「まち むら」139号掲載
ル ポ

からほり新聞で地域をつなぎ福祉のまちに
大阪府大阪市中央区 NPO法人高齢者外出介助の会
背景〜大阪商人の古き町並みが残る「空堀(からほり)」〜

 空堀という地域は、現在大きな幹線道路、上町筋、松屋町筋、長堀通り、くすのき通りに囲まれた3.6ヘクタールほどの場所だ。その空堀に東西800メートルにわたり「空堀商店街」がある。江戸時代にロウソクを扱う商人の地域から、明治になり電気を使う時代となった頃から、広い敷地に長屋を建て借家業を営む地域に変わってきた。さらに大阪市の中心部でありながら奇しくも第二次大戦時の戦火を免れ、現在も戦前から存在する狭い路地が残り、多くの長屋がある。そのため三代住まないと住民と認められないというほど古くからの住民も多く、路地など高齢者ばかりという地域も。しかし、上町台地に位置した大坂城築城時に、城や町屋の瓦を作るため土をこの地域から掘ったため、坂道(凹凸)が多く、足が弱った高齢者には買い物など暮らしに困る地域となっている。また、商店街は日曜日などシャッター街となり、昔からするとずいぶん人影が減ってしまっているのが現状だ。
 その空堀商店街に今から13年ほど前に「高齢者外出介助の会」の事務所を開き、同地に「からほりさろん」を開設した。ここで、高齢者の支援を通じて商店街を元気に、それにより高齢者のみならず、いろいろな人々が住みやすい町になるお手伝いがしたいことと、たまたま私が小・中学生として過ごした町でもあったが、はからずも拠点を空堀の東側商店街に持った。
 とはいえ、初めからうまくいったわけではない。3階の小さなところで足の悪い高齢者には上りにくく、その当時の町の有力者からは、新参者の団体など受け入れられないという雰囲気だった。そこで、もっと高齢者をはじめいろいろな人が気軽に訪れやすくなるように、建物の1階に事務所を設けたいと願うようになった。幸い、私たちのビジョンに協力してくださる方も現れ、空堀商店街の西端、現在の拠点となっているマンションの1階事務所へと「からほりさろん」を移転することができた。

老若男女ともに心の内を語れる居場所

 1階に開いた「からほりさろん」では「地域の方は誰でも歓迎」、また「通りかかりの人や疲れた人も歓迎」と扉に張って明示している。地域の高齢者が来られたり、ふらりと町歩きを楽しむ方が「話を聞かせてほしい」と立ち寄られたり、「疲れた。休ませて」と入って来られる。また、高齢の方のみならず若い方が問題を抱えて来られたりもする。最近、不登校の小学生が「楽しい居場所や」と言いつつ来るようになった。
 例えば3年前、「ここを通りかかって<話し相手のほしい方>と書いてある。私も来たい」と若いお嬢さんがお母さんと来られ、次の日からほぼ1年近く来られた。また、話からうつ病ではないかと思われた若者が、時々来られていたが、話を通じ元気になって実家に帰って行かれた。また、話を聞く中で「これで生き方が変わると思う」と語る若者もあった。
 このように高齢者だけでなく、老若男女がふらっと立ち寄れることは、サロンが商店街にある良さだと思っている。
 また、サロンで高齢の方々と話していると食事を一人でされている方も多くいると分かり、食事会を毎週開き、1年で四百数十名の方が参加されるようになった。
 夕食も「こんな寒い夜は嫌や。さみしくて声を出して泣く夜もある」と聞き、夕食の集まりを2か月に1度ぐらいのペースで開いている。これも当初は、地域の高齢の方々を対象に始めたものだったが、今では、大阪大学の皆さんや医療関係者、地域の方など飛び入りの参加も多い。昨年は商店街にテーブルを持ち出し路上ビアガーデンを開き、ご近所の方でにぎわった。

ケアする場所がつないでいく〜「からほり新聞」というこころみ〜

 当会が空堀に事務所を開いた時期とちょうど時を同じくして、十数年前から町おこしの若い方々による「からほりまちアート」が始まっていた。アートの活動等でこの空堀商店街が注目され、外から来る人が多くなったのはよいのだが、一方で、外から来た人にいきなり路地をのぞかれたり、ごみのポイ捨てなどで路地の住民が困るといったことを商店街理事長から聞いた。
 しかし商店街としてはいろいろな人が足を運ばなければ、立ちいかない。そこで「従来ここに住んでいる人はもう少し外に心が開けるような、そして外から来られる方には町のルールを守ってもらうような広報誌をつくる」ことを目的に、「からほり新聞」第1号を2002年5月20日に発行した。地域の人が広報を作れば視点が偏る恐れがあるが、外の人が面白く作っても実際に住んでいる人たちの気持ちが外には伝わらない。しかし、当会の立ち位置ならどちらの気持ちにも寄り添う広報ができるのではと考えた。

