「まち むら」86号掲載
ル ポ

先人の思いを受け継ぎ、共有の森を守る
長野県長谷村・溝口生産森林組合
産土神は重要文化財

 長野県長谷村溝口区の人々が産土神として祀る熱田神社は、1993年、国の重要文化財に指定されている。なかでも本殿を彩る彫刻の数々は、江戸時代の名匠の技を伝える傑作である。
 「大木が日陰をつくる熱田神社の境内は夏でも涼しく、子どもにはいちばんの遊び場です。しかし、どんなにいたずらをしても、彫刻のところまで登った子はいませんでした。当時は重要文化財に指定されていなかったんですが、あの彫刻だけには手を出してはいけない、子どもながらにそう感じるだけの気迫がありました」
 今年70歳になる溝口生産森林組合の組合長、保科政男さんは、こう話す。
 熱田神社は、ヤマトタケルノミコトが東征の帰途にこの地に立ち寄り、人々を苦しめていた大蛇、オロチを退治した故事にちなみ、後に溝口区の産土神として祀られた。創建は明らかではないが、南北朝時代に詠まれた和歌に登場することから、少なくともいまから650年前には建立されていたと考えられている。
 建立歳記板札によれば、現在の場所に遷宮した本殿は、いまから約240年前の1763(宝暦13)年に5年の歳月をかけて完成した。この遷宮にあたっては、氏子147名が当時のお金で30両あまりを拠出したという記録も残る。5年前に熱田神社の歴史をまとめた溝口区の古老、中山九衛さんは、当時の古文書から涙の出るような先人の心が伝わってくるという。これほどの文化財を、当時わずか150戸弱の区が建立することを可能にしたのは、この区がもつ豊富な森林資源であった。


みんなで守る共有の森

 「熱田神社をはじめとする溝口区の運営は、昔から入会の収入でまかなってきたんです」と、保科さんはいう。入会は一定地域の住民が共同で管理し、利用する林野。溝口区では「にゅうかい」と呼ばれ、その森林は「共有林」といい慣わされてきた。
 共有林は、古くは水田に鋤き込む緑肥、屋根を葺く萱、建材や薪炭となる木材、山菜やきのこなどの供給源として自給自足の暮らしに欠かせないものであった。昭和30年代までは、炭焼きをする人に一定の区画を売り、その収入を区の自治財源としてきた。エネルギー革命とともに薪炭林としての役割を終えると、溝口区の人々はカラマツを植栽し、木材生産に力を注いだ。
 入会からの収入は、一貫して区内の助け合いや公共施設の建設のためにつかわれてきた。たとえば、火事に遭った家にはお見舞いとして10石(3立方メートル)の木材を提供する伝統は、いまも現金にかたちを変えて行なわれている。また、過去に行なわれた熱田神社の改修はもちろん、小学校や中学校、公民館を建てるときにも、簡易私道を引くときにも、財源となったのは共有林からの収入だった。
 そして、その森林の管理には区民が力を合わせてあたってきた。山仕事の報酬は自分の住む区を豊かにすることによって間接的に区民に貢献するものではあっても、直接、私利を満たすことはない。それでも、溝口区の人々はたゆむことなく無償の労働を続けてきた。1973年に溝口区の108戸が生産森林組合を設立し、共有林を組合の所有にした後もその原則は変わることなく貫かれている。
 今年は24年ぶりに熱田神社が屋根の全面葺き替えの時期を迎えた。安価な外国産材の輸入によって木材の価格が低迷するなかで、区がこれまでのように潤沢な資金を用意するのは容易ではない。
 しかし、「いくら国の重要文化財といえども、熱田神社が溝口区民の産土神であることに変わりはありません」と保科さんはいい、「生産森林組合を設立するとき、区は必要な場合には生産森林組合に資金の提供を要望することができ、生産森林組合はその要望に応えなければならないと両方の規約に書き入れました。だから、生産森林組合としては借金をしてでも改修費用を負担したいと思っています」と、区民の信託を受けて共有林を管理する組合長としての決意を語る。


山仕事が地域の絆を強める

 村内の12か所に分散している溝口生産森林組合の森林は273ヘクタールに及ぶ。組合員が協同で森林の手入れや林道の補修を行なう作業のことを「人足」といい、年に6回行なっている。1回の人足は午前8時から午後4時まで。五つの集落から選ばれた役員たちは参加者を増やすために全戸にチラシを配布するほか、前日の夕方と当日の朝に有線放送でも呼びかける。
 人足に出るのは毎回、30人から40人。長野県の指導林家でもある監事長の保科孫恵さんが作業を実演して見せたあと、参加者全員で作業を行なう。
 「若いときにはせっかくの休みはどこかに遊びに行きたい、せめてゆっくり休みたいと思うものです。だれでもそうですよ。でもね、だんだん地域のことや山のことを考えるようになるんです。山仕事だって最初はできないのがあたりまえ。やる気さえあればいいの。だれだって仕事を通して学んでいくんです」
 保科さんがこう話すように、区民は生産森林組合の人足に出ることで、山仕事に慣れ、林業技術を身につけていく。一日かけた仕事が終わると、炭焼き小屋でバーベキューなどの作業慰労を行なう。こうした一連の活動が地域の絆を強めることにもなる。


山に入ること自体が楽しい

 組合では今年、90ヘクタールの境界に境界票をつける計画を立てている。5月1日、組合有林の境界を確認するため、役員による「境界検分」が行なわれた。公民館に集合した7人の役員は、まず地図を開いて山の全体を見渡し、概要をつかんだあと、急峻な山を一列になって登っていく。先頭に立つのは前組合長であり現在も監事をつとめる小松明彦さんと、監事長の保科孫恵さん。ともに70代の二人が足を休めると、自然に全員が歩みを止め、しばしの休憩と
なる。
 「ここに植林するときはたいへんだったと、うちのばあさんがいっていた」
 そんなときには、だれからともなく森林を守ってきた先人の労が披露され、歴史が伝承される時間ともなる。先人から受け継がれた区民に共通する共有林への思いを、保科さんは次のように語る。
 「みんな山に行くこと自体が楽しいんです。人足だって決して強制ではなく、みんなで力を合わせ、楽しみながらするものなんです。だから、用事があって人足に出られない人はせつないっていいますよ。みんなで山をもっている。そう考えるだけで楽しいじゃないですか」
 境界検分が終わりかけたころ、保科さんがみなに声をかけた。
 「さあ、これで今日の仕事は終わり。あとはみんなでタラの芽を探してくれ」
 しかし、お目当てのタラの芽は少なく、この日のメインディッシュは急遽、コゴミに変更された、公民館では宴会担当でもある会計係の田村明英さんが焼肉を用意している。これにコゴミの天婦羅とおひたしができあがり、山への思いを語り合う反省会は夜遅くまで続いた。