「まち むら」138号掲載
ル ポ

限界集落の社会貢献
宮城県石巻市 網地島ふるさと楽好
設立経緯および目的

 網地島(あじしま)は、仙台から車と船で3時間もかかる交通の不便な離島。小学生だけで500人以上もいた時代もあったが、遠洋漁業や捕鯨の衰退により、今ではわずか400人あまりの島となった。高齢化率も約80%で、高齢者が漁業と年金で細々と暮らす島である。特に、網地浜地区は、約100人の高齢者ばかりが住む限界集落だ。子どもは1人もおらず、10数年後には無人となる運命にある。そのため、子どもの大切さや愛おしさを身にしみて感じている集落でもある。
 最も愛情を注いでもらえる親等から、子どもたちが虐待され、辛い目にあわされている事件が、毎日のように報道されている。この集落では、虐待された子どもたちにできることはないかと考え、平成18年に「網地島ふるさと楽好(がっこう)」の開校を決めた。仙台市内の四つの児童養護施設の子どもたちが、島のおじいちゃんやおばあちゃんと、島の食事づくりを行うことにより、本当の家族のように過ごし、島での楽しい思い出をたくさんつくってほしい。そして、将来、自分の家族を待ったときに戸惑わないように、温かな信頼関係を築く練習をさせてあげたいと考えている。虐待に苦しんできたことが分かる、おなかに大きな火傷の痕やたくさんの虫歯の治療痕がある子どもたちも、網地島の夏の思い出をたくさんつくり、屈託のない笑顔で帰っていく。
 島の交流を通じ、子どもたちには、大切にされ、愛される記憶を持ってもらいたい。また、無私の島の人たちの気持ちが伝わってほしいと考えている。そのことが、自分を大切に思い、周りに感謝する気持ちを育て、子どもたちを幸せに導いてくれるはずだ。
 この楽好は、宮城県や石巻市から委託されたものではなく、島の方々が自主的に自分たちで考え、バス代やチャーター船の船代を負担(民間団体の助成金も活用)しながら、毎年開校している。経費を節減するため、海で採れた食材(うに、あわび、ひらめ等)を島民から提供してもらっている。楽好は多くの方々の温かな善意から成り立っている。この善意を子どもたちに「幸せ」として配り続けていきたいと考えている。
 毎年、子どもたちの笑顔を見るために、島のお年寄りがたくさん参加して、獅子踊り、郷土料理づくり(うにの殻剥き、つぶ貝剥き、ひらめのおろし方等)、餅つき、スイカ割り、網地島だけの魚釣りである「アナゴ抜き」、シーカヤックを教えながら交流している。子どもたちの笑顔が、網地島のふるさとづくりを進める大きな原動力となっており、お互いによい効果を生んでいる。

網地島ふるさと楽好の体験メニュー

○島の食事作り
 島のおじいさんやおばあさんは、「島には何もなくて、こんなものしか出せない」と言いながら、たくさんの天然のうにやあわび、とても大きなひらめを出してくれる。うにやあわびは動き出し、子どもたちは不思議そうにいつまでも見つめている。ひらめも、朝捕ってきたばかりで、籠の中で暴れ、子どもたちは大騒ぎだ。児童養護施設では、食中毒を出さないようにと、お剌身等は一切出さないそうだ。ふだん食べられないお剌身を「おいしい、おいしい」と子どもたちはおなかいっぱい食べる。子どもたちはうにが大好き。一人で10個ぐらい平気で食べる。あわびを12個平らげ、あわびの肝までおいしそうに食べた女の子は、「将来、海女になれば、大儲けできるぞ」と島のおじいさんから誘われていた。
 料理を作っていると、子どもたちが「お手伝いさせて」と近寄ってくる。楽しく会話しながら、一緒に料理を作り、みんなで楽しく食べることを網地島ふるさと楽好では大切にしている。
 島の食事作りは手間がかかる。しかし、島のおじいさんたちが海から捕ってきたものをみんなで協力して調理する。つぶ貝は額を寄せ合いながら剥く。手を動かしながら、いろんな話をする。これがとても楽しいのだ。

○お餅つきと流しソーメン
 お餅は杵と臼を使い、子どもたちにも杵でついてもらいながら作る。杵が重いので臼の縁を叩いてしまい、お餅が少し茶色になったりするのはご愛嬌だ。
 流しソーメンは、島にある竹を使い、二つに割り節を削って準備する。みんなでワイワイ言いながら食べる。最後は食事を作ってくれるおばあさんたちの番。「ばあちゃん行くよ」子どもたちがソーメンを流す。楽しい会話が続いていく。

○島伝統の魚釣り「アナゴ抜き」
 島の子どもたちが熱中した魚釣り。針の付いている糸20センチくらいを竹竿の先端に付け、餌は岩場で採れた「えらこ」。岩の下に突っ込んで魚が釣れるのを待つ。本物の漁師が教える魚釣りは指導が厳しいが、子どもたちは自分の力で魚を釣りたいので、真剣にお年寄りの話を聞く。
 釣った魚は浜辺で塩焼きにして、子どもたちにごちそうする。ふだん魚を食べない子どもも、自分の釣った魚となると愛おしく感じるようで、骨までしゃぶるように食べてしまう。

