「まち むら」115号掲載
ル ポ

木造仮設住宅を建設し、被災者を支援
岩手県住田町
常識をくつがえした木造仮設住宅

「どうぞお入りください」という声に招かれて玄関に足を踏み入れると、完成から3か月がたった仮設住宅はいまも、すがすがしい気仙杉の香りに満ちていた。東日本大震災に襲われた岩手県南東部の内陸に位置する住田町は、沿岸部の被災者のために木造仮設住宅を建設し、3自治体から入居者を迎え入れている。
 住田町を含む気仙地方は、良質な建材になる気仙杉と、全国に名を馳せる気仙大工の里として知られている。安価な外材の輸入につれて木材価格は低迷し、林業が衰退するなかで、住田町は林業再興をめざして「森林・林業日本一のまちづくり」を掲げる。気仙大工の技術を生かした本格木造住宅を供給するため木材加工団地を整備し、造林から住宅建設を結ぶ一貫システムを確立。木質バイオマスのエネルギー利用にも取り組んでいる。
 町産材の需要拡大を図るため、昨年秋には第3セクターの住田住宅産業が海外援助用の木造仮設住宅キットの開発に着手。その設計図が完成直前、東日本大震災が起きる。多田欣一町長は震災4日後に、仮設住宅の建設を決断した。
「仮設住宅は被災自治体にしか建設できず、発注は都道府県にしかできないことになっていますが、町の単独予算で100棟の建設に踏み切りしました」
 仮設住宅はプレハブという常識をくつがえした地域産材による木造仮設住宅は、広い共感を呼び起こす。音楽家の坂本龍一さんが代表をつとめる森林保護団体more treesが3億円の募金を開始するなど、全国からさまざまな支援が寄せられることになった。


沿岸部の被災地を内陸部の自治体が支える

 あの日、住田町は震災直後に災害対策本部を立ち上げ、隣接する陸前高田市と大船渡市への緊急支援を開始した。給水車の派遣をはじめ、燃料や日用品、毛布や衣類などを被災地に運び続けた。多田町長は次のように振り返る。
「住田町のような小さな町には商店が少なく、物質のストックはすぐに底を突いたので、さらに内陸の遠野市や水沢市、北上市にまで職員を派遣して物質を調達し、被災地に届けました」
 消防団は被災地に駆けつけ、行方不明者の捜索にあたる。町職員や婦人消防協力隊による炊き出しにはのべ510人が参加し、避難所に食事を提供し続けた。さらに、多くの町民が被災した親戚や知人を自宅に受け入れた。その人数は一時700人を超える。食料などの支援物資は避難所にしか支給されないため、町は米をはじめとする食料を購入し、受け入れ家庭に配布した。
 多くの町民がなんらかのかたちで関わった緊急支援は、寸断された道路が復旧し始め、県外からの支援物資が届き始める震災1週間後まで続けられ、震災を生き延びた被災者を支え抜いた。
 5月末、町内3か所に100棟の木造仮設住宅が完成すると、陸前高田市と大船渡市、大槌町の3自治体から93世帯が転居してきた。入居者を迎える多田町長は、職員をこう激励していた。
「入居すれば終わり、ではない。これからがほんとうの支援だ」
 町では総務課内に東日本大震災支援室を設置し、課員6人が通常の業務と兼務で入居者の支援を行なう体制を整えた。保健福祉課では保健師による巡回に加え、週に1回の健康相談会を開始した。
 町外のボランティア団体も入居者の支援に名乗りを上げた。住田町を拠点に陸前高田市と大船渡市で復興支援活動を展開するNPO愛知ネットは、入居者への生活支援にも着手。東京の「仮住まい邑サポート」は仮設団地内のコミュニティーづくりを支援している。


住田を第二のふるさとに

 3団地のうち最大の中上団地は3年前に統合された旧下有住(しもありす)小学校のグランドに建つ。ここでは下有住地区公民館長の金野純一さんが中心となり、地区全体で入居者を支援している。
「戦争中に疎開した子どもにとって疎開先が第二のふるさとになったように、いずれみんなが出て行くときに、下有住に来てよかった、ここでは誰も落伍者がいなかったと、喜んで再出発していってほしい。そのためのお手伝いが少しでもできればと思っています」
 こう語る金野さんは民生委員として保健師とともに個別訪問をして入居世帯の課題を探り、公民館長として入居者の交流を促し、自治会の設立に尽力した。
「隣の人と話さなくても暮らせますが、それではさみしい。団地内のコミュニケーションを活発にするために、通路を隔てて向かい合う7〜100軒ごとに1班とし、班長は1か月交替にしました。1か月なら無理をしてもできますし、その間に近隣の家族とふれあえますからね」
 この地区には野菜の栽培を希望する人のために畑を貸す人もいれば、その畑を耕す人も、野菜などを差し入れる農家も、イベントがあれば豚1頭を解体するという養豚農家もいる。町役場、町民、地区住民、町外のボランティアと、入居者を囲む人の輪が幾重にも重なり、やわらかな支援体制が整いつつある。


再起をめざす入居者たち

 一方、入居者自らも新しい人間関係を結び、生活再建に向けて歩き始めている。13世帯の本町団地に入居した主婦、吉田ミエ子さんは、夫と次女の3人家族。住田町に住む親戚が夏野菜を届けてくれると、近所におすそわけして回り、その野菜を料理し、漬物に漬けたあとにも、1皿のおかずや漬物を近所と分かち合う。そうしているうちに、ほとんどの家族と顔見知りになった。
「しあわせは人が与えてくれるものでなく、自分から扉を開けて手に入れるもの。待っているだけでは来ないから、自分から行動してつかむものだと思うんです」
 同じ団地に住む菅原教文さんは、妻と2人の子どもの4人家族。震災で両親を亡くし、自宅も流された。勤務していた陸前高田市の酒造会社「酔仙酒造」は全壊。57人の社員の7人が命を落とした。
「これ以下はないというどん底から救ってくれたのは、全国の取引先からの応援でした。携帯電話は止まず、支援物資は次々に送られてくる。『禍福はあざなえる縄のごとし』といいますが、失った分だけたくさんのものを得たと思います」
 菅原さんの会社は、一関市の同業者が提供する酒蔵でふたたび酒を醸すことになり、菅原さんは職場復帰する。
 入居者たちは失ったものを嘆くのではなく、残ったものに感謝することで、苦難に襲われた人生をも肯定し、前を向いて歩いている。そして住田町には同じ地域に生きる仲間として入居者を受け入れ、あたりまえのように支える町民がいる。生死を分かつ震災を生き抜いた沿岸部の被災者と、震災直後から被災地を支え抜いた内陸部の住民たちは、木造仮設住宅の建設をきっかけに新しい地域コミュニティーを築き始めている。