「まち むら」92号掲載
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点から線、そして面へと広がる環境浄化活動
鳥取県米子市・彦名地区環境をよくする会
 「中海は『富栄養』という成人病に苦しんでいる。放っておけば合併症にかかり、死に至る」
 鳥取県米子市の「彦名地区環境をよくする会」会長の向井哲朗さんは、環境保全の出前講習会でこのフレーズを繰り返してきた。
 鳥取県と島根県の県境に位置する中海は、海水と淡水の交じり合う日本有数の天然汽水湖。国は一九六三年、中海と島根県の宍道湖の一部を干拓して農地を作り、農業用水のために淡水化する大型開発事業に着手した。しかし、水質悪化の懸念から住民による反対運動が起こり、二〇〇二年に事業の中止が正式決定した。中海は、コハクチョウやカモ類など水鳥の集団飛来地でもあり、〇五年十一月には、国際的に重要な湿地として、宍道湖とともにラムサール条約の登録湿地に指定された。
 一方で、中海の水質はこの半世紀の間で急速に悪化した。原因は湖岸から流入する生活雑排水。湖の富栄養化が進行することで湖底の底質が悪化し、高水温期に底層の溶存酸素が欠乏する「貧酸素化」が発生、深刻な問題になっている。貧酸素化現象は湖底の生物にも悪影響を及ぼす。


泳げる中海を取り戻すために

 中海のほとりで育った向井さんは「昭和二十年代末までは中海で毎日真っ黒になって泳ぎ、青竹の釣竿でセイゴやメバルが面白いように釣れた。三十年代以降は水泳ができなくなり、四十年代には汚濁が進行して魚介類や海藻類も少なくなった。五十年代には赤潮が多発するようになった」と回想する。
 「彦名地区環境をよくする会」は、中海に面した米子市彦名地区の約千五百世帯による自治会組織。「泳げる中海を取り戻す」ことを活動目標に、同会から派生した小学生によるエコクラブ「彦名地区チビッ子環境パトロール隊」とともに、十五年前から中海の水質浄化のためのさまざまな活動を行なっている。
 会の主な活動は、▽環境新聞「中海」(B4判)の発行▽パンティーストッキングなどを用いた台所の食べかす流出防止作戦▽環境標語の募集―など。アンケート調査では、彦名地区のおよそ八割の世帯が、何らかの水質浄化の実践行動をしていることが分かっている。
 会が本格的に始動するきっかけは一編の論文だった。一九八八年に鳥取県が募集した「郷土への提言」に、向井さんは中海を汚す生活雑排水の浄化策を書き連ねて応募し、知事賞を受賞した。「論文の内容を実践しないと意味がない」と考えた向井さん。自治会の協力を得て、地区で講習会を開いたのが始まりだ。


数々の生活雑排水浄化作戦

 向井さんは出前講習会で、古いパンストを台所の三角コーナーにかぶせて、食べかすが排水口に流れないようにする方法を紹介する。三角コーナーを用意して味噌汁を流してみる。パンストをかぶせた場合と、直接流した場合の汚れを比較してもらうと、パンストの浄化効果は歴然。お酒や牛乳を飲んだ後の器に水を注ぎ、メダカを入れると、みるみる弱っていく。「私たちの出す排水がこんなに生き物を苦しめているんです」。視覚に訴える“向井流”の講習会に、参加者はいつも顔色を変える。
 講習会を何度も開催すると、次第に中海の環境問題に関心を持つ人が増えていった。各戸が米のとぎ汁を排水口に流さずに庭木にまく、汚れた食器は紙でふいてから洗う、割りばしは洗って再利用する―。今では地区のほとんどの家庭で実践されている。古くなったてんぷら油は地区の集会所や公民館で回収し、市内の製紙工場に持っていき、焼却 処理してもらう。
 会は八九年から環境新聞「中海」を月一回発行し、彦名地区の全戸に配布。パンスト作戦など具体的な実践方法とその効果などを紹介し続けている。「中海」の発行は一月も滞ることなく、二〇〇四年五月には二百号を突破した。
 会以外にも彦名地区に水質浄化への取り組みを広げた立役者がいる。向井さんが一九八九年から編制している「彦名地区チビッ子環境パトロール隊」だ。
 毎年、地区の小学生を対象に隊員を募って、町内の環境パトロールやメダカの生息調査、中海の湖上観測などを通じて、子どもたちに環境への意識を深めてもらうのが狙い。観測結果や子どもが感じたことは作文にして環境新聞に掲載する。
 環境パトロールでは、「川に米粒が流れていないか」「タバコの吸い殼は落ちていないか」などの二十項目をチェック。項目ごとに五点満点で採点する。父母を対象にしたパンスト浄化作戦の講習会や、使用済み割りばしの回収、エコクッキング教室の開催など隊の活動の幅は広い。


子どもを通じて大人の行動を変える

 彦名町の足立さん一家は、長女の智美さん、長男の匡広君、次女の裕美ちゃん、次男の研君の四人の子どもがパトロール隊の隊員を経験している。
 匡広君は、二〇〇四年六月に米子市内で開催された国際環境会議「エコアジア2004」で、各国の隊の活動を各国の環境大臣らに紹介。中海の汚れは生活排水であり、一度汚れた水を戻すのは困難であることなどを訴え、韓国の環境省副大臣は「報告に大変感銘を受けた」と、隊の活動を絶賛した。
「いつか中海で泳いでみたい」と語る智美さんは、隊を卒業した今でも、中学校のエコクラブで活動を続けている。裕美ちゃんは、ダイコンの皮など普通は捨ててしまう食材で料理を作るエコクッキング教室がお気に入りだ。研君は、近くの川で捕ったメダカを大切に育てている―。
 隊の活動で水質浄化の大切さを学んだ子どもたちは、家に帰って親や近所に体験したことを話す。子どもの言うことには自然と地域の人も耳を傾けてくれる。向井さんの理念はパトロール隊の子どもたちを通じて地域に伝播した。隊の設立当初は四十七点しかなかった環境パトロールの総合点数は、三年後には七十点にまで向上したという。
 実際に、今でも水質浄化に取り組む隊の卒業生がいる。市内の保育園で働く、一期生の鷲見知子さんだ。米のとぎ汁は庭木にまき、食器は洗う前に紙で拭くことが習慣になった鷲見さん。園児には、牛乳パックやペットボトルを再利用したおもちゃを作り、家では割りばしを洗って再利用するように教えている。「『昔は中海で泳ぐことができたんだよ』と聞いて、子ども心に驚いたのを覚えています」。鷲見さんは、子どもの頃から環境保全への意識を植え付けることの大切さを強調している。
 向井さんは「点から線へ、線から面へ」という表現を好んで使う。活動が浸透したとはいえ、環境をよくする会とパトロール隊の活動は、彦名地区が中心。泳げる中海を取り戻すためには、中海に面した四市一町の全ての地域に、共通の理念を広げる必要がある。
 「講習会に五十人が来て、その中の一人でも話を聞いて実践してくれると、昨日よりも確実に中海の環境は良くなっている。小さな積み上げが大きな力になる。次代を担う子どもたちと一緒に活動することで、それが学校に、地域に広がっていく」。向井さんは現在、県外にも足を運び、出前講習会を開いている。点は線に、そして面ヘ―。一編の論文から始まった水質浄化の取り組みは、今や大きなうねりになりつつある。(日本海新聞西部本社報道課・井上昌之)