、消費者は島外産の鮮度が落ちた高価格の品を求めざるを得なかったのですが、双方で交流を持ち合い、下県地区に8ヵ所の販売所を設置しました。朝7時30分に野菜の荷おろしですが、すでに消費者は並んで待っている状況で、ひと袋100円売りの野菜も昨年は3000万円近い売り上げとなりました。16グループで日曜以外毎日交替で出荷していますが、大盛況で消費者にも喜ばれ、私達も現金収入を得るだけでなく、食費も現金支出を節約でき、グループ員一人ひとりの活動が周辺の集落をまきこみ、生活改善グループも毎年新しく誕生しています。


特産品づくりで自信を深める

 自給運動のかたわら、私達グループ員は農業の余剰労力を生かして、地場産品の付加価値向上にも取り組んでおります。農産物の輸入自由化問題や、生産者米価の低迷等厳しい農業経営の中で、私達の意志をもっと地域へ反映させたいとして、減反のそばの活用を考えました。
 昭和57年より、農業改良普及所の協力を得ながらそばの産品づくりをめざし、そばみその技術を確立しました。1年間に通算13回の加工実験をくり返し、全粒の形を維持したそばの脱ぷに成功した時は、全員が飛び上がらんばかりの喜びようでした。そばは脱ぷで形状がバラバラにくずれるのが普通であり、製麹しにくくなるが、形状を残すとみその中にそば粒がはっきり残ると共に味も良いみそとなるのです。
 これまでのグループ活動でみそ加工技術には自信を持っていたので、あとはトントン拍子で、おいしい山ぶき色のコクのあるみそが仕上がりました。対馬と聞くとそば、そばと言えば椎根と言われるくらいになりましたが、昭和60年には県単事業を利用して農産加工所を建設し、直販施設も設置して、そばみその販売を始め、好調な売れゆきです。そばみそ、普通の合わせみそ、佃煮類、海産物の加工も手がけてみましたが、ある日、対馬のそば粉100パーセントのそばを食べさせる店があるともっとそばの消費も延びるのでは、という意見がグループ員より発言されました。そしてこれが「茶屋いしやね」のオープンにつながりました。
 郷土料理の店「茶屋いしやね」は農産加工所と同棟となり、昭和60年から営業を始めました。幸い対馬では各戸でそばを打つのでグループ員は全員そば打ち名人なのです。そばを中心に献立を検討しましたが、地元でとれる活魚も利用すると対馬らしい味になるということで日夜研究を重ね、6種の献立を提供できるまでになりました。行政機関や観光協会からも好評を得まして、産品祭りや夏祭り、各種イベントの折は必ず声がかかり、その時は町の中心部で出店をして対馬の人に喜ばれ、時には東京のデパートヘも出かけて手打ちそばの味を広げております。もちろん日常も観光客や島内の予約客でにぎわっており20人も入ると満席の店に50人の予約が入り、嬉しい悲鳴をあげながら皆で頑張っております。


さらに広げ、伝え残したいコスモスの味

 私達の活動もやっと軌道に乗り、地域でも認められ、貢献もできるようになりましたが、これまでの努力も実り、昭和62年にはそばみそで、長崎県農産加工品コンクールで優秀賞に輝き、同年には長崎県地域農林業経営コンクールで、知事賞までいただきました。翌63年には、全国生活改善グループの中で農林水産大臣賞、そして平成元年2月23日には農林水産祭において、日本農林漁業振興会会長賞を受賞させていただきました。数々の受賞ですが、おごることなく、感激だけは忘れず、これからも地域社会に貢献できるよう頑張らねばと、グループ員一同、心を新たにしております。
 さてこれからの私達の活動ですが、今年もそばの研究は続いており、そばおこしと半生そばの技術確立をめざして、試作・実験に取り組んでいます。もう10月も目前、2日はグループで受けおっているふるさと宅配便の詰め合わせと発送、16日からは長崎旅博会場で、6日間、対馬椎根コスモスグループの味を皆さんに楽しんでもらいます。その準備でテンヤワンヤのこの頃ですが、地域活性化の一端を担っている自信を胸に頑張り続け、知識も技術も伝達し続け、老後の生きがいとしつつ、子孫に誇れるふるさとづくりに全力をそそいでいきたいと思います。