「まち むら」139号掲載
ル ポ

草原再生で地域の未来を拓く
岩手県岩泉町 安家森の会
よみがえった草原

 登山口から伸びるブナ林の中の一本道を進んでいくと、急に視界が開けた。青い空の下には、北上高地特有のなだらかな山が並んでいる。岩手20名山に数えられる秀峰、標高1239メートルの安家森(あっかもり)と遠別岳だ。
 裾野には、緑のじゅうたんが広がる。岩泉町の人々が「カヌカ平」と呼ぶノシバ草原だ。この草原は、安家地区の人々が、藩政時代は役用牛としての南部牛を、明治以降は肉用牛としての岩手短角牛を放牧することによって形成された。
 しかし、1980年代に畜産の近代化をめざす北上山系開発が始まり、栄養価が高く、生産量も多い外来牧草を植えた「改良草地」が造成されると、放牧地はノシバから人工草地へと移る。さらに1991年の牛肉輸入自由化を受けて飼育頭数が減少すると、2年後の93年にはノシバでの放牧はとだえた。
 草原にはまたたくまにササが侵入し、ブナやダケカンバなどの幼木が生える。森林化が始まった。高温多湿な日本では、何もしなければほとんどの土地は森林へと遷移する。冷涼な北上高地でさえその例外ではなかった。
 安家地区の人々は、森林化に歯止めをかけるために立ち上がった。草原を守るため放牧を復活させたのだ。多くの登山者を魅了する雄大な草原の風景は、人々の意思によって再生されたのである。

放牧を再開すればいい!

 放牧再開のきっかけは、岩泉町職員だった箱石恵美子さんが安家支所長に就任した17年前にさかのぼる。異動の直後、隣接する葛巻町職員の高家卓範さんから、休牧によってノシバ草原が存亡の危機にあると知らされた。
「このままでは北上高地特有の文化的景観が消えると聞いた私は、それなら放牧を再開すればいいと、単純に考えたんです。たいへんさを知らなかったからこそ、突き進めたんだと思います」
 箱石さんは、当時をふりかえって笑う。安家地区の自治組織、地域活性化協議会の自然部会で検討が始まった。しかし、会議を開くたびに難題が噴出する。
 いよいよ決断を下す最後の会議が開かれた。サポーター制度を提案していた高家さんも隣町から駆けつけ、賛同する人は必ずいると力説した。会費収入で牛の管理人を雇い、牛肉や農産物をサポーターに送ることで地域経済を潤し、交流をはかるしくみは、ふるさと納税を先取りする内容だった。金を出す人は本当にいるのかという不安に、「目標30人のうち最低15人は責任をもって集める」と高家さんが約束し、放牧の再開が決まった。
 なおも課題が待ち受けていた。安家地区の牛は改良草地に放牧され、残っている牛はいなかった。箱石さんたちは夜遅くまで畜産農家を訪ね歩いて、ようやく5頭を確保。2000年8月、7年ぶりに短角牛が放たれた。
 箱石さんは翌年には異動で安家支所を離れたが、その後もいちサポーターとして活動に参加し、「サポーター通信」の編集を続けた。

岩手短角牛を世界が評価

 人は農業ができない土地に牛を放牧して、食料を得る。牛は草を食んで成長し、ふん尿を大地に還してノシバの草原をつくる。ノシバは大地を覆いながら、多くの植物を混生させる。多様な植物は牛の飼料としての栄養価を高め、かれんな花を咲かせてチョウを引き寄せる。草原では、たくさんのいのちが支え合いながら、それぞれのいのちを輝かせている。
 東北農業研究センターが放牧再開前後に行った調査によれば、植物は20科39種から37科136種に増え、チョウは絶滅危惧種を含む5科47種が確認された。放牧の再開は草原を再生させ、美しい景観をよみがえらせただけでなく、生物多様性を豊かにしていた。
 2004年、こうした活動が認められ、岩手短角牛は国際スローフード協会の「味の方舟」に認定された。旧約聖書に登場する老人ノアが、動物を方舟に乗せて大洪水から守った故事にちなみ、未来に残したい農産物を「味の方舟」に乗せ、工業化された食品の大洪水から守ろうとする国際プロジェクトだ。
 本部のあるイタリアで開かれたスローフード生産者会議では、安家森の会代表の合砂(あいしゃ)哲夫さんが活動を発表し、万雷の拍手を浴びた。安家の取り組みが世界に評価された瞬間だった。
 その後、地区の伝統野菜「安家地大根」も味の方舟に認定されるなど、放牧の再開は多くの副産物をもたらした。

持続可能な畜産の未来へ

 昨年8月に岩泉町を襲った台風10号は、安家地区にも甚大な被害をもたらした。合砂さんの自宅も土石流で全壊し、家財道具すべてを失った。そのなかには、1年前に結婚した息子の妻の嫁入り道具も含まれていた。悲しみに暮れる間もなく、合砂さんは災難に対峙した。
「最初は気が張っていて、牛の世話や復旧のために格闘しました。1か月たってからですね、これからどうなるんだろうと、夜も眠れなくなったのは」
 避難所から仮設住宅へと移り、自宅の再建に向けて奔走しながら、生き残った牛の飼料の調達に心を砕いた。今年に入っても、飼料作物を植えるため、畑に積もった土砂の撤去に追われた。
「そんな状況ですから、今年も放牧するかしないか、とても迷いました」
 背中を押したのは、全国にいる100人のサポーターだった。
「10年分の会費を前払いしてきた人もいれば、贈り物はいらないと申し出てくれた人もいます。サポーターのためにも、放牧は止められません」
 困難を乗り越えて、例年より3週間遅れて6頭の牛を山に上げた。
 活動開始から17年の間に、安家地区の過疎化は進んだ。合砂さんが就農した40年前には100世帯いた畜産農家も、14世帯にまで激減した。そのうち後継者がいるのは合砂さん一家しかいない。
 しかし、合砂さんはノシバ草原での放牧が畜産の希望を拓くと信じている。
「あと2〜3年もすれば、この取り組みがより評価され、それにともなって後継者も出てくると思っているんです」
 ノシバ草原での放牧は、過去に戻って景観を復元することではない。生物多様性を豊かにし、地球温暖化を防止するなど、多面的機能が発揮される持続可能な未来の畜産を実現することなのだ。