「まち むら」87号掲載
論 文

商店街の活性化とまちづくり(第6回)
商店街は“時空の旅空間”夢も売ります
政 所 利 子((株)玄代表取締役)
『昭和の町に』商人の笑顔が行き交う

 誰もが、あの頃の少年少女に帰ることができる街、大分県豊後高田市。
 豊後高田市の中心商店街は、江戸時代から明治、大正、昭和三十年代にかけて、国東半島一の賑やかな町として栄え、昭和三十年代以前に建てられた古い建物が七割も現存することから「昭和」にスポットをあて、「懐かしくいとおしい昭和の街並み」を、再現したまちおこしに取り組み、年間二十万人を呼び込んでいる。
 何故、昭和三十年代人気なのだろうか。経済的には貧しかったけれどほどほどに幸せで心にゆとりがあり、隣近所が助け合いながら生きていたあの頃。「昭和の町」は商人の心、建物の景観、当時のそのままを伝えている。住民たちにとって確かに一時は、バブル期を通じて激動の社会変化に乗り遅れた観は強かったが、変わらなくてよかった確信が、住民の心を捕らえ、人々の共感を呼んでいる。私たちが本音では、とても大切にしたかったはずの「有形無形の暮らしの宝」がここには残っている。


豊後高田“昭和の町”づくり…その過去・現在・末来

 平成四年四月豊後高田商工会議所は、豊後高田地域商業活性化委員会を設置し、プロジェクトは大手広告代理店に依願しスタートした。六十二人のメンバーが中心になり一年間をかけた調査・分析・構築・デザイン等の作業を進め、『豊後高田地域商業活性化構想』は完成したが、バブル経済の名残りを映した重投資型のもので実現は不可能。そのため構想はお定まりの“お蔵入り”してしまったのである。しかし、このプロジェクトに住民が直接関わることで、参加メンバーの「豊後高田市の中心市街地を何とかして、存続させ活気づかせ伝えたい」という切なる思いは共有化され総意となった。実現性と継続性を重視した戦略づくりが必須であることがより明確になり“ふるさと”ヘの愛着を主軸に再スタートをきったのであった。
 それはミニ東京・ミニ福岡・ミニ大分といった複製型のまちでは決してなく、豊後高田市の歴史や伝統と人々の暮らしの思い出が反映された日本のどこにもない『自分たちのふるさとを生き返らせる』まちづくりであり、その熱い思いがまちを動かし始めたのである。これまでは顧みられることの少なかった江戸・明治・大正・昭和時代の庶民文化の資料を調べあげ、時間軸と空間軸を地図の中に入れ込もうと試みたのが『豊後高田市街地ストリート・ストーリー』である。
 商業振興のまちづくりとは文化財保存とは異なり、具体的に商業振興としての経済効果をあげていかねばならない。まちの資源としては城下町としての観光資源もあるが、商業的観光的両面からの戦略で考えると、すでに知名度の高い萩・津和野宿場町の馬篭・妻篭があり、大分県内にも、臼杵・竹田・日田・杵築の名だたる地域が数々ある。そこで、近代の遺産としての大正年間や昭和初期に建てられた旧共立高田銀行、旧共同野村銀行、旧大分合同銀行高田支店、旧高田農業倉庫等の近代産業資源に着目、これらに生活文化を含めた“近代化遺産”をテーマにまちづくりができるのではないかと、近い過去へ目を向けストリート・ストーリー戦略のテーマは絞られ、平成九年三月『身近な過去・昭和』に辿り着いたのである。改めて街を見直してみると、一見古ぼけて汚く不便と思っていた、既存商店街の街並みが、実は昭和の姿をとどめた『まち丸ごと「昭和博物館」』だということに気づくに至ったのだった。


豊後高田『昭和の町』の誕生前夜

 今度は自分たちの手で新聞・雑誌等あらゆる“昭和の情報”を検索、その数は約五百件、豊後高田商工会議所の幅一・五メートルの棚三段となった。メンバーも行政・商工会議所・商業者による三者の協力態勢を整え、商業と観光の一体的視点と戦略を定め、“昭和”をテーマにまちづくり気運は急速に高まっていった。商業者は再生研究会議を結成、自分たちはまず何ができるのかを話し合った。会議には必ず市役所や商工会議所のスタッフも同席し、常に情報交換と風通しの良さを工夫していた。
 やがてその必要性を三者が確認して、中心商店街の店舗・居宅・空地等三百一件を対象に『商店街まちなみ実態調査』を開始した昭和三十五年当時の商店街の“復元”にに向けた“昭和”の検証が1年間かけ行なわれ、消えかかっていた昭和三十年代の様々な業種、業態、業の様が時空を超えて語りかけるように地図に蘇っていったのである。
 商店街の建物は七割近く昭和三十年代以前の建築であることや、高度経済成長期の看板建築によってそれらに上化粧されているだけで、それを取り外せば昭和三十年代の姿は蘇ることが明らかになった。七十五件中九件が平成十三年度に『修景』を名乗り出て、そのうち七軒は平成十二年十一月に「昭和の店、再生拠点化会議」を結成、単に修景整備ではなく商いの基本を見極め、昭和三十年代の歴史や商品、商業の基本に立ち帰り、商人再生についての検討もはじめていた。こうした経過を辿り“昭和”の旗印の下に“昭和三十年代”を中心主軸として、豊後高田中心市街地が息を吹き返したのである。


終わりなきまちづくり 未来へのステップ

 昭和三十年をテーマに再生物語を編み始めた豊後高田市は、これからのまちづくりの未来像を形づくるために第二ステップそして第三ステップヘの歩みを進めている。
○第一ステップ…お客様お迎え戦略概要
・総延長五百メートル・全店舗百件の商店街を一年十軒ずつ段階的に昭和へ再生
・全五棟構成の旧高田農業倉庫を“昭和の町”の象徴施設として“昭和ロマン蔵”に。昭和の駄菓子屋コレクターの心を揺るがし、コレクションを誘致。段階的に再生
・営業中の生き店舗六十軒は土着部隊で、空き店舗四十軒と旧高田農業倉庫は、主に外来部隊により機能的に再生
・外来部隊は観光客を照準に昭和をアピールし、土着部隊は観光客のみならず生活客を照準に、日常性と利便性を確保再生
・商業と観光の一体的振興の鍵は、昭和の建築と歴史(一店一宝)の展示と商品(一店一品)販売と商人の再生を推進
○第二ステップ…お客様お誘い戦略概要
・生活客でもある住人自らが、観光客の案内をする“昭和の町”ご案内人方式で、ハード未完のまちづくりをソフトで補完
○第三ステップ…お客様お誘い・お迎え組織概要
・商人・行政機関・住人・調整機関(商工会議所)個人の力を、マネージメント・システムに束ねて第二の奇跡企画を検討中
 横浜ラーメン博物館や門司レトロしかり何故に“昭和三十年代”が人気かと繰り返し問えば、高度経済成長政策がスタートする前後の時期だということがポイントのようである。これ以降の急激な経済活動によって、破壊された人の心と街の魅力を再構築する時期にある今、一過性でない答えを求め始めたとは言えないだろうか。首都圏と同様地方都市も街並みへの喪失感は大きく、「貧しかったけれど心の豊かさを失ってはいなかった時代」を懐かしむ昭和のブームがゆっくりと人々の心に広がりつつあると言える。
 “昭和”を懐かしむ潮流は、もちろん商店街の栄光の時代への回帰ではなく、あくまでも商いの原点を問い直し、街の個性を取り戻そうとした、根底からのふるさとづくりへの第三幕の開幕と言えるようである。