「まち むら」102号掲載
ル ポ

あるもの活かしふれあい観光「語り部処」で町づくり
石川県七尾市 一本杉町町会
 能登半島の付け根にある石川県七尾市。ここは、かつてこの地域一帯を治めた能登畠山氏の居城である山岳城・七尾城と、加賀藩祖・前田利家が築いた小丸山城という二つの城址を持つ城下町であり、名湯「和倉温泉」を抱えるかつての北前船交易で栄えた港町だ。
 この町の中心部、南北に流れる御祓川(みそぎがわ)にかかる赤い欄干の橋・仙対橋(せんたいばし)を起点とする東西400メートルほどの通り、それが一本杉通りだ。藩政時代に形づくられたこの町には、北前船の寄港地らしく国の登録文化財を含む由緒ある家が建ち並ぶ。
 今日も和倉温泉に宿泊した観光客が、「語り部処」マップ片手にそぞろ歩きを楽しみにやってくる。マイクロバスから降りてくる観光客を迎えるのは一本杉町町会長の北林昌之さん。「一本杉通りは全体として特に美しい街並みがそろっているわけでもない。でも語り部処でいろんなお話を聞いてみてください。昆布屋さんからは遠く北海道や大阪との交易の話、仏壇屋さんからは職人の朴訥とした話と漆の香り、醤油屋さんの匂い、和ろうそく屋さん…。いろんな話を聞けたり匂いがしてくる。そうすると、とたんに通りのイメージががらりと変わる」そう語りながらにっこりとする町会長。どうしてこのように人々がやってくるようになったのか伺ってみた。


きっかけは登録文化財から

 ことの始まりは2002年の12月。取材記事を書くために作家の森まゆみさんがこの町を訪れ、森さんを囲んでまちづくりの勉強会をしたことに始まる。森さんから文化庁の登録文化財制度についての話を聞いたことがきっかけだ。一本杉通りには何軒もの町家や蔵づくりの建物があるがこうした建物を登録文化財に申請してまちおこしをしてみたらどうか、という森さんの提案だった。
 これまで自らも築100年以上の町家で茶販売業を営む北林さんはこのことを聞いて豹変した。「能登から1軒も申請が出ていないと言うんです。これはもったいないな、と。古くていつ壊そうかと思っていた我が家にそんな価値があるんなら、通りから何軒も登録をしてまちおこしをせんか!となったんやね」
 地元出身の大学准教授で建築史研究者でもある市川秀和さんに調査協力をしてもらい、翌年には通りから4軒が登録文化財として登録されることとなった(高澤ろうそく店、鳥居醤油店、多田邸、北島屋茶店。2008年現在は勝本邸もあわせて5軒となっている)。
 しかし、登録文化財を通りにつくっただけではまちおこしにならない。一本杉通りは古くから商売をしてきた通りだ。お客さまに訪れていただくための仕掛けは何かないか、登録文化財という「点」を「線」としてつなぎ、いずれはまちなか全体に「面」として拡げていかなければまちづくりにはならない。模索は続いた。


「花嫁のれん」があったじゃない!

