「ふるさとづくり'93」掲載
<集団の部>ふるさとづくり奨励賞

歴史と自然を生かした地域づくり
栃木県・芦野の里づくり委員会
芦野の概要

 那須といえば、日光、鬼怒川、塩原と並んで全国的にも知られ、那須温泉、那須岳、御用邸、別荘地と頭に浮かんでくると思います。
 しかし同じ那須町にある芦野は、那須温泉とは反対の方角の八溝山の近くで、人口約2500人で旧奥州街道の福島県に隣接する小さな集落です。しかし、芦野の歴史は古く、鎌倉時代から集落があり、江戸時代になってからは奥州街道関東最北端の宿場として栄え最盛期には42軒の旅龍があり、芦野氏が4500石の旗本として陣屋を構えていました。そして奥の細道で芭蕉と曽良が訪れて名句を残した「遊行柳」が町はずれの田園の中にあります。
 芦野は、明治以降も「芦野町」として発展してきましたが、鉄道の駅が隣接する「黒田原」に出来てから、次第に経済の流れが黒田原に移行し昭和29年の町村合併により、芦野は那須町大字芦野になってしまいました。芦野町が那須村に吸収された形になりそして役場も黒田原に移り、以来今日まで長い期間をかけて過疎現象の波に流されてきました。そして現在は地元商店街も活気がなく、後継者も将来のことを考えサラリーマンになったり、若者も都会や近隣の市や町に職を求める始末で、芦野に住むほとんどの人は、この現状を率直に見つめようとせず、また見つめたくなかったと言えると思います。


史跡めぐり地図とスケッチ

 芦野は那須町の中でも一番歴史が古く、那須町の歴史は芦野に集中していると言っても過言ではなく、文化財、天然記念物、伝統行事、それに西行法師、遊行上人、芭蕉、与謝蕪村等多くの歌人、俳人が訪れた歌枕の「遊行柳」があり、奥の細道を訪れる人や、俳句愛好家、写真家の人たちが、芭蕉紀行300年が近いこともあって5、6年前から少しずつですが芦野を訪れる人々が増えてきましたが、その人たちに道を尋ねられても、地元の歴史や、芭蕉のことを満足に答えられる人がほとんどいませんでした。
 そこで地元の若手後継者が芦野の歴史、文化財や芭蕉の芦野での足跡を勉強し、手作りの「史跡めぐり地図」を作り、芦野に訪れる人達にコピーをして無料配布したのです。そして地元を紹介する手段として、写真や高値なパンフレットでは予算もないし、ありきたりであるとのことで自ら芦野の文化財や名所、旧跡、残しておきたい景観などを1枚1枚スケッチして自分の店に展示し、そのスケッチを地図に落し、「手作りスケッチマップ」も出来上がり「地元に住む人でなければ出来ない」と評判になりました。このスケッチに描いた場所がいつまでも残るような環境を地元民が努力し、守ることが芦野のふるさと作りにつながるのだと思う人が少しずつ増えてきました。


里づくり委員会

「むらおこし」、「まちづくり」は全国に行われ実践されていると思いますが、成功例は、ほんの少数で、長いトンネルから出られないでいるところが数多くあると考えます。数年前はそのブームで他地区の例を見ると「むらおこし」をやろうということで、まず準備会を開催し講師を招き、全国の成功例を聞いて、むらおこしの方法論なるものを学びそして「何かアイディアはありませんか」というようなやり方で始まると思います。
 これでは良いアイディアなど出てくるはずがありません。
 芦野は特に高齢者が多く、人口の割に組織や団体が多くそれらは組織だけて活動してないものも多くあり、縦のつながりが強く横の連携を作ることは非常に難しいことである。例えば、一住民が提案して「川をきれいに」と思うと河川愛護会がある。城山を「こうしよう」と考えると城山愛護会、文化財を修復しようとすると文化財保護委員会、看板を建てようとすると道路公団、地主、観光課、教育委員会そして行政区長、公民館の組織等があり、ほとんど活動していないものもあり、過疎化にある今、実践する前にやる気をなくしてしまいます。
 この様なことでは「ふるさとづくり」など出来る訳がありません。そこで地元商工会の若手は、まずは、商工会主催の各種イベントを成功させ実績をあげ、芦野が少しでも活気が出てきて、芦野を訪れる人達が増えることによりいろいろな組織や団体に協力してもらえる状況をつくることが、まず先であると考え、消滅しそうな状況にある春の花市、桜祭り、夏の聖天花火大会等を約5年間をかけて、毎年盛大にすることに成功しました。こうなると地元の人々の意識も変わり、芦野全体を考える会を作ろうという声が多くなり、初めてあらゆる組織の代表が芦野全体のことについて語り合う「芦野の里づくり委員会」が平成元年2月に発足しました。
 しかしこの組織は実践する組織ではなく、将来の夢を語ったり芦野の里づくりに必要な行事やイベント、運動を後援したり地元の若手の活動に協力することを目的にしました。こうして芦野全体の事については、町役場と地元をひとつのパイプでつなぐことが出来、この委員会が出来たことにより従来、他の組織の活動については、無関心であったり、非協力的であった人達も、横のつながりが出来たため、芦野全体の理解を得ることや、協力、援助等も可能になり、トラブルや誤解も少なくなりました。また、これまで一組織の代表者であった人達も、芦野全体の代表者になったことにより、充実感と責任感も出来たことが今後の里づくりにも大いに期待することが出来ると思います。


