「まち むら」92号掲載
パネルディスカッション

被災体験をコミュニティづくりにどう活かすか
平成17年度あしたのくらし・ふるさとづくり全国フォーラムin兵庫から
 去る11月18・19日、兵庫県淡路市で「あしたのくらし・ふるさとづくり全国フォーラムin兵庫」が開催され、阪神・淡路大震災と新潟県中越地震の経験を踏まえて「被災体験をコミュニティづくりにどう活かすか」をテーマにパネルディスカッションが行なわれた。このなかで「地域の中で課題を共有するために、老いも、若きも、男も女も、外国人も、月に一度は、みんなで意見を出し合う、柔らかい場をつくり、そして“面識社会”にしよう」という提案などがあった。パネルディスカッションの概要を紹介する。(文責・編集部)
パネリスト
 河 合 節 二 (兵庫県・神戸市野田北ふるさとネット事務局長)
 楓   るみ子 (兵庫県・南あわじ市おはなし会ピノキオ代表)
 関   良 策 (新潟県・あしたの新潟県を創る運動協会副会長)
コーディネーター
 中 川 幾 郎 (帝塚山大学大学院法政策研究科教授)
中川 最初に、「これだけは言いたい」という点から発言をいただきたい。


隣近所が仲良くするのが防災活動の根幹

河合 私たちの地域は、木造密集地域で、高齢化率が高く、災害に弱いと言われていた。阪神・淡路大震災では、ほとんどの家が、焼失、倒壊した。しかし、今日、街がようやく元に戻ってきている。地震の発生後、すぐ救助活動ができたが、これは、顔の見える関係になっており、「普段から隣近所が仲良くするのが防災活動の根幹」と考えている。
 復興では、行政とも話し合いをしていかなければならないが、コミュニティの強いところは、行政との交渉事がスムーズに進み、復興も早くなった。エゴ丸出しでは駄目ということである。
 震災で壊滅的な状態だったが、すべての事業で先頭を切ったお陰で、今では、街並みがそろうようになった。
 コミュニティ活動をさらに強化し、日常の活動を非日常に活かし、非日常の経験を日常にとり戻す活動をさらに深めていきたい。
中川 エゴ丸出しでは駄目というのは、コミュニティの中で調整能力を持つことが必要であるということだと思う。そして、日常の中で、非日常の災害を取り込んだまちづくりをしないと災害に太刀打ちできないという話だと思う。
 日常生活に密着した地震に強いまちづくりをみんなと一緒に進めていかなければならないと思っている。しかし、地域の人の反応は、津波がきても「ここまでしか水はこない」から大丈夫という感じである。それでも、いざという時に対応できるように、十年間活動をしてきた。
 被災地にインタビューしたので、その中から申し上げたい。第一に、被災者であっても被害者ではないということだ。被害者というのは、県や市町村の行政の対応が悪いという気持ちを持っている人。被災者は、そういう気持ちをほとんど持っていない。
 次に、地域で声をかけることの大切さを実感した。川口町は、震源地であったが、火事には、みんなで消火活動を行ない、「おばあさんが家の下敷きになった」という連絡に救助に向かう。
 集落のわずかな人数があっち、こっちと駆けずり回り救援活動を行なった。そして、その一つ一つが終わると「なにしょ(私はなにをしたらいいのか)」とリーダーに問う。この言菓はリーダーにとっては、うれしかったという。これこそコミュニティだと思ったという。
 そして、自立ということだが、「自己完結」のなかだけの「自立」は難しい。お互いに依存し合う、関係の豊かさの中にある自立が、大切であるということを痛感した。
中川 「関係の豊かさの中にある自立」という発言があったが、個人の自立は、自由主義、個人主義の精神だが、これだけでは限界があるということを示している。「私は、みんなのために何かできるか」ということを今回の震災が教えたということだと思う。
中川 行政の立場ではどうかを発言させてもらう。大震災の時は、大阪府豊中市の広報課長だったが、地震が起きて役所に駆けつけたのが七時前だった。五階建ての建物の基礎柱の四本のうち三本までひびが入っていた。三階から上の窓ガラスは、粉々に割れ、机、パソコン、戸棚などがぐちゃぐちゃで、足の踏み場もない状態だった。職員への非常呼称で、その日に集まったのが、四分の一強。電話もつながらない。三日間は再起不能と思った。一週間くらいからようやく五割以上の動きとなった。初動期、役所は頼りにならない。
 後で分かったことだが、自治会・町内会の役員たちが―自分たちも被害を受けて大変な状態なのに―被災者のために炊き出しを開始し、避難所を経営していた。これで行政は助けられた。
 災害の一番バッターは、コミュニティだと痛感した。二番は個人のボランティア、三番は災害救援を組織しているNPO、四番目にやっと行政というのが普通である。初動期には行政は無力であり、中盤から復興期に威力を発揮する。


