「まち むら」106号掲載
ル ポ

忘れ去られていた古道が、いま人と地域をつなぐ
山口県岩国市 岩国往来まちづくり協議会
忘れ去られていた古道「岩国往来」

 「岩国往来」とは、江戸時代の街道のこと。毛利藩の代官所があった山口県岩国市本郷町から美和町、錦帯橋近くの錦見を通って、船着場のあった今津までを結んでおり、全長約30キロある。1600年の関ヶ原の戦いののち、初代岩国藩主吉川広家の家族と家臣が、出雲国(島根県)から岩国へ来る時に通った歴史的な道である。江戸時代から明治時代にかけては、和紙の原料の三椏(みつまた)や楮(こうぞ)などを運ぶ道としても使われてきたが、錦川沿いに車道が整備され、不便な山道の岩国往来を利用する人が少なくなり、いつしか忘れられた存在になっていた。
 今、その岩国往来が再び脚光を浴びている。その陰には、一人の男性の熱い想いがあった。その人は、藤森勝彦さん。藤森さんは定年退職後、「一里塚」に魅せられた。一里塚は、江戸幕府が日本橋を起点に全国の街道に作った距離を示す目印。一里(約4キロ)ごとに道の両側に土を盛り、そこにエノキなどを植えた。江戸時代後期以降は衰退し、道路の整備などでなくなっていった。
 もともと自然派で、山が好き、歩くことが好きな藤森さんは、古道を歩きながら現存する一里塚があることを知る。旅人は一里塚を見ては「ここまできたか」とほっとしたり、「あともう少しがんばろう」と自分を元気付けたのではないか。一里塚はいろいろな旅人の物語をそっと見守っていたのだろう。藤森さんは、そんな一里塚にロマンを感じるという。ある時、「岩国にも一里塚が残ってないだろうか?」と思った。その小さな疑問が、岩国往来との運命的な出会いをたぐり寄せた。


荒れ放題の古道は、人を魅了する道だった

 山口市の文書館まで行って古地図を見つけ、岩国市内の一里塚を捜した。そして見つけたのが、一里塚が6箇所ある「岩国往来」だった。2005年9月から古地図を片手に仲間と2人で岩国往来を歩いてみた。50年以上も人が入っていない道は、倒木があり竹が生い茂り、橋は腐り、荒れ放題で人が立ち入ることが不可能だった。いったい岩国往来がどこを通っているのか分からないほどだった。ナタとノコで人間の手によって、木を切り、草を刈って人が通れるようにした。生い茂った竹は、道がどこにあるのかわからなくなり、一番厄介だった。1日で100メートルも進めない時もあり、とても困難は作業だった。往来を人一人通ることができるようになったのは、作業を開始してなんと6ケ月後のことだった。草を刈りながら調査した結果、一里塚を3箇所発見した。これはとても珍しいことだ。
 藤森さんは、一里塚を見つけた喜びもさることながら、岩国往来の素晴らしさに心を動かされた。山からしみ出る清流、苔むした木、そして滝まであった。人々が魅せられている他の古道に負けない道だったのだ。
 岩国往来は一応通れるようにはなったが、まだ道幅が狭く、大きな木は倒れたままというような、通れない箇所が沢山ある危険な道だった。また、岩国往来の上にある県道から空き缶、ビン、家庭ゴミなどが投棄され、たくさんの人が歩ける状態ではなかった。そこで、藤森さんは、岩国往来を多くの人が自然を楽しみながら通れる道に再生しようと決心した。あわせて、高齢化が進み問題をたくさん抱えている往来沿いの地域を活性できればと考えた。


