「ふるさとづくり'92」掲載
<集団の部>

天野を良くする
和歌山県かつらぎ町 天野をよくする会(天良会)
 私達の会は、和歌山県伊都郡かつらぎ町の南東部、高野山のふもと天野にあります。天野は世帯数約100戸、人口約400人あまりの小さな農村です。私達の会は、「天野を良くする会」、ちぢめて「天良会」と言います。この会を結成して10年になります。


酒でも汲み交わしながら

 私達が、天野の里で徒党を組んで動くきっかけとなったのが、子ども達に対する心配からでした。すばらしい自然の中でいるにもかかわらず、子ども達を野外でみかけなくなったのです。
 そこで、その当時の保育所保護者会と小学校育友会の有志が集まって、子ども達の様子を話し合いました。
 その事がきっかけとなって、これからの天野をどうしてゆくのか、個々の天野に対する想いは何なのか、という事に発展し、天野に住んでいる他の若者にも呼びかけ、仲間を集めることになったのです。
 そして、この呼びかけに20数名が応えてくれ、「天良会」が結成されていく訳です。
 発足時の会では、どの会でもそうですが、会の名前はどうするのか、会の活動は、どんなことをしていくのか、ということで、かなり時間をとりました。
 そんな中で、「そらそうと天野を良くするって、どういうことなんな」という問いかけが出されたのです。
 道路を良くして天野を良くするのか、自然を大切にしながら天野の伝統を守るのか。などの意見が出されましたが、個々の価値観が異なるため、なかなか結論を出せませんでした。
 そこで、毎年4月に行なわれる天野大社の花盛祭の時、シンポジウムを開き、天野の他の人達はどんなふうに考えているのか聞こうではないかということになったのです。シンポジウムと言えば格好が良いのですが、まあ、早く言えば酒でも汲み交わしながら天野の将来を考えてみようということです。
 そして、天野の老人や壮年別の考えを聞く場を設け、また、自分達が考えていることを話し、交流を深めました。


みんなに大変奇妙に映る会

 その後で聞かれた「天良会」の総会で、皆んなが聞いてきたことを出し合い、話し合いましたが、やはり十人十色のたとえどおり、これという一本の道を開くことは出来ませんでした。
 そこで、とりあえず、これからの会の方向ということで、
 一つ目に、会員一人ひとりがやりたいと思っていることを、どんなことでもいいからどんどん出していく。
 二つ目に、出された意見を徹底的に論議し、一致できるところは皆んなが一丸となって行動する。また、一致するまではどんなことでも自分の考え・意見を皆んなの前に出していく。
 三つ目には、そのためには、年が上であろうが、下であろうが関係なく、また、イデオロギーを超えて、その人の考え・意見をよく聞く。
ということが、大切であると意思統一しました。考えてみれば、このことが、今まで天野ではあまり大切にされなかったことでした。
 だから、年下の者が年上の者に対して、また、革新的な考えの人と、保守的な考えの人が、はた目からみれば、喧嘩をしているような言い合いをしているのに、会がまとまっている、このことは、天野の人には大変奇妙に映ったそうです。


「天悪会」という名前も

 前段が長くなりましたが、これから具体的な活動の中味に入っていきたいと思います。
 前段でも言ったように、この会は一人が言い出した事でも、皆んなが一致すればどんなことでもやる、というのがモットーですから、それは大変です。
 今まで、後で考えてみて、一番バカらしかったのは、結成した年の正月のイベントでした。それは、元旦の午前0時から夜が明けるまでに四斗樽を呑みあかしてしまうというものでした。2トン車一杯の廃材と20俵の炭で大きなドンドをたき、肴はもちより、グイ呑は竹で作り、四斗樽を真中にすえ、八幡さんの境内を借りてやりました。
 最初の内は、皆んな元気ですからペースが上がります。しかし、相手は四斗樽ですから、なかなか減りません、その内に、1人減り2人減り、早く言えばぶったおれているわけてすが、よけいに酒の減る量が少なくなります。そうこうしていると、正月ですから、新年のおまいりにくる人が出てきます。お前ら何さわいどんな。いやこうこうこういう訳です。そらおもろいやないかい、わしもまでてくれ。肴とってくら。というようなことで、鰹をもってきてくれる人、鯛をもってきてくれる人、それをまた新聞紙でくるんで焼く人、おせちをもってきてくれる人などで、ドンドの回りに人垣ができ、ああでもない、こうでもないと話しがはずんでいきました。
 しかし、メンバーで最後まで残ったのは4、5人、樽が空になったのは明け方7時頃、酒を呑むのがこないしんどいことやったんかと思いしらされました。おかげ様で、皆んな3が日、寝正月さしてもらいました。まあ、このへんが「天悪会」と呼ばれることもあるゆえんやろなあと思う訳ですが……。


