「ふるさとづくり'94」掲載
<集団の部>ふるさとづくり振興奨励賞

市民参加で「水文化都市川崎」の創造をめざして
神奈川県・川崎市 ニヶ領用水の再生を考える市民の会
はじめに

 日本は、かつて「水の都」といわれるほど各都市とも水辺環境に恵まれていた。それは江戸時代からの水運開発と農業振興=農業用水普及によるもので、水が人々の生活と密接に関係していたからでもあった。その関係が大きく崩れ環境が一変し始めるのは、わずか20〜30年前の高度経済成長の時代からである。川は、都市に残った唯一の空間として、埋められたりフタをされたりして、上面を道路に変えられてしまった。また都市に集中した人々が排水する生活雑排水が大量に流れこみ、ゴミと汚水の下水路と化してしまった。だが最近になって都市のなかにうるおいと親しみと誇りを求める市民の声が高まり、都市の形成に重要な役割を果たした川が再評価されつつある。水辺の復権という動きである。都市に生まれ、生活し、死んでいく「都市生活者」といわれる人々が、自分たちの住む都市の歴史と自然を再発見し始めたのである。
 川崎にも、その川そして川水の歴史がある。多摩川とニヶ領用水である。とりわけニヶ領用水は川崎のルーツであり、この夫農業用水の歴史は川崎市の歴史そのものであり、川崎市はこの用水によって生まれたといってもよい。このニヶ領用水の再生を願って結成された 「ニヶ領用水の再生を考える市民の会」は8年間の運動をとおして「市民参加によるニヶ領用水再生総合マスタープランの作成」を実現し、現在「環境マップ作成のためのワークショップ」を準備している。行政と市民が一体となって水辺再生を一歩一歩実行しようと努力を開始したのである。


ニヶ領用水は川崎を作った

 ニヶ領用水の正式の名称は「稲毛川崎ニヶ領用水」であり、江戸時代川崎の現市域が稲毛領及び川崎領に分かれ、その2つの領域を貫いて流れたことによりこの名称で呼ばれている。多摩川を挾んで、東京側には同時期に開削された世田谷・六郷用水というものがあったが、現在はわずかにその痕跡を残すのみである。ニヶ領用水は、工事奉行小泉次夫大吉次の名に因み、また「次大夫堀」とも呼ばれている。
 小泉次大夫が徳川家康の命を受けて用水建設を始めたのは慶長2年(1597年)である。その頃の川崎は「此の地数里の間水脈通ぜず、溝血梗塞し、毎歳旱、田に勺水無く、野に青草無し、居民産を失ひ、戸口従って減ず」状態であった。工事はニヶ領用水及び六郷用水を相互に開削するなどして慶長16年に14年の歳月をかけて完成した。ニヶ領用水は、また「女堀」とも呼ばれた。それは工事に男子のみを使用すると村々の生産力が減少する恐れがあるので、「10人に1人の割合」で女子も工事に当たらせた難工事であったことに由来する。
 多摩川に水源を依存しているニヶ領用水は、その水害の影響を直接受けた。このため用水が完成した4年後の元和2年に「稲毛・川崎ニヶ領用水組合」ができ、水害を復旧する費用や人足の割合を決め、水利を公平にした。だが日照りが続くと、百姓たちは目の色を変えて自分の田に水を引いた。ニヶ領用水は、この地方の農民の生命だったので、古くから「水争い」が激しかったという。例えば「溝日水騒動」は有名である。
 川にも自然の年齢があり、年がたつと次第に川底が高くなり、水が溢れて洪水になる。完成後約100年たったニヶ領用水も例外でなかった。渇水期になると、勝手に堰を作り、決められた量以上の水を取ってしまう。農民の心も用水も荒れ放題だった。こうした時期に登場したのが、田中兵庫である。田中兵庫は当時の農村の実情を正しくつかみ、それに即した農政のあり方を有名な「民間省要」にまとめた。これが「享保の改革」を行う8代将軍吉宗に認められ、多摩川や酒匂川の治水そしてニヶ領用水の改修を命じられた。ニヶ領用水は、幹線部だけでも全長32キロメートルにおよぶ用水全体の「大ざらい」を行い完全な姿に戻した。ニヶ領用水は、次大夫がっくり、兵庫が仕上げたといわれる。
 時代は明治に移り、川崎は明治45年町議会で「工場招致を百年の町是とする」議決を行い、工都・川崎を目指した。このとき大小の工場で働く労働者の飲料水を一手に引きうけたのがニヶ領用水であった。「水屋」が毎日、川崎駅付近の用水堀から汲みあげた水を売り歩いたという。また工業用水としても利用された。そして、関東大震災以後急速に大工場の進出が始まり、「川崎市」が誕生し、その市域は当時の用水組合幹部の人脈と用水利用を求めてニヶ領用水に沿って拡大していき、今日の細長い特徴ある形を作り上げていった。一方、工場と住宅の進出で農地面積は急激に減少し、用水の維持管理費用の負担に耐えきれなくなった用水組合は、権利の全てを川崎市に移譲し、昭和19年に解散してしまった。


