「まち むら」106号掲載
ル ポ

36年目を迎えたナショナル・トラスト運動
和歌山県田辺市 財団法人天神崎の自然を大切にする会
 自家用車を止め、運転席から降りた玉井済夫さんは、革靴を長靴に履き替え、麦わら帽子をかぶると、バケツに網を手に歩き出した。
「いつ、どこでも自然観察ができるように、いつも車に積んであるんですよ」
 干潮時を迎えた田辺湾に、それまで海中に没していた磯が姿を現した。子どものころから遊び、ときに釣りを楽しみ、数え切れないほどの人に自然の豊かさを説いてきた玉井さんは、細部まで知り尽くした磯を慣れた足取りで先導する。玉井さんが天神崎の保全活動に取り組み始めて、36年を迎える。


突然の開発計画

 和歌山県田辺市の海岸部に位置する天神崎は、田辺湾に突き出した小さな半島である。標高35メートルの日和山を頂点に丘陵をなし、岬のほとんどが照葉樹の海岸林に彩られている。そして、その半島を縁どるように、先端まで平坦な13ヘクタールもの岩礁が広がる。
「満潮時にはほとんど消えますが、干潮時にはわずか2時間の間に200種類もの生物が観察できます。しかも田辺市内の子どもなら遠足などでしょっちゅう来ていて、多くの生き物に触れることができる。魚類はもちろん、貝類や海草類なども豊かな漁場でもあり、ダイビングも楽しめる。誰もが安全に過ごすことができる全国でも稀有の自然なんです」
 海洋生物の宝庫ともいえるこの磯は、黒潮が流れ込む田辺湾、そして半島を彩る海岸林と切り離しては存在しえない。森と磯と海が一体となって豊かな生態系が形成されている。
 1974年、半島の海岸林を切り開き、別荘地として開発する計画が明らかになった。日本におけるナショナル・トラスト発祥の地となった天神崎の保全運動は、この開発計画をきっかけに生まれる。当時、県立田辺高校で生物を教えていた玉井さんは、のちに運動の中心となる故外山八郎さんに「生物学の立場から見て、(この開発計画は)どうなんですか」と問われ、こう即答した。
「たいへんなことになります。山の自然を残さなければ、磯の自然は守れません」


行政による解決を求めて

 田辺商業高校(現神島高校)で商業法規を教えていた外山さんは、すぐに賛同者とともに「天神崎の自然を大切にする会」を結成。1か月で集めた1万6000筆の署名を手に、田辺市と和歌山県への陳情に向かった。
「外山先生はたいへん人格が高く、自然への思いも強い方でした。生徒指導を担当し、いまでいう不登校の子のカウンセラーのようなことをするうちに、問題を抱えた子どもでも、砂浜や森のような自然の中で話を聞くと心を開き、立ち直っていくことに気がついた。だから自然を壊してはいけないと考えたんです」
 天神崎を含む一帯は、「田辺・南部(みなべ)海岸県立自然公園」に指定されている。県立公園なら県が守ってくれるはずだ。会の誰もがそう信じた。だが、天神崎は県立公園の第3種地域。建蔽率の規制さえ守れば住宅建設は可能であり、県が認可しなければ業者は提訴することができる。次いで県の自然保護基金による開発予定地の購入を要望するが、第3種地域には拠出できないとはねつけられる。それならば第1種地域への格上げをと、あくまでも行政による解決を求め続けたが、叶わなかった。
 一方、銀行の融資を受けて土地を購入した業者は、開発に着手できないまま返済に追われ、倒産の危機に陥った。
「そこで外山先生は、銀行に金利を下げてほしいと交渉し、旧大蔵省の銀行局長をしていた教え子に、銀行に金利を下げるよう指導してほしいと訴えた。とにかく、やれることはぜんぶやりました」


市民地主運動に着手

 万策が尽きたように見えたとき、その後の運動方針をめぐって激しい議論が起きる。市民にできるあらゆる努力はしたのだからあきらめるしかないという意見が優勢を占めたとき、ひとりのメンバーが発した一言が流れを変えた。
「もっと他の方法があるのではないか、やれるところまで土地を買い取ろう」
 それがナショナル・トラストと呼ばれる新しい自然保護の手法だということを知らなかったメンバーは、「市民地主運動」と名づけて募金を開始。76年、350万円で開発予定地の一部を買い取り、78年には5000万円で買い足した。募金だけではまかなえず、役員らの立て替え、市内4校の高校教師たちも借り入れに応じた。
「ほとんどの先生がお金を出してくれました。なかには冬のボーナスをそっくり出してくれた先生もいます」
 この活動がマスコミで報道されると、その熱意と行動力が感動を呼び起こし、全国から募金が寄せられた。その後も田辺市内や和歌山市、大阪や東京でも街頭募金を続け、土地を買い足してきた。2004年までの17回にわたって大切にする会と田辺市が取得した面積は約7.3ha。保全目標面積18haの41%に達する。
 87年、大切にする会は日本で初めての「自然環境保全法人(ナショナル・トラスト法人)」に認定された。天神崎は、19世紀にイギリスで誕生したナショナル・トラスト運動の日本での先駆となり、全国に同様の運動を生み出していく。


運動を未来に引き継ぐ

 「大切にする会」では、現在も寄付を集めて買い取りを続けているほか、自然観察会やダイバーによる海底清掃、半島部の森林や湿地の保全などに取り組んでいる。昨年だけでも国内外から45団体、約2000人もの人がこの地を訪れて自然に触れ、運動の経緯を学んだ。
 だが、かつて2000人を超えていた会員の高齢化にともない、会員数は約1000人にまで減少している。しかも、田辺市と和歌山県内を合わせた会員数は約200人にすぎない。結成から35年を迎えた「大切にする会」は、会員の減少という新たな問題に直面している。
 多くの運動は、その目的が達成されていく過程で推進力を失っていくといわれる。新会員が伸びない背景には、先駆的な運動を展開し、多くの人にその名を知られる天神崎は、大切にする会によってしっかりと守られているという安心感があるのかもしれない。
 一方、運動の精神を風化させず、未来に継承しようとする活動は、たゆむことなく続けられている。今年6月には、イギリスのナショナル・トラスト運動を研究している大阪芸術大学准教授の斎藤公江さん制作による映像作品、「日本ナショナル・トラストさきがけの地 天神崎」が完成した。このDVDは、会員拡大への思いとともに、すべての会員と近年の寄付者・支援者に届けられた。玉井さんは、天神崎の自然の豊かさとその保全活動の全容をあますことなく表現したこの作品が、会員の増加につながることを期待している。