「ふるさとづくり'93」掲載
<集団の部>

地域文化の振興に奮闘する
福島県・舞台研究“うらかた”
 私か館長を務める喜多方プラザ文化センターには、大変ユニークな市民グループ「舞台研究会“うらかた”」があって、地域の文化活動に大きく貢献しています。
 これは、その“うらかた”の活動の記録です。


あえて専任の職員を配置

 喜多方プラザ文化センターは、自治省の田園都市整備構想により、昭和58年秋に完成しました。1176席の大ホールと400席の小ホールをメインに、公民館や視聴覚室などがある複合施設です。
 文化センター完成を前にして、私は開設準備室の職員でしたが、地域に密着した施設にするにはどうしたらいいのかを模索していました。そして思いついたのが、舞台の装置を市民の皆さんに操作してもらい、できるだけ市民による舞台づくりやホールの運営をしようということでした。
 喜多方プラザ文化センターは、福島県の西北部に位置する喜多方市と周辺6町村による共同管理施設です。
 地域の文化活動の拠点施設として人々の大きな期待を担って建設されましたが、管理の中で一番問題となったのは、ホールの音響、照明、舞台設備などの操作を誰れがやるのかということでした。
 各地のホールの実態を調査し、検討の末、全国の公立ホールの多くが、特に人口規模の小さな都市の施設では、舞台機構操作専門の会社に委託する形をとっている中で、喜多方プラザ文化センターは、あえて専任の3人の職員を配置することにしました。委託方式をとると、往々にして舞台担当と地域の人々との接触が少なく、単に舞台機構を、それこそ機械的に操作するだけになる危険性があったからです。


すべて地域の人の手でと考え

 しかし、3人の舞台担当職員を配置することでも問題は残りました。
 音響、照明、舞台機構にそれぞれ一人ずつの職員を配置することにしても、地元のアマチュアの舞台公演ですら、舞台裏を担当するスタッフとしては絶対的に人員が不足するのです。一般的には、この部分はスタッフ派遣会社に依頼したり、アルバイトを雇ったりするのですが、この不足部分を市民の手でカバーできないか、さらにはホールの職員の手を借りずに、市民の手だけで舞台裏を担当することはできないかを考えてみました。
 これが実現すれば、演ずる者、舞台の裏方そして観客など、すべて地域の人々による舞台が、いつでもつくれるのではないかと思ったのです。
 地元の民謡、踊りの会の発表や各種の音楽会などを、この方式で行なうことによって、出演者と裏方の絆が強まり、そのことが地域文化の発展につながるとも考えたのでした。


見よう見まねの手探りで

 文化センター開館半年前に、この裏方の募集をしました。私たち開設準備室職員の思惑だけに終ってしまうのではないかという心配もありましたが、結果として50人ほどが集ってくれました。年齢も職業も様々で、しかも舞台機構など見たこともない人達ばかりでした。
 彼らは、この集団を「舞台研究会“うらかた”」と呼ぶことにし、それぞれの希望により音響、照明、舞台の3部門に分れて活動することになりました。
 素人の集団といっても、実際に活動するとなるとそれなりの責任もあり、失敗も許されません。そこで、文化センターがオープンするまでの間、文化センターの3人の舞台技術職員が講師となり、部門毎に研修を積むことになりました。
 この“うらかた”発足当時は、まだ文化センターは建設途上で、実際に設備や装置を使うことはできませんでしたので、理論の勉強やミュージカルなどのビデオを見る程度の研修しかできませんでした。しかも三人の職員のうちの二人は、東京のホールで1カ月間の研修を経験しただけの、いわば駆け出しの職員でしたから“うらかた”の研修は、正に見よう見まねの手探りの域を出ないものでした。


