「まち むら」114号掲載
ル ポ

水車よ回れ、永遠に
福岡県朝倉市 山田堰土地改良区
命の水を送る

 実働する水車として日本で最も有名な福岡県朝倉市の「朝倉の水車群」は、菱野の三連水車、三島の二連水車、久重の二連水車の7基の揚水水車から成る。200年以上前に設置された水車群は、農民が水を求める苦闘の末に生み出した英知の結晶である。
 水輪の回転につれて柄杓に汲み上げられた水は集水樋に落とされ、35ヘクタールの水田へと送られる。江戸時代に建造されてから、歴代の水車大工によって改良を加えられてきた水利設備は、勇壮な意匠と精緻な構造、揚水能力と灌漑面積のすべてにおいて日本の水車技術の到達点といわれる。
 カーン、カーン、カーン。リズミカルな金槌の音が空に響く。田植えを前に、2群の二連水車の建て替えが行なわれている。打ち込まれた竹栓はしなり、複数の部材が固定されていく。巨大な水車の細部にまで大工たちの魂が吹き込まれる。
 作業を指揮する妹川幸二さんは、27歳で水車大工の仕事を引き継いだ。水車の建造は、現場で組み立てるより、1人で静かに木と向き合い、多くの部材を刻む時間のほうがずっと長い。
「この小さな竹栓だけでも700本必要ですから、1日中座って竹を削ります」
 完成した後も仕事は尽きない。建築大工として働きながら、朝夕に7基の水車を点検。不具合があれば即座に修理する。水車が止まれば、水田は干上がる。命の水を絶やさぬよう、26年間、灌漑期には旅行にも出ず、重責を担ってきた。それでも妹川さんはこう考えている。
「自分1人の力じゃできないですよ」
 地元の小学校の求めに応じて教壇に立つとき、水車のしくみを説明した後、必ず子どもたちに伝えることがある。
「水車を造るには、材木屋や鉄工所の人たちの力が必要です。そして、その水車を造るために、たくさんの農家の人たちがお金を出し合っているんです」


水を求める苦難の末に

 江戸時代まで、わずかな水田を除いて茫漠たる原野が広がる朝倉一帯は、くりかえし旱魃に襲われた。なかでも、寛文2(1662)年から2年続いた大旱魃では、多くの人々が飢餓に瀕した。だが、この災苦が地域の未来を切り開く。
 農民たちは苦難の地に生きる宿命を嘆くことに決別し、筑後川の水を引くために立ち上がる。翌年には取水に成功し、用水路「堀川」を開削。灌漑用水を得た150ヘクタールの原野は新田に生まれ変わった。
 水田を増やす努力は、その後もたゆみなく続けられる。ノミで巨岩を切り貫いて筑後川からの取水量を増やし、「新堀川」を開削。5年に及ぶ難工事の末に、筑後川に総石畳の「山田堰」を築造した。一連の大工事により、水田は500ヘクタールに拡大した。
 アフガニスタンで医療活動を行なっている「ペシャワール会」は、この山田堰をモデルに、大旱魃に襲われた同国で灌漑事業に着手。7年がかりの工事の末、乾いた大地は沃野に変わり、いまでは30万人が農業で生計を立てる。江戸時代の朝倉の農民の苦闘が、時空を超え、現代のアフガニスタンの農民を救ったのだ。
 およそ100年の歳月をかけて、朝倉は豊かな農業地帯に生まれ変わった。だが、堀川より高台にある菱野村と古毛村は畑作地帯のままだった。農民たちはふたたび水に挑む。揚水水車を建造し、堀川の水を台地に揚げようと決意した。
 記録によれば、三連水車が完成したのは寛政元(1789)年。同時期に2群の二連水車も建造されたと推定されている。3群7基の水車によって新たに35ヘクタールが開田された。
 ここに山田堰と堀川、7基の揚水水車群から成る一連の灌漑施設が完成をする。この農業遺産はそれから200年を超える歳月に耐え、いまも朝倉市の農家1250世帯が耕作する約660ヘクタールの耕地を潤し続けている。


維持管理費が重くのしかかる

 朝倉の農民が生きるために生み出した農業遺産「堀川用水と水車群」は1990年、文化財保護法に基づく国の史跡に指定された。そのなかでも三連水車は、朝倉市だけでなく、福岡県を代表する観光資源となり、水車が回る灌漑期には全国から多くの観光客が訪れる。
 だが、減反が拡大し、農産物の価格も低迷するなかで、毎年の維持費用と5年に一度の更新費用が、水車を所有する山田堰土地改良区に重くのしかかる。地元の木材で、地元の大工が造る――かつて最も経済的だった水車は、電動ポンプより高価な水利施設に変わった。
 数少ない実働する水車として全国の観光客を魅了し、地元の商工業者を潤してはいても、水車を所有する土地改良区に観光収入が入るわけではない。郷土の誇りを残したいという思いは誰より強くとも、電動ポンプに変えてはどうかという声が上がるのは当然だった。
 5年ごとに7基の水車を建て替えていた山田堰土地改良区では、資金難から、昨年は三連水車だけを再建。そして今年、6年間使い続けた二連水車を建て替え、2年がかりで全7基を更新した。


先人の苦闘を世界の遺産に

「200年を超えて維持されてきた水車を、これから200年先の未来にも回り続けるしくみをつくりたい」
 山田堰土地改良区の事務局長、徳永哲也さんが動き始めた。昨年から、水車存続の基金にするため、5年間働き続けた水車の柄杓や羽根板を加工し、ガーデニング製品として販売。購入者を登録してサポーター制度を創設した。
 また、道の駅「三連水車の里あさくら」は、八女市で製造される水車杉線香を販売し、売り上げの一部を7基の水車の維持のために寄付することにした。館長の徳丸裕明さんはその動機をこう語る。
「水車杉線香が売れるほど朝倉の水車に寄付金が入るこのしくみを通して、日本を代表する八女と朝倉の実働水車を支えていきたいと思います」
 さらに、市内の酒造会社と製菓会社も、商品の売り上げの一部を水車の維持のために寄付しようと名乗りを上げた。
「地域の人たちの協力で、水車を未来に受け継いでいくための経済的なしくみができようとしています」
 こう語る徳永さんは、山田堰と堀川、そして水車群を国連食糧農業機関が創設した「世界農業遺産」への登録をめざすことも検討し始めた。苦難に見舞われるたびに解決策を見い出し、発展の糧としてきた朝倉の人々は、資金難という困難をも乗り越えて水車を未来に引き継いでいくことだろう。