遊行柳の遊行庵

 芦野の町はずれにある「遊行柳」は、奥の細道の途中芭蕉と曽良が訪れ、名句「田一枚植えて立ち去る柳かな」と詠んだ地であることは、奥の細道を学んでいる人はほとんど知っていると思いますが、その柳は芭蕉より約500年前に西行法師が「道の辺に清水流るる柳陰しばしとてこそ立ち止まりつれ」と詠み、京の都で披露し「新古今集」に載ったり、謡曲「遊行柳」でも演じられ有名になった場所でもあり、以来多くの歌人、俳人が訪れ現在では、かなりの数の投句があります。
 環境破壊や観光開発がエスカレートするあまり、方向を見失う場合が多いので「遊行柳」は歌枕の地でもあり、いつまでもこの柳と周囲の環境を守ることにより、今後も多くの俳句や歌が生まれるのだと思います。
 先に記した「スケッチ」を描いたり、「写真コンクール」等を開催し、「絵になる風景」「写真の被写体になる風景」を守ること。そのために遊行柳の周辺には余分な建物、自動販売機、看板、電柱等を道らせない、建てさせないようPRを実践してきました。奥の細道を旅してきて写真を撮っているプロのカメラマンが芦野を訪れたときの話では、全国至る所で芭蕉紀行300年祭とのことで、お土産屋が出来、自動販売機が立ち並び、写真を撮るのが難しい。しかし、芦野の里は遊行柳を含め良い写真が何枚も撮れたとの話を聞き「物を造らせない」「建てさせない」と頑張ってきた苦労が報われたような気がしました。
 芦野を訪れた方々へと町に要望して建てられた「遊行庵」(平成2年4月完成)は、柳より約200メートルほど、離れた場所にあり、無料休憩所として地元商工会が運営にあたっています。
 芦野には、休憩所や公衆便所、無料駐車場が1つもなかったので、のんびりと芦野の里を散策していただくため、「遊行庵」の使用目的を「無料でお茶を飲んでトイレを使用し、ゆっくり休んでいただく施設」とし、そこに展示及び即売してある品は、全て芦野在住の人の作品のみを扱い、芦野以外からの品は一切ありません。他の例を見ると売上をあげることを目的にし、どれが本当の地場産であるかわからない所が多く、本当のふるさとが忘れられているような気がします。遊行庵に置いてあるものは、「全てが芦野産ですよ」と誰にでもいえるのが自慢です。
 芦野を訪れる多くの人々は「この様な利益を追及しない無料休憩所が増えるといいてすね」と好評ですが、中には地元商工会と里づくり委員会が運営していて「赤字でしょう」という方もいますが、このやり方はお客様へのサービスと芦野のイメージアップに役立てば良いとの方針で運営しております。
 展示品の内容は、地元ですぐれた才能、技術を持った人を探し、説得して作られたオリジナルばかりで、竹細工、木工細工、芦野石を加工した石細工、版画、絵画、陶芸品、山草鉢、手作りカルメ焼き、押し花、江戸時代より伝えられている手作りまんじゅう、オリジナル「手書きスケッチ絵葉書」「オリジナルテレフォンカード」(手書き)等があります。


イベント

 芦野のイベントというと、桜祭り、花市、花火大会等があり、それらを盛り上げたことは前にも記しましましたが、大きな転機になったことは、前に述べた奥の細道写真家のM氏が芦野の里が気に入って何度も訪れるうちに親しくなり、「芦野の里で私が全国を歩いて撮った『奥の細道全行程写真展』(全紙パネル75点)を開催してみないか」との話がありました。しかし、人口も少ない芦野の里で、いかにすべきか悩みましたが、里づくり委員会や地元商工会の若手があらゆる機関、団体にPRをし写真家や隣接の市町村の青年会議所などの若手組織の協力等もお願いして、大都市で開催するようなイベントを成功裡に終えることが出来ました。これを機に里づくり委員会、地元商工会を中心とした輪が広がり、翌年からは技術のみを評価するのではないインスタントカメラでも参加できる「芦野の里写真コンクール」をM氏の好意でスタートしました。これは子供から老人まで幅広い応募があり、今年で第3回を迎えることが出来ました(第3回は平成4年6月14日発表と表形式)。
 この主旨は芦野を訪れる人達に芦野の自然やイベント、史跡等を撮っていただくことにより環境チェック、第三者の客観的に見た芦野を知ることが出来、今後の里づくりに役立てようと思ったからです。その結果、地元の人が気付かない素晴らしい場所や風景または、この電柱がなければ良いとか、こうすればこの風景が撮れるのにといった声も聞くことが出来、この写真コンクールを通して、多くの人達とのふれあいが出来、多くを学ぶことが出来ました。その他「全国柳まつり俳句大会」や地元を対象とした「史跡と奥の細道散策」なども催しています。


まとめ

 全国至る所で「まちづくり」、「むらおこし」と名打って建物を造り、売店が立ち並び全国共通のお上産品が販売され、いかに利益を上げるかを目的にしているところが数多くあると思います。私たちは、先祖が築いて歩んできた芦野の歴史を大切にし、自然を守り「絵が描けるところ」、「写真が撮れるところ」、「俳句が詠めるところ」、「心が和むところ」、「ふるさとを感じられるところ」、このような「芦野の里」をつくって行きたいと考え、ここ歩焦らず努力して、芦野の活性化を図り、江戸時代に栄えた「芦野宿」のように活気を取り戻したいと考えております。また、資料館、博物館、「・・・館」などを建てることは大切であると思いますが、ともすると、そこに保存展示してあるもののみ、重要視してしまう傾向にある現在、芦野の里にある川や木、道、家、花、それに住んでいる人、これら全てが芦野の歴史であると思います。これらをいつまでも大切にし、改善すべきところは改善し、「物を造らせない、造らない環境」を守ることも重要であり、芦野全体が博物館となるように(エコ・ミュージアム……生態博物館)頑張っていきたいと思います。