全員をつつむ感動

 ”うらかた”の初の舞台は、喜多方プラザ文化センターのオープニングセレモニーでしたが、建物の完成からオープンまで1カ月しかありませんでしたから、”うらかた”の実地研修はしばしば深夜に及ぶこともありました。
 地域の人々に愛される文化センターを目指した私たちは、このオープニングセレモニーにできるだけ多くの市民に登場してもらうことを考えていましたので、出演者は子供からお年寄りまで400人を越えるものになりました。
 “うらかた”のメンバーは、部門毎に分れて、オープニングセレモニーの台本に合せ、毎日夜遅くまで機器の操作や舞台の転換などの研修や訓練を続けました。
 こうして迎えた11月3日の本番には、全員が「スタッフうらかた」と背中に染めぬいた揃いのトレーナーを着て勢揃いしました。
 彼らにとっても、私たち職員にとっても、喜多方プラザ文化センターにとっても、公式に動き出すのは、この日が初めてでしだから素人集団の不安は大変なものでした。
 小学生の鼓笛隊、中・高校生のブラスバンド、お母さんコーラス、地元の祭り囃子や山車に至るまで、それぞれの出番で緊張が繰り返し続きました。小さなトラブルやハプニングがあったものの、曲がりなりにも無事終了したときの安堵感とそれに続いて全員を包んだ感動は、この地域の本格的な文化活動の幕明けを告げるにふさわしいものでした。
 こうして舞台研究会“うらかた”の面々は緊張と感動の中で、デビューを飾ったのでした。


有料が気軽を育てて

 喜多方プラザ文化センターは、この地方の人々が、かねてからその建設を強く望んでいた施設でしたから、完成後は地元の文化団体のホール利用が目白押しとなりました。
 アマチュアの団体でもプロと同じように最新の舞台設備を使用できることは、主催者にとっても出演者にとっても大きな魅力でしたし、その設備を顔見知りの“うらかた”が操作してくれるとあって、公演前の打ち合せでは、いつもキャストとスタッフの間で遠慮のない意見交換が行なわれるようになりました。このことで公演後の満足感は一層強まり、公演に向けての日頃の練習や活動に一段と熱が入るようになって、地域の文化団体の皆さんにとっても、文化センターにとっても、”うらかた”の存在は、なくてはならないものになって行ったのでした。
 “うらかた”が舞台スタッフとして参加した場合は、主催者から若干のお礼をもらうことになっています。発足当初は無料奉仕も考えていましたが、それぞれに仕事をもっている人達をお願いするのですから、無料というのはいかがなものかという意見もあって、スタッフ派遣会社の1人当りの費用の3分の1程度を、主催者に負担してもらうことにしました。この方が、頼む方も頼まれる方も、お互いに遠慮のない立場で舞台がつくれると考えたのです。
 地域の多くの人々から期待されて活動するようになった“うらかた”は、発足3年目の年に、自分達の独自の企画を打ち出すまでになりました。


地域の信頼も高くなる

 その1つが「喜多方プラザ映画祭」です。昭和60年2月の最初の映画祭には、1週間に13本の映画を上映しました。
 フィルムの選定から上映までの一切を“うらかた”が担当するこの映画祭は、ときには映画評論家の講演会を混じえたり、無声映画の特集を弁士つきで組んだり、冬の間、雪に閉ざされるこの地方の人達にとって、毎年開催されるこの映画祭は、楽しみな催しの一つに数えられるようになりました。
 企画の2つめは、当地方に古くから伝わる民俗芸能の「彼岸獅子舞い」を正確に保存、伝承するために、舞いの衣装の着付から実際の舞いに至るまでを、完全な形でビデオに収録したもので、このビデオテープは大変貴重な記録として大切に保存されています。
 昭和58年に発足した“うらかた”は、喜多方プラザ文化センターを中心として、地域に密着した活動を続けながら、今年で9年目を迎えました。会員の増減はあるものの、その活動と評価は地域に定着し、今ではこの喜多方方式ともいうべき“うらかた”を参考に、第2、第3の“うらかた”が全国のホールに結成されるようになりました。
 この9年の間、“うらかた”自身の技術・技能の向上は目覚ましく、会員の中からは、舞台技能者としての資格を取得する者までが次々に出るようになっていて、日本照明家協会認定の技能者や通商産業大臣認定の音響技能者など、合せて5人が有資格になっています。
 正に玄人はだしの集団に成長した“うらかた”は、地域の人々からの信頼もますます厚くなってきていますが、彼らを支えているものは、舞台をつくる喜び、感動を共有できる楽しみ、さらには地域の文化活動に少なからず貢献していることの誇りです。
 今は、来年3月に公演が予定されている市民劇の裏方として、台本にそった舞台づくりに取り組んでいます。キャストもスタッフも全員がこの地域の素人の人たちによるこの市民劇は今回が初演ですが、彼らはまた大勢の人々と感動を分ち合い、地域の人々と共にこの地方の文化振興のために活動する喜びを感じるにちがいありません。