「まち むら」100号掲載
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新潟県中越地震の被災体験を活かし、次なる災禍に果敢に挑戦する
新潟県柏崎市・北条地区コミュニティ振興協議会
 平成16年10月の新潟県中越地震と3年後の平成19年7月の新潟県中越沖地震、いずれも震度6強の二度の地震に遭いながら、その災いを地域の安全安心につなげる課題と受け止め、住民が一丸となり逞しく立ち向かっているのが新潟県柏崎市の北条(きたじょう)地区コミュニティ振興協議会。今回、同協議会の活動を紹介する。
 北条地区は、柏崎市の中心部から東ヘ8キロ、21の集落(町内会)からなる世帯数1094世帯、人口3700の地区。地区内に信越本線の越後広田、北条、長島の三つの駅を抱えるという広大な山間地である。


地域の防災力が問われた中越地震

 北条地区コミュニティ振興協議会では、平成15年に「まちづくり計画」を策定し、通院や生活の困りごとを住民同士でサポートする人材バンクの設立や地産・地消の推進と高齢者の生きがいづくりを目的とした「北条ふるさと市場」の開設をめざすなどの活動をしていた。そんな時、この地区を襲ったのが、新潟県中越地震。ここで問われたのが「地域防災力」。町内の防災組織が整備されていなかったため、被害状況の把握などが十分出来なかった。そこで痛感させられたのが、正確で迅速な情報の収集と伝達の重要性。こんなこともあった。地震で、家々の屋根瓦の崩落が多く、被災者が最も望んだ物資は、応急処置として屋根を覆うためのブルーシート。このような場合を想定して、北条地区のコミュニティセンターには、このブルーシートを確保していたが、確保してあるという情報がいきわたらず、十分に活用できなかった。また、同地区は、電波状態が悪く、携帯電話は圏外となり通話が出来ない。このため、地震の際、遠方の親戚や知人から安否確認の問い合わせが、同協議会の活動拠点となっているコミュニティセンターに数多く寄せられた。しかし、このセンターのほかに二つの小学校の計3箇所に避難所が設けられているため、誰がどこに避難しているのかの確認に手間取ったと言う。さらには、コミュニティセンター前の道路が狭隘なため大型車両や救急車両の出入りに不便をきたしたこと。より切実な問題として、唯一営業をしていたスーパーマーケットも地震で閉店せざるを得なくなってしまい、高齢者や障害者、車を待たない人から「食材を買える店がなくなり、日々の食事にも困る。何とかして欲しい」という声も上がっていた。
 そこで、同協議会では、町内会会長の集まりである総代会とともに、平成17年度、1年間かけて地域防災について検討を加え、18年度から次のような取り組みを開始した。


全町内会に自主防災組織を整備

 その一つが、自主防災組織の整備。いざというとき同協議会が災害本部となることや21の全町内会で自主防災組織を立ち上げた。そのような組織づくりをした上で、具体的に活動に入る。その一つが、顔が見える救援体制づくり。北条地区の高齢化率は36%を超えている。災害が起こったとき、援護を必要とする人たちに対し、隣り近所の人たちが救援するという、救援体制づくりをめざした。各町内会ごとに、「この指とまれ」方式で、救援者になってもらうと募集のチラシを配り募ったが、最初は31人に過ぎなかった。再度、各町内会長が各世帯を訪問し、個別に説得、依頼をするなかで95人が登録するまでになった。あわせて、要援護者と救援者を屋号として図示した「安全福祉マップ」を整備し、このマップを同協議会、町内会会長、行政の三者が持ち情報を共有し、災害に備えることにした。さらに地区をあげての防災訓練の実施である。ここでは、震度6を想定し、21の町内会、地区に小学校、中学校の子どもたちも参加した。
 また、「食材を買える店がなく、日々の食事に困る」という声に応えるため、同協議会では、「住民企業室(部会)」を設け、検討を加えた。その結果、コミュニティセンター前にある被災した民家を借り受け、改築を加え、地元の食材を活かした惣菜屋「曖曖(だんだん)」を開設。地区のお母さんたちが、地元の食材を活かした惣菜を作り、販売するようになった。開店日は、火、木、土の週3回だが、店頭には、5、6種の惣菜を詰めたパックが300円。そのほかにも野菜を中心した単品(100円)の惣菜が並び、来店者には喜ばれている。


見事に活かされた中越地震の教訓

 このような活動を進めるなか、平成19年7月、まさかの中越沖地震がこの地を襲ったが、これまでの取り組みが見事に活かされた。地震発生後1時間で、コミュニティセンターに地震対策本部が設置された。防災訓練では、被害報告およびその集約をいかに短時間で行なうかの訓練も行なわれていたが、現実の地震では、2時間後には地区全体の被害報告が本部に集められた。要援護者台帳に基づく、高齢者や障害者の安否確認、避難所への誘導もスムーズに進んだ。翌日には、協議会の役員、町内会会長、センターの事務局員などが参加して「防災会議」が持たれ、各町内会の被害状況の報告と周知、被災者とくに要援護者への炊き出しの対応、必要物資の手配や配布方法などを決めていった。とくに炊き出しでは、曖曖のスタッフとボランティアの人たちが中心になって、被災した人たちの食を支えた。人材バンクの面々は、家屋の片付け、悩み相談、通院解除などの救援活動を行なった。その後も防災会議は開かれ、情報の共有に努めていった。同協議会では、中越地震の体験をバネとして中越沖地震を見事に乗り切ったと言えよう。
 その後、今年の2月には、大きなネックになっていた連絡手段の改善に向けて、復興基金の資金をもとに、センターをキー局とし、各町内会に防災携帯無線が整備された。町内会会長が集まる機会を利用して、模擬試験を繰り返している。また、避難道路の拡幅もなされ、ハード面の整備も進められている。


見逃せない「事務局」の活躍

 このような、活動ができる背景には、住民一人ひとりが、「この地区の地域課題は何か」と絶えず問い続けるその姿勢にあることはもちろんだろう。あわせて、見逃せないのが、コミュニティセンターの事務局員の存在である。この事務局員は同協議会の専属の事務局員。多くの活動にかかわる事務作業をこなす。同協議会に設置されている「住民企業室」「安全対策室」を始めとする各部会の活動の企画、立案を同協議会の面々とともに進めもする。また、今回の地震では、道難所になっているセンターに17日間も泊り込み、避難生活を続ける人々を支え続けたという。
 避難所生活で、頼りになるのは「人」。それも被災者の気持ちが分かってくれる身近な地域の人である。普段の顔が見え安心する。愚痴も聞いてくれる。そんな献身的な事務局員の姿は、避難者の脳裏にいつまでも刻まれたに違いない。事務局を担当して20年の戸田洋子さんは、「これまでの長年のコミュニティ活動で、地域のきずな、助け合いの心を学んだ」と言う。言うまでもなく、それはまさに地域づくりの原点でもある。