「ふるさとづくり'92」掲載
<集団の部>ふるさとづくり奨励賞

未来へ残す緑の遺産を
福岡県福岡市 はかた夢松原の会
海辺に愛を植える女たち

 夢松原――福岡市シーサイドももち海浜公園によみがえった見事な松原。この海浜公園は、博多湾西部の地行、百道、姪浜の3地区に及ぶ広大な埋立て地に造られた人工の砂浜にあります。総延長2.5キロ。その地行、百道の両地区(シーサイドももち)で、平成元年アジア太平洋博覧会が華やかに開催されました。
 夢松原の構想が生れた昭和61年当時、そのアジア太平洋博覧会に備えてシーサイドももち海浜公園予定地一帯には、南太平洋のイメージを盛り上げようと椰子類を植栽する計画が進められていました。
 このとき、福岡市緑のまちづくり協会の評議員をしていた小山ムツコさんはこの計画を知って疑問を持ち、地域活動など幅広い運動を手掛けているいけばな玄雅会会長の川口道子さんに話してみました。そこで、百道はもともと白砂青松の浜、南国の樹木ではどこか似合わないし、玄海灘から吹き付ける厳しい北風には耐えられないだろうという2人の思いから芽生えたのが「夢松原」の運動です。
 夢松原実現に向けての行動は迅速かつ着実に進みました。縁のまちづくり協会からも積極的に応援しようという励ましを得ました。また、市長以下市当局もシーサイドももちの海浜公園に、市民の手で松を植えることについて、会の趣旨をよく理解され、快く承諾を得ました。
 昭和62年3月1日、約20入が集り「夢松原市民の会」を開催。会の基本的な考えは、@筑前海岸の松の多くは、江戸時代に人の手で造られ、大切に育み、守られてきたもの。Aその松原が、今日都市の爆発的拡大とマツクイムシ、そして環境汚染によってみるみる破壊され、衰滅の一途を辿りつつある。B人々は白砂青松を愛し、その保全や再現を熱い思いで願っている、と、この3点に絞りました。
 また、この運動を福岡市民に限定しないで全国に運動の輪を広げて行こうという決意から生れた会の名称が「はかた夢松原の会」です。


緑の株券――配当は松ボックリ――

 会はスタートしても資金はゼロ。会の運営費は一切寄付でまかなうことを基本線に、運動方針として、@募金単位を個人1口千円、法人団体1口3万円とする。A領収書代りに緑の株券を発行し、募念者は株主になってもらう。配当は松原が成長した時に実る松ボックリで支払う。B松原が実現した時、募金者(株主)全員の名前を有田焼の銘板に焼き込み、海辺に永久に記念として残す。C募金活動はイベントを中心とし、松原の意義を啓発しながら、市民意識を盛り上げていく。そのイベントも原則として1カ月おきのペースで企画していく等が決りました。


女性が進める夢松原の運動

夢松原の目指すところは、市民が運動に参加することで、皆で歴史や文化を辿りながら、海と街づくりに深くかかわっていきたいとの熱い思いにあります。
 ひいては環境保全の重要性を考えると共に、福岡県が志向する“海に開かれた街 福岡”の未来づくりに関わっていくことにあります。
 さて、いよいよ松原づくりの運動開始。会の役員は川口道子代表以下9名。実行委員と運営委員は男性を含め多彩な分野の人が名をつらね、女性41名、男性20名の構成です。
 運動の手始めは募金集め。まずは、募金と引き換えに渡す“緑の株券”とチラシを、続いてPRと募金を兼ねたTシャツ(1枚千円)を作った。夢松原の募金運動はNTTにも広がって、テレホンカードを作っては、という話が持ち上がりました。カードのデザインは日本画家の佐藤勝彦氏に依頼し「はかた夢松原」の文字が入った力強い松の絵が出来上りました。3枚セット2,000円で、2,000セット作成。緑の株券、Tシャツ2,500枚、さらに大型買物袋(ごみ減量)子袋など夢松原ブランドグッズとなりました。


