「ふるさとづくり'97」掲載
<集団の部>ふるさとづくり賞 内閣官房長官賞

開かれた大学、自立する筑豊の実験
福岡県飯塚市 住学協同機構「筑豊地域づくりセンター」
筑豊は崩壊し渾沌の地域状態

 「開かれた大学、自立する筑豊の実験」を標榜して、大学と地域が共に力を合わせて、ふるさと筑豊の再建への道を探ろうとするゼミナールが、昭和63年4月22日、福岡県飯塚市、近畿大学九州工学部で産声を上げました。
 開講式で本郷英士学部長は、「渾沌」という言葉を引用して、「筑豊ムラおこし・地域づくりゼミナール」の開講を祝福されました。
 思えば、私たちのふるさとは、永い間、文字通り渾沌の中にあったような気がします。縄文、弥生のいにしえより稲作文明の発祥の地として、豊かで平和な生活を営んでいた先祖たちは、ある時は大陸との交流の場として、ある時は宿場町として、その時代時代を生き続けて来ました。
 歴史が流れ、ふるさとを大きく変貌させる大発見が“石炭”でした。それは日本の近代化を支えるエネルギー源となり、日本国家をも大きく変貌させることになったのです。栄光と激動の石炭時代、人々はふるさとを「筑豊」という名称で呼び、全国各地から、頭脳も、技術も、資本も、富みも集まりました。
 しかし、国策によるエネルギー革命の嵐の中で、主役の座を石油に譲り渡すや否や、100年の栄華はもちろんのこと、ふるさとの自然も、町並みも、人々の心までもが荒廃していまいました。
 政府は、地域崩壊と暴動を防ぐために、昭和36年、「産炭地域振興臨時措置法」等6法を定め、毎年1千億円とも、2千億円とも言われる補助金等をつぎ込んで再建を図ろうとしてきましたが、砂漠と化した筑豊の大地にオアシスはできなかったのです。補助金行政は今日を生きるための刹那的援助と、あさって利用するかもしれない施設等、すなわち失業保険、失業対策、生活保護、鉱害復旧事業等のために使われ、あすの私たちはどうあるべきか、そのために今日何をしなければならないのかを論じなかったのです。
 補助金=金がすべてをかたづける、拝金主義が、暴力団や鉱害屋等々の横行を許し、ある時の福岡県知事すら、「筑豊は福岡県の恥部」と発言するまでになっていたのです。


筑豊ムラおこし・地域づくりゼミナールの誕生

 筑豊におけるムラおこし運動は、地域崩壊を救おうとする必死の想いの住民たちにより、全くの筑豊住民の主導であったものが、野火のように25市町村の各地で静かに燃え始めました。筑豊砂漠にも地下水脈は静かに流れていたのです。さあ、皆で井戸を掘ろう、砂漠に水を引こう、田畑を耕そう、種を蒔こう、自らの知恵と汗で収穫を得よう。機は熟した。ふるさとの自然、歴史、文化、風土、特産品、人、物、心のすべてを生かして蘇ろう。人間らしく生きよう。性別や年齢、職業を超えて集まろう。「筑豊ゼミ」発起人一同は、こんな熱い思いを胸に集まりました。そしてその思いを支援してくれる強力なメディアがありました。
 読売新聞筑豊支局と「あすの筑豊を考える30人委員会」です。私たちと筑豊支局では「大学」は地域の頭脳として、その役割の重要性と、特に“私学”の可能性はもっと問い直されるべきだと考えました。さらに、私たちが最も魅せられたのは、本郷英士という学部長でした。
 九州工業大学情報工学部の準備室長をされ、開校までの文部省との折衝および実務を、誠実な人柄と卓越した先見性をもって務められた方でした。若い私たちは僭越ながら、「地域のため」という大儀を御旗に、「今、筑豊の各地で盛んに行われているムラおこし、地域づくりにかかわっている団体や個人が、より良い人間関係をつくり、正確な情報の交換と、専門知識を得て、さらに住み良いふるさとを築くために筑豊ムラおこし、地域づくりゼミナールの開講を」としたためた要望書を持って大学に押しかけました。
 近畿大学九州工学部教授会は、「大学は地域に対し何ができるのか?」を真剣に論議され大学の門は開かれました。教授会と発起人との第1回の会議では、徹底して自主自立のための運営方法が論じられ、ここに全国に例のない大学と地域の共催によるゼミナールが誕生したのです。そして、運営方法として次のような合意を得たのです。
1.大学側は、会場、指導者の提供をする。
2.ゼミ受講生は、募集し、全員で実行委員会を設立、大学に迷惑のかからないよう自主運営をする。
3.ゼミは、近畿大学と実行委員会の共催とする。
4.1年間のカリキュラムは、大学と実行委員会の双方で運営委員会を設け協議する。
5.ゼミ受講生の要する費用については、実行委員会の負担とする。
6.大学側に関する費用については、受け取らないものとする。
7.年会費は4千円。開講日は毎月第2金曜日、午後6時半からとする。
 以上のような内容で、定員40人の募集を開始したところ、素晴らしい個性と情熱を持った方々で瞬く間に100人を超えてしまい、本郷学部長は、「筑豊を愛する人々の多さと、ゼミナールへの期待に応えるために」と、100人までの受講を認められました。
 ゼミは、ムラおこしなど3分野の中に、5分科会を設け開講されました。
・ムラおこし(地域産業の活性化を目指す活動)
  2分科会=産業おこしを考える会、イベントを考える
・地域づくり(住み良い町・村を築いていく諸活動)
  2分科会=歴史と風土を考える、くらしと教育を考える
・地域づくりを支える役割
  1分科会=住民自治を考える
 筑豊ゼミの特色は従来の公開講座と異なり「地域に開かれた大学」を目指す、近畿大学九州工学部が全面的に協力し、住民と大学の共催という形でゼミが運営されていることです。そして、単に大学の施設を開放し利用の便を図るだけでなく、教職員が指導者、助言者、運営委員として多数参加しており、大学と住民が手を携え「住学協同」を実践しています。これは、まさに大学の頭脳を生かしながら、“ふるさとの浮揚策”を探るための実践活動ともいえましょう。
 筑豊ゼミには、筑豊の各地から行政の枠を超えて多数の異業種、異分野の人々が集まっています。これらの人々は、地域をより良くしたいという共通の目標の下に、より広域的な視点、地域を考える基本的な素養を身につけ、団体、グループ間のネットワークをつくって行こうと努力しています。