子どもたちにジャズを

 しかし、こんなことばかりではありません。
 結成当時の「自分達大人のためだけでなく、子どものために何かすることも大事だと思う」との意見を受けて、人形劇をしていたメンバーがその人達と仲間になり、人形劇を続けていくようになりました。
 テレビの世界にどっぷりつかり、受け身の生活をしている子ども達や、山に住んでいながら山や自然のよさを知らない子ども達が増えてきている。そんな子ども達を変える第一歩として、この人形劇を位置づけ、少なくとも10年は続けよう、「大人達が人形劇をして子ども達に見せるだけでなく、子ども達も人形劇に参加してもらおう」「大人と子どもが一緒になって作っていく人形劇にしよう」「そんな中でこそ、子ども達の本当の良さがわかるのだ」という考えが出され、皆んなで励ましあい、がんばってきました。
 そんな中で、声が小さくおとなしい子供だと思われていた子が、「うんとこしょ、どっこいしょ」と大きな声で言い、皆んな驚いたこともありました。また、練習の時にせりふを言うのが苦手で、人形を動かすだけだった子が、本番前になったら「自分でせりふも言う」と言いにきて、皆んなが喜んだこともありました。最近ちょっととぎれていますが、今まで11回の公演をしています。
 この他にも、子ども達に関することでは、「春の野草なんでも天ぷら大会」、子ども達には「おにぎりと水筒」だけをもたせ、ハイキングを兼ねて道端や山中の野草をかたっぱしから採取してきて、天ぷらにして食べようというものです。あやうく毒草を食べかけた一面もありましたが、大阪から応援にきてくれた専門家のおかげで難をまぬがれました。そのおかげで、私達も知らなかった食べらわる野草がたくこんあることがわかりよした。なかなかおいしかったです。
 そして、子ども達に「生の音楽」をということで、メンバーの一人の紹介で大阪のプロのジャズメンに無理をお願いしてのジャズコンサートをしました。なぜ天野で「ジャズ」になったのかは今もって不明な点でありますが、それでも回を重ねるにしたがって、学校の協力もいただき、子ども達が学校でならっている合奏曲との共演もできるようになりました。今も続いています。
 また、地域的な活動としては、盆踊り大会への支援、天野大社の祭りへの支援、正月に天野大社に参拝してくれる方たちを目当てに「松竹梅うどん」の販売(中味はもうそう竹のどんぶりに梅ぼしを松葉で刺して「松竹梅」、かまばことネギはたっぷり入って1杯300円)などをやっています。
 また、歴史文化の保存ということでは、「天野歴史保存会」の結成の呼びかけと参加、ここから、短歌で有名な西行法師の西行堂の復元と、600年の歴史をもつ「天野御田祭」の継承へと発展しました。御田祭は毎年1月14日です。
 また、ほたるの保護活動が認められ「ほたるの里」の指定をいただきました。養殖をしてふやすというような大がかりなものではなく、今もたくさん飛んでいる「ほたる」を減らさないようにというものです。農薬の使用方法とか、乱護防止のための啓発活動が今後共課題になっています。


都会といなかの交流ヘ

 最近の活動では、天野米オーナー制度の発足、低農薬で安全な米を提供するということと、都会では経験てきない米づくりの実習、そして、ふるさとのない方々をいなかの祭り・行事などに招待して第2のふるさとを感じてもらおうということを全都ひっくるめて商品化したものです。高いという声もありましたが、東京をはじめ約20組の方々の応募をいただきました。田植え・草取り・岸刈りを楽しんでいただきました。農業を基盤とした都会といなかの交流に発展させていきたいと考えています。
 ざっと、私達の活動の一端をとりとめもなくかかせていただきました。「ふる里活性化というような大層な看板でなく」、「1人が皆んなの為に、皆んなが1人のために」と思いつつ、一人ひとりのやりたいことを思うままにとり上げ、やっていきたいと考えています。