「まち むら」101号掲載
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伝統産業を未来に伝える
奈良県安堵町・灯芯保存会
 神社仏閣の灯明用、採墨用、茶事の灯り用、そして和ろうそくの芯に、藺草の髄が灯芯として使われていることはあまり知られていない。かつて灯芯の一大産地を形成しながら、需要の低下とともに藺草の生産が途絶えた奈良県安堵町では、往時の繁栄を知る高齢者の有志が栽培を復活させ、灯芯ひきの技術を伝承する活動を続けている。


灯芯ひき体験会

 直径3ミリほどしかない藺草の茎を手に取り、縦に刃を当てて左手で押さえ、右手ですっと引く。すると、硬い外皮に守られていた髄が飛び出してくる。「ひき台」と呼ばれる専用の道具を前に、数人の参加者が思い思いの速さで髄を引き出していく。柔らかいスポンジ状の髄は、その毛細血管作用によって油を吸収し、燃焼させる灯芯になる。
 世界最古の木造建築として知られる法隆寺に近く、聖徳太子が歩いた太子道が伸びる奈良県安堵町。その名は、この地を訪れた太子が安堵したことに由来する。水田地帯に建つ奈良県安堵町歴史民俗資料館では、町内の有志がつくる灯芯保存会の協力を得て、毎月、灯芯ひき体験会を開催している。
 講師をつとめるのは、胡内廣子さん(88歳)。水で湿らせた藺草を手にすると、しゅっというかすかな音を立てて、長く細い外皮を縦に裂き、髄を引き出す。老眼鏡もかけずに、正確無比な手つきで作業を続けるうち、藺草はみるみるうちに、淡い黄色をした髄と、殻になった外皮(藺殻)に分けられていく。
「先生がやっているのを見ると簡単そうに見えますが、髄が途中で切れてしまうので、想像以上に難しいです」
 同館でアルバイトをする藤本愛さんは、これが2度目の体験会。胡内さんのスピードには及ばず、取り出した髄の長さもまちまちだが、真剣にひき台に向き合う。この体験会には、町内の人に混じって遠方から駆けつける人もいる。この日も、東京から来たという参加者が、熱心にビデオカメラを回していた。


地域特性を生かした風土産業

 安堵町には、大和川、富雄川、岡崎川の三つの河川が流れ込む。この町の先人は、川が形成した低湿地帯に泥田と呼ばれる排水の悪い水田を開き、農業生産の基盤を築いた。関西地方の水田では米と麦の二毛作を行なうのが一般的だが、湿気を嫌う小麦はこの地には適さない。そこで、湿地を好み、稲刈りの後に栽培できる藺草に注目した。
 といっても、九州や中国で栽培される畳表や花筵の原料にする藺草とは種類が異なる。安堵町で栽培されていたのは、灯明や和ろうそくの芯などにする髄を取り出すための、茎が太く、丈の短い品種である。歴史民俗資料館の学芸員、橋本紀美さんは、地域特性を見通した先人の洞察をこう評価する。
「小麦が生産できないという一見、不利に見える特性を利点に変え、地の利を生かした産業を興したのです」
 稲刈りを終えた後の水田に植える藺草の収穫は梅雨と重なる。
「水の中に植わっている藺草の収穫は重労働であるうえ、梅雨の晴れ間を狙って一気に収穫し、すぐに干し上げなければなりません。そうしないと、灯芯の色が赤茶けてしまうからです」(橋本さん)
 藺草の生産に適した低湿地を形成する川の土手で収穫した藺草を乾燥させる風景は、安堵町の風物詩となった。


女性たちが活躍した灯芯ひき

 こうして生産された藺草の髄を取り出す仕事は、主に女性たちの手で行なわれた。灯芯ひき体験会で披を披露する胡内廣子さんは、他の少女たちと同様、小学3年生のころ、祖母や母のかたわらで遊びながら灯芯ひきを覚えた。
「最初は短いのを、見よう見まねでひいて練習し、中学に上がるころには一人前にひけるようになりました。髄をひいた後に残る藺殻を昆布巻きの縄などにするため買いに来る業者がいて、そのお金をおこづかいにもらったものです」
 女性たちは、農作業や家事をこなしながら、日に七束の灯芯をひいたという。
「昔は農作業もして、ごはんも洗濯もみな手でしていました。その合間に灯芯をひくんです。午前中に二つ、昼から三つ、夜なべに二つすれば、1日に七束できます。私も昔はもっと早うひけてたんですよ。1束ひくのに、1時間半はかかりませんでした」
 安堵町は藺草の一大生産地にとして名を馳せ、女性たちがひいた灯芯は全国に出荷されていた。しかし、電灯が普及し、灯芯と木蝋を原料とする和ろうそくも、綿糸と石油製品であるパラフィンを原料とする西洋ろうそくに席巻される。灯芯の需要が激減すると、藺草を栽培する農家は次第に減少し、1978年を最後に長い歴史をもつ藺草栽培は姿を消した。


伝統を未来に伝える

 しかし、神社仏閣の灯明用や祭祀に、いまも灯芯は欠かせない。なかでも、長い歴史をもつ東大寺の修二会、お水取り、十数年前から始まった元興寺の地蔵盆などには、安堵産の灯芯が献納されてきた。また、奈良県の伝統産業である墨は、灯明皿に菜種油と灯芯を入れ、燃焼によって発生する煤を採取して生産される。このほか、全国各地に残る和ろうそく用の灯芯としての需要も少なくない。
 もし藺草が生産されず、灯芯ひきが行なわれなければ、これらの伝統行事や各地の和ろうそく産業は壊滅的な打撃を受ける。そのため、安堵町に残る灯芯業者では、茨城県で栽培される藺草の髄を町内でひき、灯芯の生産を維持している。
 こうした事態に、町民が立ち上がった。歴史民俗資料館の開館から3年後の1996年、かつての藺草生産と灯芯ひきを知る高齢者の有志約20人が灯芯保存会を結成。資料館前の水田で藺草栽培を復活させ、灯芯ひきの技を次世代に継承する活動を開始した。
 そのひとり、副会長の胡内健造さん(86歳)は、15歳で町内に5軒あった灯芯業者のひとつに奉公に出た。
「『とうしみ屋』という屋号をもつその業者には奉公人が5人いて、灯芯をアンペラに包んで5貫目(約20キログラム)にして、全国に出荷していましたが、昭和40年代に廃業してしまいました」
 灯芯をひく技術とともに、往時の繁栄の様子を伝えることも忘れない。灯芯保存会では、このほか、灯芯を生かした工芸品として行灯、藺殻の筆、匂い袋などの関連商品をミュージアムグッズとして開発してきた。
 また、町内の小学校の3年生、法隆寺国際高校歴史文化コースの2年生、奈良市にある帝塚山大学の学生たちに灯芯ひきの歴史とその技術を伝える活動も続けている。学芸員としてその活動を支える橋本さんは、次のように語る。
「産業として再生するには多くの課題がありますが、若い人が経験する場をつくり、普及を発信し続けていきます」
 灯芯保存会の会員の熱意に触れた多くの子どもたちのなかから、やがて伝統を受け継ぐ動きが生まれることだろう。