住学協同機構「筑豊地域づくりセンター」の設立

 筑豊ゼミの学習活動を通じて、その恒常的な運営基盤として、“地域づくりセンター”的な組織が筑豊には不可欠との認識が生まれてきました。そして、その実現を目指してプロジェクトチームが結成され、現実を踏まえながらもより夢をふくらませた形での議論がされ、さらに、近畿大学新井潔助教授の開発した“SIMPLE”という手法で、広く地域住民の意見を聞きながら、住学協同機構「筑豊地域づくりセンター」(仮称)のシナリオの整備、実現化を図ってきました。平成2年5月のシナリオ完成と同時に設立準備会へ移行し、規約などを定め平成4年10月16日、ようやく設立総会を開催、住学協同機構「筑豊地域づくりセンター」(理事長・井波益雄さん)がスタートしました。
 筑豊は、いわゆる“石炭後遺症”として、現在でも鉱害、失業、高齢化、教育、犯罪、環境問題などの相互に絡み合う広域的で複雑な問題を数多く抱えています。これらの問題を解決するにあたって、個別的な利害が表面的に出てくるために、人間関係のしがらみ、行政区分、国と地方の関係などの構造の中で、ともすればこれまで対症療法的に対応してきたきらいがありました。このことが、地域の現状を冷静に分析し、地域の将来を展望し、自らの手で問題を解決しようという意欲を阻害し、筑豊の自立を阻んできました。
 このため、筑豊のイメージが低められ、問題をますます複雑にしてきました。筑豊のイメージを高めるには、具体的な個別の政策案を検討するまえに、筑豊に住む立場の違った人々が、個人や地域の利害を超え、多様な視点や広域的観点から筑豊の現状を認識し、将来を展望する、すなわち自らを知り、自らの方向性を選択することが重要であると考えたのです。
 筑豊ゼミが多くの人々の共感を得ているのは、問題に直接ぶつかるのではなく、一見遠回りに見えるが、多くの立場の異なる人々が大学という中立な場を通じて率直に語り合い、互いの考え方の違いを理解し、いままで知らなかったことを、あるいは考えもしなかった着眼点を知ることの楽しさ、喜びを認識したためと思われます。
 この経験から、地域の中に「地域を学習する場」、「意見交換の場」、「交流の場」が必要とされていることが明らかになったのです。しかし、人員構成、組織等を考えると筑豊ゼミは弱体であり、改めて、新たなシステムが必要であり、これが住学協同機構「筑豊地域づくりセンター」の発想であります。
 感想
1  イデオロギー論争を超えたこと。(イデオロギーの時代に)
2  地域間を超えたこと。(25市町村)
3  男女間を超えたこと。
4  物や金でない心の豊かさを求めたこと。
5  緑や自然を愛し、平和を願うこと。
6  地方の時代の自立自助を追究し続ける精神の高いこと。