「われわれは、生きとるぞ」―生存情報を流す

中川 救援活動のあり方、自立復興におけるコミュニティの役割、被災体験を活かした防災対策などについて話をしていただきたい。
河合 地震直後、地域には火災が発生していたが、地域で対策本部を立ち上げた。そして、区役所に自転車で行き、「駅前に本部を立ち上げたから」と報告した。電話も自動車も使えない。火災が広がり、家の下敷きになっている人を助ける。こうしたことをしながら、行政サイドに生存情報を流す。
 初期の段階は、小・中学校や公民館などが避難場になっているが、そこの情報が行政に伝わらないと、物資が配れない。リーダーが考えたのは「われわれは、生きとるぞ」ということを発信することだった。結果、その日のうちに物資が入った。コミュニティが豊かであると、地域の人がどこに避難しているかが分かる。「あっちの小学校」「こっちの中学校」にと物資が配られた。
 「私はここにいる」という情報を出していかないとほったらかしにされる。
 被災者は、日常的に認知が高い空間に避難する行動が確認されているので、地域の防災能力向上のため、地域内の空間認知を高める仕組みづくりとして、風土資産を活用した健康づくりを実践している。地理の理解を深めることを狙いに、地図上で写真及び風土資産までの距離をしめし、日ごろの健康と防災への意識を高めている。


全員に渡らない食料は配れない

中川 大震災の時、ブルーシートを配る仕事をしたのだが、壊滅戸数が多いので、手持ちでは全戸に配給できない。早い者勝ちというのもおかしい。公平にするために配るのをやめるべきだという考え方がある。食料配給でもそんな考え方があり、これについてどう思うか。
河合 避難所などで全員に渡らない食料は配れない。
中川 「情報を出さないほうがわるい」「情報を出さないとほったらかしにされる」ということからどうなるか。
河合 われわれも情報を集めるために動く。
 各避難所や倒壊家屋に連絡先がある場合には、どこにいるかを把握した。そうしないと、行政の情報が入らなくなる。情報を自分で出さない人に限って「聞いてない」と文句を言ってくる。
中川 避難住宅への入居も順番をどうするかで行政は苦しんだ。困っている方を先に入れるか? そのルールで入ってもらって、後で近所の人間で固めるべきではないか、コミュニティを壊してしまったという批判を受けた。「公平」「平等」というだけのルールでは通用しない時代だ。避難住宅への入居は、地域の特性を活かしたものにする、みんなが納得できるものにすることが重要だ。
 地震直後の四十八時間では、先ほどのご指摘のように、行政、警察、消防も来られない。このため地域の人たちがどう取り組むかということになる。市町村が指定している避難所で天井が落ちて入れないところがあった。そこで、ビニールハウスやテントを張るなどして避難所にしていた。一箇所だけでなく、複数の避難所を想定しておくことが必要だ。また、不在や体が弱いなどで対応できない会長がかなりいた。
 会長が不在の場合は誰がリーダーとなるかも考えておくべきだ。
 避難する場合には、全員が避難したか確認する必要がある。消防団が一軒一軒回って確認しているところもあった。長岡市では、「避難しました」と玄関に旗を立てることにした。
 自家用車に寝泊りする人が多かったが、どこに駐車するかが問題になったが、スーパーが駐車場を関放してくれた。食料品も出してくれ大変協力的であった。都市部では、こうしたことが可能だった。
 仮設住宅へ入る順番では、阪神・淡路大震災の教訓を大いに活かした。集落単位ごとに入る、仮設住宅はできるだけ被災地に近いところにつくろうということだった。また、今後の防災訓練では、一軒一軒に声をかけるなどの訓練が必要と思う。