○網地白浜でのシーカヤック
 昔の子どもたちが使った小舟の代わりになる体験。シーカヤックは、海を身近に感じることができる舟だ。子どもたちは、すぐにコツを覚えて簡単に操作する。一人一人が船長であり、自分の判断で操作しなければならないことから、うまくできたときには自信につながる。

○網地島の獅子踊り
 島のおじいさんたちから、島の獅子踊りも教えてもらう。獅子頭はとても重いため、子どもたちが獅子の中に入ると、ヨロヨロしてしまう。そのユーモラスな踊りにみんな大爆笑だ。時々おばあさんたちが派手な出で立ちで登場し、獅子と一緒に踊る。
 太鼓も子どもたちに思いっきりたたいてもらう。初めて太鼓をたたいた子も、自然に笛の音に合わせて上手にたたくことができる。

東日本大震災による閉校の危機〜ガレキで覆われた海を元の姿に〜

 網地島は東日本大震災の震源地に一番近い離島である。2011年3月11日に、宮城県内だけで1万1千人以上の死者・行方不明者を出した東日本大震災の大津波は、網地島を容赦なく襲い、甚大な被害をもたらした。島と本土との海(約4キロ)が割れ海底が見えたほど威力のある大津波だった。港の防波堤や岸壁は徹底的に破壊され、海岸近くにあった家屋や待合所、漁協、漁具倉庫等は、すべて海に引きずり込まれてしまった。幸いにもその日は、ちょうどひじきの口開けがあり、午後はひじきを屋外で下処理していたため、誰も小船で沖には出ておらず、海で命を落とす人はいなかった。また、一人暮らしのお年寄りや足の悪いお年寄りは、住民が手分けして高台に運んだので、網地島では奇跡的に一人の犠牲者も出さずにすんだ。
 しかし、島民の希望や意欲を削いだのは、港や砂浜を埋め尽くしたガレキだった。膨大なガレキに圧倒され、多くの島のお年寄りは、涙も出ないくらいに絶望した。誰もがもう網地島ふるさと楽好は開校できないと思った。
 震災から3か月が経ったある日。児童養護施設の子どもたちから手紙が届いた。「網地島のおじいちゃん、おばあちゃんたちが心配です。また会いたいです」
 島のお年寄りたちは、100通を超える子どもたちからの手紙に励まされ、ガレキの片付けを始めた。来年の夏には、網地島ふるさと楽好を再開しようと、ガレキとの格闘が始まった。ガレキは片付けても片付けても、次から次と海から打ち上げられた。しかし、島のお年寄りたちは、子どもたちが海でケガをしないようにと、一生懸命に片付けた。そして、ガレキの片付けが始まって1年後、網地港と網地白浜は元の姿を取り戻すことができた。網地島ふるさと楽好は再開した。
 観光客は1人もいない海。網地白浜は子どもたちだけのビーチになった。

限界集落の社会貢献
多くの方の応援を得て


 網地島ふるさと楽好は、児童養護施設の子どもたちのプライバシーを守るため、マスコミには一切の情報提供を行わずに開校している。しかし、口コミで情報が伝わり、多くの方が取材や応援に来ている。平成26年夏には、東京大学名誉教授の月尾嘉男先生が網地島ふるさと楽好に取材に来られた。月尾先生から、これは人口減少社会における「限界集落の社会貢献」であると教えていただいた。すばらしい活動であるとお褒めの言葉もいただいた。人口流失に苦しむ網地島にとって大きな誇りとなった。
 平成27年夏には、世界的なバイオリニストの千住真理子さんが、網地島ふるさと楽好を応援するために島でコンサートを開いてくださった。15年前に廃校となった中学校の体育館に美しい音色が響き渡った。本物の芸術に、子どもたちは静かになり感動した。次の日のお昼、千住さんはつきたてのお餅を子どもたちと一緒に食べ、たくさん会話を楽しんでくださった。

網地島ふるさと楽好の願い

 網地島に来たばかりの子どもたちは、緊張してとてもよそよそしい。子どもたちが、島のお年寄りになれなれしくなってくれればしめたもの。それは、子どもたちが島のお年寄りに心を開いてくれたサインだから。辛い思いをしてきた子どもたちに、人から大切にされ、愛される記憶を持ってもらいたい。将来、周りの方々に感謝しながら、自分を大切にしてほしい。そして、自分の家族を持ち、幸せになってもらいたい。
 閉校式では、普段、恥ずかしがってなかなか話さない子どもも、勇気を出して島のお年寄りに感謝の気持ちを話してくれる。その言葉を聞くと、島のお年寄りは涙が止まらなくなる。
 毎年、子どもたちの笑顔を見るためだけに島のお年寄りが積極的に参加している。網地島ふるさと楽好を通じて、限界集落である網地島のふるさとづくりや社会貢献が行われている。