「ふるさとづくり'94」掲載
<集団の部>ふるさとづくり賞

ハケの自然をよみがえらせるために
東京都・三鷹市 ほたるの里「三鷹村」
沿革

 副都心新宿から中央線で20分、住宅都市として発展してきたまちが三鷹市である。何の変哲もなくヘソのないまちであるが、東京近郊都市としては緑ゆたかな方である。玉川上水と国分寺崖線という2本の緑の帯が、市街地を斜断しており、それがまち全体を、うるおいのある落ちついたまち並みに仕上げている。
 その昔、古多摩川の流れが武蔵野台地を刻んだ時に形成されたという崖線からの湧き水と自然林は(この地方では国分寺崖線またはハケと呼んでいる)、都内でも随一の湧水量を保っていた。しかし、昭和30年代後半から展開されてきた野川流域の住宅化により、ハケの湧き水を集めて流れていた野川の景観が変化しはじめてきた。清流を誇っていた野川も生活排水の流れに変容し、湧き水の途絶えたハケ跡が目立つようになってきた。
 しかし、こうした中でも、かたくなにハケの湧き水を守り、ワサビづくりを続けている所がある。私たちグループは、これらの場所を「ほたるの里」と呼び、自然回復運動の発進拠点として、水辺再生への活動を展開してきた。


それは1匹のホタルから始まった

 “昭和40年頃まで、ここらあたりはホタルが無数に飛び回り、家の中まで入ってきたものだよ”と、当時を回想するようにポツポツと話をしてくれたのは、「ほたるの里」の主とでも言うべき箕輪一二三氏である。それがなぜ消えてしまったのか、いや探せば少しは生き残っているのではないか。箕輪氏によると実は細々とではあるが、ホタルの餌となるカワニナがハケから田んぼに至る水路の中に繁殖しており、ヘイケボタルも発生しているという。マスコミに宣伝されると大勢の人達に押しかけられ、荒らされてしまうのを畏れて口を噤んでいたという。
 昭和61年、カワニナの増殖とホタルの幼虫の飼育が、「ほたる愛好グループ」により始まった。高崎市や府中市のほたる愛好会から、ゲンジボタルの幼虫を譲りうけ、水槽による飼育作戦を展開してきた。水槽の数が増えるにつれ、飼育装置が大規模となってきた。ある朝、これらの水槽に農薬が何者かによって投入され、飼育中のホタル幼虫1000匹、カワニナ10,000匹が死滅するという事件が起こった。この事件がマスコミにより報道されると、全国のほたる愛好グループからの支援と激励の便りが続々と寄せられた。
 一方、野川に清流をとり戻そうとするグループの活動も、58年頃より多摩川にサケを放流する運動から、地域により身近な野川にと舞台を移し、「野川にサケを放流する会」を結成し活動を展開していた。
 しかし、個々のグループの力には限界がある。特に自然保護運動は、地域ぐるみで取り組まないと永続できないことが判ってきた。地域住民や自治体を巻き込んだ組織づくりが当面の大きな課題となってきた。


ほたるの里・三鷹村の誕生

 こうした背景から生まれた新しい組織が、63年6月に発足した。組織の特徴は「村制」をベースにしたことである。名称も「ほたるの里・三鷹村」とし、初代村長には、「ほたるの里」の大部分の土地を所有している箕輪一二三氏を選んだ。助役には、「ほたるの里」周辺を含む4つの町会の役員を、収入役、会計監査にはそれぞれ地域の長老を選出した。村民の中核には、次代を担う子供たちをもってきた。地元小・中学校のバックアップもさることながら、子供たちの父兄も含めて総数210人の大所帯である。村民税(会費)は年額1000円とし、子供会費(高校生以下)は納税猶予措置とした。あえて、これらの既存組織の長を役員に選び、学習塾漬けにされている子供たちを活動の中核に据えているので、これを動かすことは大変なことである。明確な活動理念と、解りやすく、楽しいイベントを盛りこんだ事業内容でなければならない。


