「まち むら」92号掲載
ル ポ

地域の総力で再建した水車
愛知県岡崎市・夏山町地区
 こっとん、こっとんと米を搗く音が一年中、聞こえていた。休止している水輪を回して遊んだ。冬になると、水輪の回転を止めるつららを割った。なつかしく思い出す子ども時代の、どんな場面にも水車がある。宇野博さんの心のなかで、水車はずっと生き続けていた。再建を思い立ったことも一度や二度ではない。念願が叶い、六年前に地域の力を合わせて再建した水車は、いまも母校の子どもたちが使い続けている。


小学校は地域活動の拠点

 愛知県岡崎市夏山町地区は、夏山川に沿って形成された五つの集落から成る。その中心に建つ夏山小学校は、地域活動の拠点でもある。
 夏山小学校は児童数四十七人、教職員数十四人の小規模校。しかし、地区の約百七十世帯八百人の全員が子どもたちの成長をあたたかく見守り続けている。全世帯がPTA会員となり、年間四千円のPTA会費も払う。かつては給食のガス代も全世帯で負担していた。山間にある十八世帯の集落、寺野に小学生はひとりもいない。それでも、
「PTA会費を集めに行っても、いやだっていう人はだれもいないですよ」
と同集落の天野邦夫さんはいう。
 大人たちは校庭の草を刈り、学校田や学校農園での栽培を指導し、授業やクラブ活動にも協力する。運動会や学芸会などの行事にも地域の人が参加して、にぎわいを添える。そんな夏山町地区の特性を、教務主任の荻野真市さんはこう語る。
 「炭焼きや野菜栽培など特技をもつ数人が授業などに協力する地域は多いですが、夏山町のように地域全体が学校に協力する地域は珍しいですね。少なくとも私が赴任した学校では初めてです」
 造園業を営む宇野博さんは、その技術を生かして校庭の整備を続けてきた。校舎の新築にともなって整地されたとき殺風景だった校庭は、もみじの木に囲まれた大きな石のテーブルや、校舎と校庭の斜面を結ぶ階段など、宇野さんの造園の技で見違えるようになった。
 校庭を取り囲むように流れる夏山川の対岸には、「夢山」と名づけられた学校林が広がる。ここで朽ち果てようとしていた水車小屋を、子どもたちは「幽霊屋敷」と呼んでいた。


水車米が食べたい

 かつて夏山町地区では米と麦の二毛作を行ない、畑では稗や粟も栽培し、収穫した穀物はみな水車で搗いていた。共同で水車を造る家もあれば、一軒で「ポットリ」と呼ぶスプーン型の唐臼を使う家もあり、その数は三十基を超えていた。しかし、精米機が普及するにつれて、一軒、また一軒と水車を使う家は少なくなり、台風で流されても再建されることはなくなった。流出を免れた幽霊屋敷は、夏山地区に残った唯一の水車小屋だった。
 一九九八年、当時六年生だった宇野さんの次女、理沙さんがこの水車小屋に関心を抱き、授業時間を利用して調査を始めた。小屋のなかには一度に一俵(六十キロ)の米が搗けるよう、一斗(十五キロ)搗きの臼が四つ残っている。明治時代に八軒が共同で造ったこの小屋は、六八(昭和四三)年まで利用されていたことがわかった。
 「娘に水車の思い出を話した記憶はないんです。ただ、当時、私はソフトボールを教えていて、よく水車小屋の横を通って、夢山の奥の山にある神社まで子どもたちを走らせていたので、娘が関心をもったのかもしれませんね」
 この調査をきっかけに子どもたちは高齢者から水車の思い出を聞き始める。誰もがあふれるような水車への思いを語り、「水車で搗いたお米はおいしかった」となつかしむ。水 車米を食べてみたい。子どもたちはそう願うようになった。


水車を再建しよう

 子どもたちの願いは、水車への愛惜をもつ大人たちの心を揺さぶった。子どもたちの夢を実現させよう。大人たちはすぐに小学校に集まり、水車の再建を決めた。資金のあてもなければ、設計図もない。ただ水車を再建しようという思いだけで走り始めた。
 宇野さんは所有する山の木の提供を申し出ると、仲間と山に入り、伐採した丸太を搬出した。その木材は宇野さんの姉の嫁ぎ先の製材所が製材してくれた。翌年七月に古い水車小屋を解体し、基礎工事、水車小屋の建設、水路工事、水車や樋の設置と、作業のたびに参加者は増えていった。子どもたちや教職員も地域の人といっしょに汗を流した。
 作業が終わってからの慰労会では焚き火を起こしてするめを焼き、お酒を飲みながら、次の作業の段取りをした。計画当初から参加した宇野さんの親友、天野さんはこう語る。
「募金活動なんてしなかったのに、これを使ってくれと、材料やお金を寄せてくれる人がたくさんいました」
 これに町と区から寄せられた助成金を加えると約五十万円になった。あとはみな地域の人が持てる資材や技術を出し合い、四か月で水車を完成させた。当時、建設中だった体育館を設計した建築士に見てもらうと、「これだけのものをつくるには少なく見積もっても三百万円はかかる」と驚きを隠さなかった。


「昔」は子どもの未来像

 それから六年がたち、再建当時を知る在校生が巣立ったいまも、五年生が学校田で栽培した米を、全校の子どもたちが学年ごとに水車で搗く。水車当番は、登校すると「しょいこ」に米を乗せて水車小屋に運び、水路を流れる水の量を加減して水輪の回転数を調整する。子どもたちが授業を受けている間、こっとん、こっとんという水車の音が夢山にこだまする。搗きあがった米は放課後に校舎に運び、ふるいにかけて米と糠を分ける。
 磨ぐ手間さえ省ける無洗米が売れる時代に、子どもたちは精米の過程が楽しく、水車の動きや音までもが好きだと声をそろえる。地域の人々を招いて開かれる行事や給食で水車米がふるまわれると、子どもたちは競っておかわりを求める。
 「子ども時代の思い出である水車がある。そう思うだけでも心が安らぐのに、使ってもらえるとは思っていなかった。いまも子どもたちに使ってもらえてうれしいですよ」と宇野さんは目を細める。
 水車の何が子どもたちの心をとらえるのだろうか。四年生の社会科の授業で、講師に招かれた黒屋芳夫さんの話に聞き入る子どもたちの目の輝きに、その一端を見たような気がする。
「水車を造るときはお金や材料を出し合い、水路の補修や簡単な大工仕事など自分たちでできることは何でもやり、みんなで助け合って水車を使ったものです」
 地域の自然が与えてくれるものを巧みに利用し、自らの知恵と技術で暮らしを築きあげていた昔を、黒屋さんは懐旧とともに語る。それは子どもたちが漠然と思い描く自然と共生した地域の未来像に具体的なイメージを与え、心をわきたたせる。水車はそのシンボルなのだろう。
 毎年のように修理を施してきた大人たちは昨年、水車小屋の屋根を葺き替えた。その小屋では今年もまた、子どもたちが学校田で栽培した米を精米する。(フリージャーナリスト・佐藤由美)