子どもたちとお年寄りが同じ場所で集うために

 からほり新聞の縁で、この古い町並みの残る空堀を研究対象にされる方も、当会を訪ねて来られる。そのようなとき若い方々の求めに応じ、井戸端会の関係者、空堀で活動している人、町会の役員、関係機関などにつなぐ橋渡しの役目も担っている。
 からほり新聞を通して、近辺の情報や催し、お店紹介、マップで歴史や町情報を流し、空堀の魅力の発信にも力を注いでいる。この縁で府立図書館、大阪市立中央図書館、ちょっと離れた中央区島之内図書館からの要請で新聞を設置いただくとともに、図書館の催し紹介、また子どもたちキッズの関係団体ともつながって、近所の小児科田中医院の先生からの要請で田中キッズクラブ(子育て支援)とも当会のさろんで進めているハーモニカ、折り紙、手縫いの袋物などで異年齢交流を進めている。
 からほり新聞の紙面に、最近の空堀が面白いと住み始めた若者の対談を載せてと依頼があり、若者に紙面をお任せするということもあった。

空堀商店街が元気になるために

 空堀商店街のお祭りにも声がかかるようになり運営に協力している。この春から近辺に大型スーパーが4店舗もできたこともあり、商店街の客足が減っていくという危惧を抱いた。
 そこで商店街が元気になってほしいと、この春に商店街で「ボランティア出会い市」をしたいと、商店街の会長にお願いし了解をいただき、さらに大阪府社会福祉協議会に話をもっていった。そして、中央区社会福祉協議会、大阪市ボランティア情報センター、大阪ボランティア協会と一個人の参加でこの「ボランティア出会い市」のイベントの企画を進めることができた。蛇足だが、この関係機関も「からほりさろん」と十数分の距離にある。当日は、35団体ほどの参加と商店街の協力で楽しい催しになった。参加した団体にも好評で毎年続けたい。商店街側からも賑わっていると感想があった。この機運は数年空堀祭りを実施している空堀商店街の関係者にヒントになったようで、10年の計画で空堀商店街を盛り立てていこうと関係者が計画を練っているところだ。

社会福祉協議会や、他団体ともつながる「からほりさろん」

 からほり新聞の縁で「空堀まちなみ井戸端会」という大阪市と地域共同事業で町並みを守り残していく広報担当理事の要請があり、参加して10年以上が過ぎた。井戸端会に参加したことで、地域でほねおり働いている役員の方々とも友好な関係が生まれた。10年を迎え大阪市が補助打ち切りという方針で、解散をするかどうかの話し合いの結果、継続したいと役員の総意で、当会に事務局を置くこととなった。
 中央区社会福祉協議会のケアマネから「要支援の方でなかなか外に出ないので」と、当会を紹介され話に来られる方や、食事会に来られる方も多くいる。近所の医院でも「からほりさろんを紹介しているが来ていますか。高齢男性に言っているけど」と聞きに来られたりする。また、この「からほりさろん」に来られる方がさらに友だちを誘ったり、「おばあちゃんを、からほりさろんと自宅と施設とで最期まで見守っていきたい」と話す商売人さんもおられる。何度もからほりさろんを観察したあとに、意を決して食事会などに参加されるような方もいる。
 一般に「からほりさろん」を紹介される方は話し相手が必要な方、ひきこもりや見守りの必要な方など。逆に当会から包括支援センターに紹介し支援を受けるようになった方々もあり、ケースの話し合いにも参加し地域の中での活動が広がっている。
 近所の方も小さなお願いや介護の問題、困っていることなどを持ってこられ、速攻で対応できるものだったり、他団体の方がいいと思うものだったりで判断し、地域の他団体、社会福祉協議会などにつないでいる。

人生の最期を安心して迎えられる「夢の家」をつくりたい

 最後にこの町の高齢の方が、皆さん人生の終わりを迎えるときまで、平安に住むことができるよう願い、さらに以下のビジョンを進めたいと思っている。
 そのきっかけは、あるご夫婦が別々に入院され、ご主人は高齢なのでベッドから降りることを禁じられ、退院時は車いすとなりリハビリの病院に転院された。その頃奥さんも骨折したため、自宅に受け入れられず、二人が同じ病院の同室で入院となった。ところがご主人の方は日頃から聞いていた看護と違ったのか転院まもなくして亡くなられ、奥さんは悲しみに暮れることもなくバタバタと息子さんの住む長崎へと転居された。案じたように奥さんの方からは泣いて電話がくることもあった。そこで最期まで自分らしく自宅で暮らせる「夢の家」を建てたいと願っている。高齢の方が、自宅入院のような形で、往診、訪問看護師、親しいヘルパーが関わり、ご近所の方も気軽に訪れる環境で回復すれば自宅に帰れる。こんな支援の形を模索している。商店街の皆さんとも協力し、高齢になりもっと住みやすい町になるよう空堀を盛り立て、ともに歩んでいける町を夢見ている。