活動の柱は4本

 事業活動の基本的な柱を4本とした。
(1)ハケからの湧水とその周辺環境の保全
 @ホタルの棲息環境の保全
 A生産緑地の拡大や雨水浸透施設の促進を流域自治体に要請
(2)野川流域環境の保全
 @野川にサケを放流する市民の集いと、野川のいっせい清掃
 A野川サミットの実現
(3)都市農業の保全
 @水田の保全、ちびっ子農業体験団の設置と稲づくりへの挑戦
 A市民農園(ファーマーズセンター)への支援と参画
(4)各種イベントの開催
 @ほたる祭りの開催(今年で5回目)
 A野川にサケを放流する市民の集い(今年で6回目)
 Bほたるの里ふれあいレンゲ祭り(今年がはじめて)
 C田植え祭り、稲刈りに挑戦、収穫祭り、モチつき大全(今年で2回目)
 D野川の自然写真コンテストの開催
 E自然環境教室の開催
 F各種イベントの活動をビデオ撮影
  ビデオ編集、製作(9本目)


活動の成果

 面的な活動の広がりを見せたものに、サケの放流事業がある。野川流域の環境保全を考える時、「水源から河口まで川は1本」である。流域の人達が力を合わせて取り組まないと保全の実をあげることは出来ない。サケの孵化、飼育、放流の実体験は、一般家庭から学校へ、そして企業の職場へとその輪が広がり、特に幼稚園や小学校の先生方から、生きた理科教育として大変喜ばれている。野川に清流がもどり、水量が確保されてはじめてサケの遡上が実現するのである。子供たちは、放流のつど、サケの稚魚の旅立ちに際して、「僕たちは野川の水をより豊かに、より清らかにするために汗を流すことを約束します」と宣言し、お互いの意思を確認しあってきた。
 次には、ほたるの棲息環境づくり事業がある。都内には珍しい恵まれたこの自然環境をいつまでも保全していく必要がある。カワニナやホタルの幼虫が棲息している水路に、子供たちが入りサワガニやジャリガニを捕っていたが、村の子供会員が中心となりお互いに注意しあうようになってきた。毎年7月初旬に開かれる「ほたる祭り」の参加者は、年々増加し、都内はおろか近県からも米村し、その数は一夜に4000人を数えるに至っている。ほたる提灯をもつ中学生会員を先頭に、田んぼの中に設置された幅70センチの木道の上を誘導される観賞者の列は、あたかも「孤の嫁入り」を思わせる風景である。地域の人たちは、これで「まちのヘソ」ができたと大喜び、市でも「ほたるの里づくり」をまちづくりの大きな柱として取り組むようになった。
 そして次は、稲づくり事業である。
 休耕田を無償で借り受け、種まきから収穫までの一連の農作業を、次代を担う子供たちに体験させることにより、これからの都市型農業の新しい展開の活路を見いだそうとするものである。
 初めて手にとる稲の苗、泥んこの田んぼの中での田植えは子供たちにとって遊びの天国、地方出身の親たちも、田植え風景は田舎で見てはいるが初体験、もの珍しさも手伝って作業はお祭り騒ぎである。一方、田植えを手にとって指導する村の長老や、おばあさんたちも、このような田植え祭りなら、何時でも手伝ってあげるよと、曲がった腰を叩きながら頑張ってくれる。新しい生き甲斐をみつけたように、長老たちの目は生き生きと輝いていた。更に新しく発見できたことは、イベントに参加する人達の賄いとして、赤飯や餅つきの準備作業を通して、今では地方の農村でも見かけられなくなった「結い」の芽が復活したことである。そして、これが新しい地域住民との間に連帯意識を醸成し、新しい井戸端会議が生まれつつある。


これからの課題

 昔から新しい事業やイベントを成功させるには、「キ印」と呼ばれる人が何人かいることが条件だと言われてきた。今日では、その上に2字付け足して「ゲンキ印」と呼ばれる人が地域活動の中核にいる必要がある。
 ほたるの里・三鷹村でも、活動を支えてきた「ゲンキ印」人間が、「ゲンキ印」なるが故に、他方面にも活動の輪を広げて、戦力が少しダウンしかけてきた。後継者の養成が今後の大きな課題である。
 次に、市をまきこんだ課題としては、ほたるの里を中核とした農業公園構想がある。
 野川沿いの国分寺崖線下の田んぼと、崖線上の畑を中心として、今年から市民農園を開設したところだが、ゆくゆくはそのエリアを拡げて、市民が食、購買、見学、体験、対話、交流を通して、農業者や農産物、農作業、農産物加工などとふれあい、楽しみながら、お互いに理解を高められるような場所「農業公園」の実現化が大きな目標である。