見守りとプライバシーのバランス

中川 都市部では、見守りとプライバシーのバランスをどうとるか、ということがある。
「奥さん、お米かして」というような近所付き合いをしている人がどのくらい残っているのか。
「隣りは何をする人ぞ」のほうが、気が楽だ。
 しかし、コミュニティは、それでいいのか。コミュニティが回復したら、密接な人間関係に耐えられないということはどうなるだろう。かといって、災害で死にたくない。このバランスがあるではなかろうか。
会場から 「高齢者の住まいマップ」をつくろうと民生委員に相談した。丸秘事項なので教えることはできないという回答だった。これに対してよい案があれば。
中川 自治会などで相談して、「公開していい」ということになれば実行可能だと思う。しかし、民生委員という行政関係者に相談すると、こういう答が返ってくるのでは。
会場から 県外のボランティアが、被災地に行ったときに、どんな準備をしていったらよいか。
河合 私たちの地域では、救援基地を震災直後立ち上げ、ボランティアの拠点ができた。そして、地域とも連携をとりながら活動を進めた。
 地域に受け入れの状況がない場合の押し売り的なボランティアにこられると困る面がある。
中川 阪神・淡路大震災のときは、ボランティア受け入れの窓口がばらばらだった。行政や社協、NPOなどを含め「公民一本化」するということが、その教訓であったと思う。
会場から 被災初期に地域が自主的に動くということだが、そのためには、日常的には、どのようなことが必要か。
河合 地震が起きる二年前に、まちづくり協議会を立ち上げ、密集市街地の住環境をよくしようと活動に取り組んでいた。この間、公園や道路などのハード整備をしてきたが、そこに地震が起きた。まちづくり協議会があったから地震の時に動けた。この組織は、「まちをどうしようか」という話し合いの中でうまれたものである。
 やはり、日ごろの活動が重要だと思う。
 そして。いざという時に、リーダーの指示にしたがうことが大事で、そのためには、日ごろの人間関係が重要だ。
 日ごろの活動を通じてコミュニケーションを図り、まちづくりをしていくことだ。
 地域の人に動いてもらうには自分の住んでいるところが好きであり、誇りに思うことが一番である。「こうしたい」ということがあれば地域の人たちは動くのではなかろうか。
河合 まちづくりをこれまで漠然として進めてきたが、震災の経験からもっとやっていかないといけないと思った。そのために、地域のお母さんを大事にしたい。裏方で支えているお母さんたちが、認められるようにしようと考えている。そして、老いも若きも動ける環境になってきた。また、イベントなどを通じて、顔の見える関係にならないと若い人が、出てこない。祭りは裏方が楽しい。この楽しみを若い人たちに伝えてほしい。そして、継続していくことが大事だと思う。
中川 日本は、災害続きで、地震の活発期にも入っている、今日の話は明日にも使える知識がたくさんあったと思う。
 結論としては、ばらばらの人間が、一緒に住んでいるだけでは力にならない。地域の中で課題を共有するために、老いも、若きも、男も女も、外国人も、月に一度は、みんなで意見を出し合う、柔らかい場をつくらないと面識社会はできないということだと考える。