「まち むら」110号掲載
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集落に残る文化・伝統を守るために立ち上がったまちの住人たち
岩手県久慈市 山根六郷研究会
ひとつの取り組みを次につなげて流れができた

 自主的活動といえば、直接的に自分たちのことに取り組んでいる例が多い。そういった意味では、この山根六郷研究会は異色といえる。
 会員は久慈市内在住者10人。いわゆる「町方」の住人たちだ。そして活動の対象である山根六郷は、山あいの集落である。当時は市中心部から車で60分、集落の人が町方に買い物に来ることはあっても、町方の人間が集落に行く理由はほとんどなく、交流と呼べるものは存在していなかった。
 そんななか、青年会議所の勉強会が発端で研究会が発足する。あるとき、地域のことを勉強しようとしたが、市などに問い合わせてもそういった資料はなく、それなら自分たちで調べてみようということになった。
 教育委員会の協力を得て歴史、文化、名所・旧跡などをリストアップしてみると、市の文化財等が山根六郷にもあることがわかった。それらを標記した地図「久慈の風土と民俗文化分布図」を昭和54年12月に作成、全戸に配布した。それを地元紙の「岩手日報」が報じた。年の瀬も、会議所の当時の会長・下斗米一男さん(後に山根六郷研究会会員)、委員長・黒沼忠雄さん(同初代会長)の任期も押し迫っていた12月31日のことだった。
 自主学習がここで一段落していたら、今の山根六郷研究会は存在していない。翌日から就任した次の理事長も如才なかった。地図制作を受けて「次は何をしようか」という流れを導いた。相談の結果、「せっかく場所もわかったのだから、写真を撮ってみんなに見てもらおう」ということになり、スライド作りが始まった。


町方にはない暮らしが残っていた山根六郷

 その後、2年間かけて撮影した写真を90分のスライドにまとめ、1年間、市内で上映活動を行なう。その撮影のなかで、メンバーは山根六郷に出会った。
 当時社会は経済が上り調子で、どこもかしこも開発、開発の風潮。そんななか、山根六郷は町方の住民にとって「炭焼きの山」でしかなかった。しかし撮影のために足を運ぶうちに、茅葺屋根の曲り家に暮らす世帯がたくさんあるのを見て、上映会に行って「豆腐田楽」をたくさん食べさせられたりするうちに、町では見ることのない、山根の財産に気づいた。豆腐田楽も、当時、町の住人にはなじみの薄いものだった。
 そうしているうちに、「もの足りない」という感覚が湧いた。それまで「もの」しか撮ってこなかった。人間が写っていない。人を撮りたい。
 早速、人物を被写体にした撮影を始める。するとさらに、山根六郷というところが見えてきた。
 「自分が小さいときに体験した、農家の大家族の暮らしが山根に残っていて、これは宝だと思いました」というのは黒沼さん。すでに「放っておいたら、何年か後に後悔するのではないか」と感づいていたという。だから、とにかく記録をとろうと思った。
 そして昭和58年3月、記録づくりを主たる目的として山根六郷研究会が誕生した。
 黒沼さんの読みは当たった。その後、山根六郷の暮らし方が変化した時期があった。知恵の宝庫のような、魅力的なお年寄りたちも、時が来ればこの世を去っていった。会の発足はまさにギリギリのタイミングだった。


目的を見失わず軸をぶらさず

 日々の暮らしや、山や田畑での仕事を記録する作業は、負担が多いことは想像に難くない。ほんの2、3回行ったくらいでは「記録」と呼べるものにはならないからだ。ましてや、四季折々の行事や農耕儀礼を柱とした暮らしを大切にする日本の文化であり、自然を相手にする仕事である。それぞれの季節に、さまざまな時間帯に、何度も足を運ぶ必要がある。記録者の都合に合わせて行ったら、それは記録ではなく作りごとになる。
 どういうわけか、会員たちは生半可なことでは満足しない人たちが集まっていた。また、ほとんどが自営業で、世の中も経済成長期という状況も有利だった。「仕事を半分以上犠牲にしたこともあったかな」と黒沼さんがいえば、「道楽の一歩手前」と現会長の桑畑博さんも。ゴルフやマージャンに興じる人がいるように、会員たちは山根六郷に打ち込んだ。「それだけ、山根には惹きつけるお年寄りたちがいたのですよ」。時間も労力もかかる活動なだけに、会員のなかでは「まず10年がんばろう」が合言葉だった。
 みんなが開発の方を向いていた時代に「古きよきもの」に気づき、仕事を犠牲にしてまでも活動してきた研究会。失礼ながら、東北の田舎町にそんな気の利いた団体が存在していたことは驚きである。
 「そこまでやらなくても、という声もなくもなかったけれど、ある面では強引にやってきました」という黒沼さんの目の奥には自信がうかがえた。「うまくいったのは、掘り起こす手順を間違えなかったから。若い頃から、会議所関連でも、個人的にも、いろいろなところへ出かけて人の話をほんとうによく聞きました。それが肥料になっていたのです」。幾通りもの教えを消化し蓄えていたから、人を説得することができたし、必要な場面では強力なリーダーシップを発揮することも可能だったのだ。
 組織づくりの作戦も秀逸だった。入会希望もあえて断り、外から応援してほしいとお願いした。波紋を呼びそうだが、人が増えることによって軸がぶれることを警戒した。さまざまな判断は、会の目的を守るため、強い信念に基づいて行われた。


誘導役から補助役へ そして共に生きる仲間に

 むかしから伝わるもの、先祖から受け継いだものを大切に守りながら、静かに暮らしてきた山根の人たちは、もしかしたら研究会の活動に戸惑いのようなものを感じたこともあったのかもしれない。集落ではごく当たり前のことを、わざわざ取り上げようと集落外の人たちがなんだか一生懸命になっている。活動の提案に「今さら…」という雰囲気だったことも。しかし、放置されていた水車の復元に共に取り組み、4月から1月までの毎月、水車を中心としたイベントを開催するうちに、最初はあらゆることに手を貸し、誘導してきた研究会が、いつしかサポート役に回るようになっていった。山根の人たちが積極的に行動するようになったからだ。
 年の最初と最後の水車まつりだけでも40回を超えた。それにもかかわらず毎月500〜1000人、多いときは3000人もの客を集めている。研究会にしてもイベントに来る客にしても、多くの人を長く惹きつける要因、それを黒沼さんは「根っこ」と表現する。根っこを見つけずに上辺だけどうにかしようとしても、一時的にはよくても長くは続かない。桑畑さんも「生き方でも、人でも、何でも、宝を見つけないと」という。
 山根六郷の「根っこ」を見つけた研究会に、長期的な計画はない。それは、構えなくても、ひとつのことが終わると次にやるべきことが見えてくるからだ。
 研究会ができて27年。それまで交流さえもなかった地域の「暮らし」を、集落の人たちと共に生きているといっても過言ではない。会員の家族みんなも山根六郷を好きだという。「共に歩いてきた」そのことばは決して大袈裟ではない。