「ふるさとづくり'91」掲載
<集団の部>ふるさとづくり奨励賞

流氷あいすらんど共和国
北海道 流氷あいすらんど共和国
天敵「流氷」を逆手にとって

 オホーツク海沿岸のド真中に位置する紋別市(人口3万1000人)は、1月末から3月にかけて一面流氷におおわれ、基幹産業の漁業は完全に冬眠状態に入ります。
 漁師にとっても、経済界にとっても、この厄介者の流氷を逆手にとって観光に活かせられないものか。日本では、ここオホーツク海にしか接岸しない流氷を観光資源として、街の活性化につなげようとの発想から、昭和38年、オホーツク沿線の先陣を切って「もんべつ流氷まつり」が始まりました。
 以来、28年を経過した今日では、オホーツク海の一大冬季フェスティバルとして、道内外から多くの観光客を引きつけるイベントに成長しています。
 流氷がサハリンから南下してくると、必然的に気温が急激に下がり、人びとの活動も街の経済も停滞します。「こんな時期にこそ、われわれ若者も冬まつりに積極的に参画し、まちおこしのために汗を流そう」と、当市で漁業を営む藤田孝太郎氏らが市内の様々な業界の若手リーダーに呼びかけて、昭和63年3月藤田氏を大統領に、ミニ独立国「流氷あいすらんど共和国」を建国しました。
 流氷まつりは3、4日間の短期イベント。その前後に流氷観光に訪れる人たちに、それなりのおもてなしをしたい。藤田氏らの仕掛けに共鳴した仲間約60人は開国の前年秋からチエと熱意を集めて企画を練り、本国のアイスランド共和国(大西洋北部)とも友好条約を結んで、開期およそ1ヵ月にわたる開国にこぎつけました。


数々のユニークなイベントを展開と市民の声援

 以来、毎年流氷到来期に“ともかくやろう「あいすらんど」”(61年)、“みんなおいでよ「あいすらんど」”(63年)などをテーマに、流氷まつりの隣接地に開国し、氷像などの制作はもちろんのこと、流氷結婚式、氷点下のまるかじりパーティー(海産物のバイキング)、流氷温泉、光と音を組み合わせたアートナイト・イン・オホーツク、流氷かち歩き大会、国営鉄道(スノーモービル、馬そりなど)など、手づくりのイベントを1ヵ月前後にわたって展開しています。
 メンバーの本格的な活動は毎年、開国前の会場づくりから、閉国後の後片づけまで、2ヵ月もの長期に及びます。しかも、日中それぞれ家業あるいは会社の勤務を終えてからの参画で、それも氷の積み上げや丸太を組んだ迎賓館づくりなどの作業は、凍てつく夜、あるいは吹雪のなかで深夜の11時、12時まで及ぶことも少なくありません。
「これまでして一体…」とメンバーの心が揺らぎかけたとき、市民からの暖かいサンペイ汁やカニ汁、揚げたてのテンプラ、たこ焼きなどの差し入れが、メンバーの心を奮い立たせます。
 それにもましてメンバーの志気を高めるのは、観光者の素直な反応です。「氷像がすてき」「流氷が素晴らしい」「イベントも楽しかった」――遠方から訪れた観光客の様々な笑顔に接したとき、それまでの苦労が消えとび、がんばってよかったと感じるそうです。
 イベントの目玉、アイス・チャーチで行う流氷結婚式には、全国から毎年80組にのぼる応募があります。幸運を射止めたある年のあるカップルは、吹雪のあい間に行われた式で終生の伴侶を誓い合い、その夜、市民をまじえた市民参加の披露宴にのぞみました。
 後日、共和国に届いた礼状には、ふたりの過去から出会いのいきさつまでがくわしくしたためられていました。九州出身で、いまは東京で働いているが、蓄えもなく、結婚式はできないものと思っていました。そんなとき、流氷結婚式に応募して、はからずも入選してオホーツクの地に招かれた上、縁もゆかりもない人たちから、こんなに暖かく祝福されるなんて思ってもみなかったことです。ともに早くに両親に先立たれ、ほとんど身寄りもなかっただけに、終生忘れられない感激でしたと結んでありました。
 単なるマチおこしのイベントと考えて続けている行事が、こんなに喜んでもらえるなんて…とメンバーは一様に感激し、来年も力を合わせてやろうと意志を確かめ合ったそうです。