ニヶ領用水の水利権と「市民の会」の結成

 ニヶ領用水の歴史的な意義とその再生の必要性については、市関係のさまざまな文献の中でも指摘され続けてきた。しかし、水利組合の解散以後ニヶ領用水の管理が市にまかされるようになると急速に農民や市民のニヶ領用水に対する関心は薄れていき、市側の工業用水確保と治水を目的としたコンクリートで固めた改修工事、そして下水道の不備による生活雑排水の混入により「ドブ川」的なみじめな姿になってしまった。そして、昭和57年にはかんがい面積減少を理由に多摩川からの取水が農業用毎秒7.00トンが半分の3.50トン(これに工業用2.35トンを加えて5.85トン)に削減されてしまった。その水利権の見直しが再度建設省から提起され、水の流れない用水はもはや死を意味するものだとして「水利権を守れ」「ニヶ領用水に新しい価値を生みだし川崎の街つくりに生かしていこう」と結成されたのが「ニヶ領用水の再生を考える市民の会」である。市民の会は、その組織原則として、「行政に
文句を言うだけでなく、自分たちで出来ることは自主的に実行していく」「他人に活動を強制せず、やるべきと思われることややりたいことは企画した人が責任をもって行う」「来るものは拒まず、去るものは追わず、楽しくやろう」等をかかげた。そして、川崎の市民の約80%以上の人々は他都市・地域から移り住んできた市民であること
から、まず、ニヶ領用水の存在と歴史またその価値を連続してPRしていくこと、目の前に追っているニヶ領用水の水利権見直しに対して水量を守る運動を強力にすすめることとし、連続の学習会開催から活動を開始した。
 一方、水利権を守るために建設省と交渉を行っている市当局を市民側から支援しようと@多摩川の清流化Aニヶ領用水を再生していくため現行水利権を確保するB二ヶ領用水の再生マスター・プランを市民と市当局が協力して作るの3点を求める議合請願を2万5千人の署名をつけて行った。この請願は、市議会の全員一致で採択され水利権確保への大きなカギになった(水利権問題は現在継続交渉中)。しかし、この請願の審議の中で市当局の「治水第一主義」と「市民参加」の考えの違いにより「市民参加によるマスター・プラン作り」は拒否されてしまった。それが、その後二ヶ領用水各地域で多額の費用を投入されて行われた「親水護岸」工事がコンクリート3面護岸に化粧をほどこし、河幅を狭くする工法が取られたことに対する批判となり、住民への説明も町内会役員など行政に関わりのある人々のみに限定されるなど「市民参加」「情報公開」などにも問題を残すものとなってしまった。


「対立」から「会話」へ。ニヶ領用水総合基本計画策定と環境マップ作成のワーク・ショップの実現に………

 二ヶ領用水の再生を共通のテーマにしながら不幸にも市当局のかたくなな態度により、具体的な話し合いのやり方や工事の内容について「対立」せざるを得ない状態が生じた。しかし、ニヶ領用水の再生を本当に実現するには市民と行政がそれぞれの立場と意見を尊重し一体となって協力し合わなければならないが、特に河川管理の権限と予算(金)を持つ市当局の考えや施策は重要である。そこで私たちは進行する工事の内容を1つずつ検証すると共に、連続した学習会及び調査活動を積み上げていき、また二ヶ領用水を活用した地域のイベント(例えば中野島ホタルの会、上小田中桃の会等)を開催し市民のネット・ワークを作ることを行って来た。そして、それらの長年の成果の上で市当局とのねばり強い話し合いを行い、ついに2年がかりで市民が参加した「ニヶ領用水総合基本計画」の策定を実現することが出来た。この中では「水文化都市川崎の創造」としてニヶ領用水の復活と川崎の街つくりへの活用が強調されている。そして、本年はその第一歩として「ニヶ領用水環境マップ」作りがワーク・ショップの考えで実行することが予定されている。
 私たち市民の会が当初より主張していた「トリ・ムシ・サカナの住める本物の水辺再生を」「市民と行政が一体となって川崎の街づくりの軸としてニヶ領用水再生を」ということが、いよいよ実現に向って力強く動き始めた。ソフト(市民と二ヶ領用水との関係、そしてそのネット・ワーク)がハード(二ヶ領用水の各種の施設等)を決めるという考えに立ち、二ヶ領用水が川崎の歴史の中で人々のネット・ワークの軸になっていた伝統を現在に復活させ、新しい「用水組合」的市民組織の実現を考えていく必要があると思える。市民の知恵と自主的取り組みが生され、行政と一体となってニヶ領用水への再生の努力がなされた時、ニヶ領用水再生はその歴史的第一歩を開始するに違いないと確信する。