 登録文化財の登録も見えてきた2003年、この通りの女性たちが、蔵や箪笥の中に眠っていた「花嫁のれん」を探し出し、5月のゴールデンウィークに飾る「花嫁のれん展」をはじめた。
 商店街の仲良し女将さん5人グループの提案がきっかけだ。Oh−God(おー、カミさん)の会と名づけられた女将さんたちが、友人でもある東京の雑誌編集者の女性を七尾の祭見物にお連れした時のこと。この編集者の女性が、祭で賑わう町の民家の部屋にかけられていた1枚ののれんに目を奪われた。加賀友禅で描かれた華やかなのれんに「きれいねえ…あれなあに?」「花嫁のれんやがいね。わたしら、みんな持っとるよ」「結婚式の時に使うもんやけど、なんかめでたいことがあると祭の時も飾ったりするんやわいね」「あんな素晴らしいものがあるなら、もっと活かさないと!」
「花嫁のれん」とは、幕末明治のころより、旧加賀藩の能登・加賀・越中に根づいた独自ののれんのこと。花嫁は加賀友禅で描かれた吉祥模様の美しいのれんを婚家に持参し、花婿の家の仏間の入り口に掛ける。両家の挨拶を交わした後、花嫁のれんをくぐり、先祖の仏前に「これからよろしくお願いします」とお参りしてから結婚式が始まるのだ。
 この時の会話が耳を離れない女将さんたちから、一本杉通りに花嫁のれんを飾ってみたらどうだろう、というのが最初の提案だった。5人だけででも飾ろうとしていたところを町会長は「みんなでしたほうがいい」と町内や通り全体に回覧板を回して協力を募った。女将さんたちも一軒一軒まわって「ぜひ飾って」と呼びかけた。最初の年は32軒、57枚の花嫁のれん展だった。「金もかからないしゴミも出ないし、のれんを吊るだけのイベント。最初はお客さんがくるかわからんかった」と北林さんは語る。
 飾った初日は、まずは町内の女性たちがのれんを見ようと通りをそぞろ歩きを始めた。互いの家や店先を訪れては「きれいやね」「いつ頃ののれんなんね?」と会話がはずんだ。その後マスコミ報道なども手伝って、遠くは富山や金沢からもやってきた。ある女性などは、毎回違った友人を連れて来ては、のれん展ガイドをしていったほどだ。のれんを見に来られたお客さまとの会話のやりとりで、お昼ご飯を食べる暇もないほどの盛況ぶり。女将さんたちは単にのれんを飾るだけでなく、のれんにまつわる物語をお聞かせしたいと、丁寧にお話をしたのだ。


花嫁のれん展から、語り部処のふれあい観光へ

 花嫁のれん展は一本杉通りの商家や民家に毎年約100枚ずつ展示され、のれんを嫁ぐ際に持ってきた女将さんの語り部たちの明治・大正・昭和の布にまつわる物語が人気を呼んで、2008年には期間中に8万人もの方が訪れるイベントに成長した。
 一生に一度の婚礼の時にしか使われなかった花嫁のれんが、箪笥や蔵から出てキラキラと輝きだす。そこにこめられた花嫁の日の華やぎ、嫁ぐ娘を送る親の気遣い、そしてそれにつづく生半可ではない女の一生が、一本杉通りを訪れ、語り部たちの話に耳を傾ける方々に共感を呼んでいるのかもしれない。
 花嫁のれん展の効果は、イベント期間中だけに留まらなかった。年間を通じて一本杉通りを訪れる方が出てきたのだ。「一本杉通りは永らく商売をしてきた通り。それぞれの店の歴史や、商売柄、得意なお話しをしたり、工場などを見せればいいのではないか」と、のれん展の語りで培ったお客さまとのコミュニケーションの楽しさを前面に出していくことになった。「語り部処」の誕生だ。マップをつくり観光施設や温泉旅館にも配付した。
「語り部処」を訪れる観光客は年々増え続け、旅行エージェントも観光コースに入れてくれるようになり、年間3000人を超えるまでになった。一本杉通りだけでなく隣の町会でも「語り部処」をやろうという人も出てきた。当初、13軒で始まった語り部処は、現在、67軒にまで協力者が増えた。


町内の和が訪れたくなる町をつくる

 一本杉町会では、観光客が来られるからと店や自宅の前を清掃する人が増えてきた。町会として「ごみゼロ宣言をしよう!」という声もあがり、通りのごみだけでなく、家庭から出るごみも堆肥化してゼロにする試みも始まっている。「家や店の前の毎日の掃除や通りのごみ拾いだけでなく、そこにあるすべての生活文化が町づくりにとってとても大切なことだと解りました」と北林さんは語る。
 従来の町会活動の枠にとらわれず、周辺の商店街とも連携しながら「語り部処」を広げてきた一本杉町町会。「町に人が訪れてくれるのは、その町内に和があり、楽しく元気で、若者が帰ってくる魅力があること。基本は町のやることを町会の皆さんにすべてを知っていただくことで、一本杉通りでは回覧板が毎日回ってくるほどや(笑)。そのことで、町の皆さんが町の動きを理解でき、すべてを自分のこととして提えることができるようになる。町会に対し、何をすればよいかと考えていただけるようになりました」今日も元気に回覧板が通りを行き交っている。