地域を巻き込み「岩国往来」を復元

 藤森さんの素晴らしいところは、自分と仲間だけでやろうとしないところ。2006年7月、本郷町、美和町など各地域の自治会やボランティア団体に、岩国往来の歴史的価値や岩国往来を復元することで地域のまちづくりにも役立つことを説明し、ボランティアへの協力を呼びかけた。
 そして、2006年10月24日、岩国往来を復元し、まちづくりを目的とした「岩国往来まちづくり協議会」を設立した。協議会には8団体が参加した。その会則には、「本会は、歴史的な『岩国往来』を復元し、この道に沿った本郷、美和、岩国のそれぞれの地域の歴史、文化、自然を再発見し、それぞれの地域資源を活かした魅力あるまちづくりをすると共に、広く岩国往来をアピールし、まちを活性化することを目的とする」とある。忘れ去られていた古道が、人をつなぎ地域をつなぎ始めた。
 さっそく、たくさんのボランティアが協力して整備に取り掛かった。道の確認をし、チェーンソウで倒木を切り運び出した。草刈機で草を刈り、街道沿いに捨てられた沢山のごみ拾いを行ない、橋を作った。そして、みごと岩国往来は復元された。
 藤森さんは、地域を上手に巻き込み活動を広げた。これは、岩国市ではとても珍しいことだ。なぜそれができたのか? その答えは、藤森さんの人脈の広さだった。行政に同級生がいたり、連合自治会長が会社の同僚だったりといろんなところに知合いがいて友だちの輪が広がっていった。どうして知り合いが協力的なのか尋ねると、「私がイヤな奴じゃあなかったってことかな」といたずらっぽく笑った。


人の交流と地元への還元

 2006年11月には、松尾峠から錦帯橋まで6qを歩くイベントに地元ボーイスカウトが約50人参加。また、本郷町から美和町まで歩く約8キロのイベントには120名の参加があり、史跡と自然を楽しみながら歩いた。
 うれしい出来事もあった。2008年11月に郷一里塚が復元されたのだ。地元の協力で、土地を提供してもらい、みんなで復元した。新たなシンボルが誕生した。また、昔、駕籠(かご)を置いて休憩した「駕籠立場(かごたてば)」も2箇所復元し、往来を歩く人たちの休憩所ができた。
 岩国往来を歩く人には、藤森さんならではの心遣いがある。駕籠立場もそうだが、往来近くの店にトイレを使わせてもらえるようお願いをしたり、休憩に使わせてもらうお寺では、住職にその地域の歴史を話してもらう。また、イベントのたびに、道沿いに地域の人に店を出してもらい、地元の名物の餅や名産品を販売する。この店は、往来を歩く人たちにとても人気がある。ここで、地域の人との交流が生まれ、地域活性へとつながっていく。すべてにおいて、キーポイントは「人」なのだ。
 このような心遣いと、往来の自然の美しさに惹かれリピーターが多い。藤森さんは、地域の人に労力を提供してもらうだけでなく、地域の活性化のためにいろいろな形で還元をしようと考えている。名産品の販売や交流もその一つだ。


みんなで再生した「岩国往来」は無限の可能性をもつ

 2008年3月には、夢街道ルネサンス推進会議から、歴史や文化を今に伝える中国地方の街道として「夢街道ルネサンス」に認定された。これを記念して、2009年3月28日に本郷から今津までを8区間に分けて「飛脚リレー」を行なった。参加者は、4校の中学生60名と地元住民70名の合計130名。当日は、45年振りに錦川の「多田の渡し舟」も復元し、満開の桜や菜の花の中を楽しみながら歩き、各学校や地域が交流をすることができた。たくさんの人が繋いだゴールは、言い表せない感動があったそうだ。
 藤森さんは、「改めて岩国往来の復元の経緯を考えると、まず自分たちの力で人一人歩ける道を作っていたのでよかった」と言う。手付かずの状態で、「まずボランティアありき」で声をかけたのでは地元の人たちもなかなか動けなかっただろう。道がすでにあるから、あともう少し広げよう、もう少し手を入れようという気持ちになったのではないか。
 忘れ去られていた古道が、再び生命を得て、今度は人と人をつなぎ地域をつなぎ、自然と共存しながら夢や感動をもたらす「みんなの道」として無限の可能性を運んでくる。