イベントから広がる運動の輪

 第1回のイベントを、昭和62年5月2日、福岡市美術館で「第1回海の討論会――共に語ろう海と文化」を開催しました。会場いっぱいに熱気があふれ、討論会の模様は各新聞テレビで報道され、会の運動が広く知られることになりました。翌5月3日、NHK総合テレビ番組「九州この人」に川口代表が出演し、夢松原のこれからの運動を大いに語ると、反響は目覚ましく、たくさんの手紙と共に松の木の提供も相次ぎました。
 福岡県田川郡の大島潜さんからは、自宅の庭の松200本を自分でトラックに積んで2度の植樹に参加、私共にご苦労さんと、無農薬野菜も同時に届けられました。北九州市の福田博年さんからは20年松300本が寄贈されるなど、熊本県の隣接の町から松の情報が寄せられ、それらの松の移植が可能かどうか下見に走り廻りました。これを契機に運動は会の命名どおり大きく市外へと広がっていきました。
 第1回の「船上フォーラム」には、200人余りが参加、九州大学農学部教授須崎民雄氏の講演『海岸の松について』話してもらい知識を深めました。特にこのフォーラムには、佐賀県唐津市一帯から、地域起こし集団「唐津市東松浦五十人委員会」の若手有志が参加され、運動の輪はしだいに大きくなり、これを契機に虹の松原と夢松原との交流が広がりました。以後毎年船上フォーラムを実施することになります。
 昭和62年最大のイベントは、9月13日に海浜公園植樹予定地で約1,000人が参加した「松原ソン」です。この時、福岡市録のまちづくり協会から樹齢30年の松130本の寄贈目録が贈呈され、1本の木もない埋立て地を大人から子供まで走り、海からは海洋スポーツ少年団がボートで上陸、ボーイスカウト、オイスカ研修生も交えて、ここに松を植えますよ、と空と海を見ながらの1日でした。
 11月10日、市長も出席して第1回の記念植樹をしました。この時点で個人株主は約8,000人、法人100団体。その中より約500人が参加して3年物の松苗、成木合わせて3,300本を、海岸線に平行して約50メートルにわたって参加者みんなで植えました。松苗にはこよりを付け、紅白の餅を配りました。運動が始まってわずか半年余り……。感無量でした。私たちの世代から21世紀を担う世代への贈物、夢松原の誕生なのです。以後、長さ2.5キロ、幅50メートルの海岸線に植樹をすることになります。また現在までの募金者13,288件の名前を焼き付けた有田焼き銘板、又、“夢松原”の大きな石碑が平成元年3月11日に除幕され、夢松原は永久にその存在を記すことになりました。


他都市との交流

 夢松原の運動の基盤は、美しい緑の松が増えると共に、しっかりと根づいていきました。夢松原の会では、地域活性運動の先進地である大分県湯布院町のグループと交流しました。ここで学んだものは、開発とか活性化といった具体的な問題は、住民が自立精神を特ってよく見据え、目先が良ければよいといった安易な態度を常に反省しなければならないと痛感したことです。
 各地でのさまざまな交流シンポジウムに参加する中、新しい運動計画が進行し、平成元年11月7、8日大分県臼杵市で「女たちが今考える 環境とまちづくり‘89シンポジウム―きれいな水、豊かな縁を今こそ取り戻そう」か開催されました。
“女たちの視点”というのが特色で、大分県・臼杵市の代表世話人と長い時間をかけ、実現にこぎつけた交流シンポでした。シンポには福岡、唐津、大分県下、宮崎、臼杵から100人余りが参加、環境問題を中心に熱心に討議を重ね、次回は福岡で「環境とまちづくり福岡‘90シンポジウム」を開催することとしました。
 福岡での上記シンポジウムては「アイラブ・アース(地球)&九州」をテーマに掲げ、地球温暖化現象が問題化している今、環境と生活の関わりにおいて、この問題をどのように捉え、行動していくかを探り、歴史と文化を大切にする環境を子供たちに残したいと、共に考え、共に行動し、“九州はひとつ”の夢を造りだそうと、九州各県から市民運動の代表が参加して熱心な討論が行われました。今年は宮城県で開催します。
 松原再生から端を発したこの運動は、これからも植樹、保全の活動を続け、環境問題との取組みも一層多事多端となりそうです。自然を取り戻すということはお金と長い時間がかかります。自然環境というのは長い歳月をかけて造られたものです。一旦それを破壊すれば容易に元に戻せないことは、戦後45年の歴史の中、私たちにどれだけのことができたのかと考えます。
 松原の夢から環境問題へ…人々の熱い思いが冷めないように意識の高まり広がりを求める運動は果てしなく続きます。
 永遠に青い地球であるために………。