本家アイスランド共和国との交流

 建国の年、国名を「人を愛する、流氷などの自然を愛する、そして自分たちのマチの営みを愛する」という願いをこめて「あいすらんど」と名付けたものですが、勝手に本国の名を使ってよいものか、外務省を通じて事前に伺いをたてたところ、「私たちの小国を知っていただいてありがとう。イベントが成功されることを祈っています」との大統領じきじきのメッセージを、国旗、切手、コイン、パンフレットとともに受け取りました。
 以来、藤田大統領らはアイスランド共和国に熱い思いを寄せていましたが、昭和61年秋、日本に大使館のない同国の極東移動大使と札幌で会見でき、大使のすすめでその後、紋別市民手づくりの「アイスランド親善訪問の旅」が企画されました。63年1月、藤田大統領を団長とする一行20人(うち建国メンバー10人)の本国訪問が実現し、はからずもアイスランドと日本の民間交流第1号となりました。ミニ共和国では毎年、会場にアイスランド資料館も設け、本国特産のアイスランドウールなどの展示、即売も行って、市民や観光客に喜ばれています。
 今年2月の天皇即位の礼には、アイスランド共和国からビグジス大統領も来日されます。その機会に東京で“アイスランド・フェア’90”が開催されますが、流氷あいすらんど共和国も,これに協賛し、ビグジス大統領の歓迎パーティーには、金田紋別市長と共に藤田大統領も出席して、友好のきずなを深めることにしています。
 ミニ共和国は北辺の地の歴史をふまえ、冬の美しさを認識し、そして冬の暮らしを見つめ直し、豊かな自然にふさわしい豊かな暮らしを自らの手で創造しようという熱気溢れる若者の集団です。


北国独特の文化を手づくりで

 企画を練る夏の時期も、冬の現場でも、手弁当で集まり、無意識のうちに異業種の交流を通して市民のよりよい暮らしを探究し、マチの活性化を促がす役割を果たしています。折にふれ、メンバーが主張する論議はつぎのように要約されます。
 ――北辺の一地方都市までが東京ナイズされてよいものだろうか。北には北国独特の文化があってよい。オホーツク海の雄大な自然にひたりながら、ミニ共和国を訪れていただいた旅人たちや市内、市外の若者たち、学者、芸術家など、あらゆる階層の人たちとの交流の中で、地域に根ざした生活のありようを考えよう。ふるさとの地の利のよさを目いっぱい引き出しながら活動をより発展させることによって、特色あるオホーツク文化を創造し、マチの振興を図ることができるのではないか――。
 ミニ独立国としての活動はテレビ、新聞等にも取り上げられて、紋別市の流氷砕氷船ガリンコ号と共に全国にその名が知られるようになっています。北海道の街づくり百選にも選ばれ、今年は創立35周年を迎えた紋別市文化連盟より文化奨励賞も贈られることになっています。開国して6年、市民の理解も深まり、協力を措しまぬ事業所などもふえていることは、建国のメンバーの大きな心の支えです。


自前の資金づくりもアイデアフルに

 ミニ独立国としての自負と自主性を保つため、メンバーは大蔵大臣を中心にして、自主財源の調達にも汗を流しています。もちろん行政(紋別市)からの財政援助も受けていますが、毎年夏には落語家柳家小三治師匠らの好意をえながら「あいすらんどライダー寄席」を開催して活動資金を生み出しているほか、企業、事業所への寄付獲得にも奔走しています。
 これまでの活動が縁となって市民の新しいサークル活動が誕生していることも見逃がせません。大統領らの呼びかけによって、市内の婦人グループによる「手づくりミンクの会」が生まれ、オホーツク特産のミンクのはぎれを活用したアクセサリーづくりから始まった活動は、いまではバッグや帽子を仕上げるまでに向上し、冬の2月に開催させる“北方圏国際シンポジウム”などでオリジナルなみやげ品として人気を呼んでいます。
 また共和国のイグルー(氷の家)の中から生まれた「湯どうふ同好会」(手づくり豆腐を賞味しながら地域おこしを論じる会)、若手の飲食店経営者による「旅の夜」主催ののんベラリ−(観光客に会員の店をはしご酒しながら北国の冬の夜を満喫してもらうイベント)なども、流氷あいすらんど共和国の仲間の発想から生まれた冬のマチおこし行事のひとつです。
 ミニ共和国の領域がこのようにいろいろな形で広がっているいま、およそ70人の建国メンバーは、流氷あいすらんど共和国がすっかり地元の冬まつりに定着した自信をバネに、これからも新規イベントを創出しつつ、来る建国10年に向けて新たな若い血をたぎらせています。