「まち むら」103号掲載
ル ポ

津波に備え、手づくりの避難路
和歌山県串本町 大水崎自主防災会
 標高約30メートル。雄大な海と紀伊大島が見渡せる高台に、和歌山県串本町大水崎区の避難場がある。この集落は、本州の最南端・潮岬の付け根の東側に位置し、338世帯、692人(2008年12月末現在)が暮らす。平均標高は2・7メートル。地震による津波が襲来すれば、大きな被害が予測される。
 そこで、地区の住民が自分たちの手で、高台に逃げる避難路を造った。その活動は、和歌山県南部の沿岸部の集落に避難路を造る先駆けとなり、行政も動かした。各地の自治体からの視察も絶えない。大水崎自主防災会長を務める堀健一区長にその取り組みを聞いた。
「パチパチとたき火のような音が鳴っていたのが忘れられない」。堀さんは、1946年12月21日の未明に起きた昭和南海地震の様子をそう語る。暗闇に「津波だ。逃げろ」という叫び声が響き渡った。とにかく服だけ着て必死に山手に逃げる堀さんの背中越しに、津波が迫る音がそう聞こえたという。
 波が引いた後、家に帰ると大木が玄関に突き刺さり、海岸からずっと離れた市街地に取り残された船があった。町内では200戸以上の家屋が全壊。死者10人、負傷者104人、行方不明者6人の被害が出た。
 地区のほとんどは、1968年に海を埋め立てて造成された。いまは住宅のほか、病院や警察署、小学校、ホテルなどの大きな施設が建っており、埋め立て地であるとは想像がつかない。
 東海・東南海・南海地質が同時に発生した場合、同地区には地震から9分後に2.5メートルの第一波が、33分後には6.3メートルの最大波が押し寄せ、大部分は3〜5メートル浸水すると予測されている。
 1994年には北海道南西沖地震で被害を受けた奥尻島の町長を招いて、町で講演会が催された。「避難路はいくつ作っても余ることはない。それによって多くの人が助かった」という話を聞いたことが、避難路整備へのきっかけとなった。


自分たちの命は自分たちで守る

 町指定の避難場所である総合運動公園は集落の山側にある。しかし、集落と高台の間にはJRの線路が横断している。町が指定する避難路は地区の西端にあり、東端に住む人が利用するには遠すぎる。「何とか近い避難路を」と、1994年ごろから区長らが町に整備を陳情したが「お金がない」との返事で、いっこうに進まなかった。
 1999年には区の役員で「避難路建設促進実行委員会」を設立。町に働きかけを続けたが、それでも進展はなかった。迫る津波への不安から、委員会は「自分らの命は自分らで守ろう」を合言葉に、区民の手で整備にかかる決意をした。
 当初、区民の間には「どうして自分たちでしないといけないのか。行政の仕事ではないか」という意見もあった。それでも「行政が出来ないのなら自分たちでやろう。費用がかかっても仕方がない。そうしないと、津波が来れば大水崎は全滅する」という危機感があったと堀さん。
 2000年には自主防災会を立ち上げ、避難路整備にかかった。場所は集落から高台に至る湿地帯。JR駅の近くに置かれていた使わない枕木を見つけ、業者に掛け合って譲ってもらった。その枕木を湿地に運んで並べ、その上に角材約150本を並べてクギで固定。仕上げにヒノキ板を並べて打ち付けた。
 アシが生い茂るぬかるみ、電車が通過する合間を見ての作業など苦労の連続だったが、約2年をかけて、幅2メートル、長さ22メートルの避難路が完成した。材料費は約50万円。地区住民がボランティアで作業をしたため、人件費はゼロ。多い時には15人ほどの区民が橋造りにかかわったという。


行政も避難路整備

 手作りの避難路が完成した年、大水崎地区で町長が住民から意見を聞く「出前町長室」が開かれた。そこで町長に整備した避難路を見せ、そこからさらに高台に上がる避難路の整備を訴えた。町は住民の熱意に応え、翌年、工事費約500万円をかけて、住民の避難路から高台に続く33メートルのコンクリート製通路と74.5メートル(157段)の階段を建設した。
 避難路が完成したことで、それまで約15分かかっていた避難時間が約6分で避難できるようになった。町は避難誘導標識や蓄電池式街灯も整備した。住民の取り組みは新聞やテレビで取り上げられ、全国的に注目された。2003年度には防災まちづくり大賞総務大臣賞、2004年度には防災功労者総理大臣賞を受賞した。


避難路完成のその後

 区はその後、約100万円をかけてこの避難路の入り口や、別に農道を利用した避難路も整備。もともとあった町指定の避難路を含めて、今は四つの避難路があり、住民は災害時、最も近い避難路を通って逃げることにしている。湿地帯に通した手作りの避難路は、放置しておくとアシに覆われ、木も朽ちてくる。維持管理は行政に頼れないため、自分たちで朽ちた板を張り替えたり、避難路周辺の草刈りをしたり。万が一の場合に備えて手入れを欠かさない。
 2005年には、県からモデル地区の指定を受け、一人暮らしの高齢者や障害者など災害時に助けが必要な要援護者と、スムーズに避難できるように支援する協力者を記録した「避難台帳」づくりに取り組んだ。賛否あったが、全戸に説明書を配り、登録を希望する人は提出してもらうという方式でまとめた。
 しかし、名簿に登録している要援護者は14人。思いのほか少ない。住民の中には「支援者が自分を助けに来たばかりに2次災害にあうかもしれないと考えると、希望届は出せない」「台帳作成だけでは、援護者対策は万全でない」などの意見がある。それより大切なのは「隣近所の普段からの付き合い」という考えに至ったという。


住民一体で備えを

 自主防災会は、災害時に迅速な対応ができるように、集落を四つのブロックに分け、ブロック長2人と、ブロック長を補助する防災委員を決めて活動している。各地区ごとに避難誘導や消火にあたる体制だ。
「避難路はできたけれど、海寄りの住民はそこまで逃げられない」という声もあったため、より近くの避難場として、地区内の鉄筋コンクリート3階建て以上の建物の所有者や管理者に、津波避難ビルとして使えるように依頼。協力が得られた建物の写真と位置、避難路を示した「津波避難地図」を2006年4月に作成し、全戸に配布した。
 避難後のことも考え、同年7月には町の補助金を利用して高台に防災倉庫を設置。消火器や拡声器、担架、バールなどの資機材を備えている。毎年1回は、避難訓練も欠かさない。自分たちが住む地域の再確認と防災知識の向上を目的に、防災クイズを解きなから歩く「防災ウオークラリー」や、防災情報を盛り込んだ手作りのかるたで学べる「防災カルタ大会」など工夫を凝らし、集落内の交流を深めようと図っている。
 堀会長は「防災活動に万全ということはない。これからもそのことを肝に銘じて取り組んでいきたい」という。いつか来る「その時」のために、地区の備えに終わりはない。